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ぞわぞわさん  作者: 大河 亮
第一章
8/37

7

 頭が痛い。これほど辛い風邪は久しぶりだ。島崎は布団の中でそう思った。風邪を引いたまま一日中聞き込みをしていたためか症状が悪化している。幸い今日は休みだ。寝る。これだけだ。しかし島崎の頭に昨日聴取した小林琳人の母親のことがよぎる。考えずには眠れないようだ。島崎は観念して思考を巡らせる。


 あの女は明らかに動揺していた。ぞわぞわさんの話が出た途端にだ。最初に警察署で話を聞いたときもそうだったのかもしれない。ぞわぞわさんについて何かを知っている。ぞわぞわさんが実在し人を殺したとは思わないが、火のないところに煙は立たない。この噂にも何かしらのルーツがあるのかもしれない。だとすればそのルーツを知ることによって、この事件の真相に近づくことができるかもしれない。


 眠ろうと思った島崎だが、次から次へと事件のことが頭に浮かんでくる。豊田夫人はどうだろうか。彼女にはアリバイがなく、夫の豊田龍彦に対しても不満があった。被害者の最も近くにいた人物ということを含めて、最有力の容疑者であることは間違いない。いつも同じ時間に同じ場所を通って帰るのを知っていたのだから、待ち伏せして殺害するのはそう難しいことではない。しかしいくら不満があったからといって、そう簡単に夫を殺したりするだろうか。もちろん世の中には夫を殺す妻は大勢いる。彼女がそうじゃないという保証は全くない。しかし彼女を見ていた限りそんなふうには見えなかった。これは島崎の勘であり根拠はない。だが彼女は違う。無視しろとは言わないが、張り付いてもこれといった進展はないだろう。


 小林琳人の目撃証言によると犯人は女。それ以外の情報はなし。豊田龍彦は木で周りからは見えない上に、利用者の少ない公園で殺害されていた。しかし遺体の状態から犯人は返り血をかなり浴びていると予想される。その状態で目撃情報どころか足跡などの痕跡すら見つからず、防犯カメラにも怪しい人物は映っていない。この町に住んでいる人間なら人目につかないように、防犯カメラに映らないように、あるいは警察の捜査について詳しい人間なら痕跡を残さずにというのも可能だろうが、だからといってこの町に住む警察関係者が犯人というのは安易すぎる。いくらなんでも人目につかず、防犯カメラに映らず、痕跡を残さずに逃げるのは無理だろう。そういった訓練を受けた者の犯行という線もあるが、いやないだろう。他の選択肢としては雨合羽等の濡れても染みない服を着ていてどこかに捨てた場合。それもないだろう。そんな物が捨ててあれば既に発見されている。あの公園にはトイレがないので、血まみれの雨合羽を洗うこともできない。やはり現在の情報量で犯人の目星をつけるのは不可能。島崎はなんとかそう判断し、ようやく眠りにつくことができた。


 ふと目覚めると窓から日光が差し込まなくなっている。今何時だろう。かなり眠っていたようだ。布団から出ずに携帯電話を探して手を振り回していると。「おはよう」「べぇぇん」いきなり目の前に江美子の顔が現れた。「今は夜の7時だよ。随分寝てたみたいだね」頭痛がしなくなったのは寝ていたおかげか、江美子に驚かされたせいか。少なくとも心臓が痛い程心拍数が上がっているのは江美子のせいだ。悔しかったので島崎はもう一度目を閉じる。しかしその時グゥと腹の虫が鳴った。朝から何も食べていないせいだ。また江美子がケラケラ笑っている。人前で腹が鳴るなど何年ぶりか。島崎は恥ずかしさのあまり顔が赤くなった。「ご飯食べよう。お粥作ったから」やはり敵わない。


 島崎には江美子のお粥は何よりも美味しく感じられた。空腹だったことと体調が回復したことも大きかったが、江美子が作ったお粥というのが最大の理由だ。江美子のことを縛り付けていると考えた島崎だったが、江美子が変わらず夕飯を作りにきてくれたことが素直に嬉しかった。江美子からはこの前感じた悲壮感はない。きっと自分の勘違いなのだろう。そう思うことにした。江美子はいつもより小さな声で話した。島崎としてはもう頭痛はしないのでいつも通り話してくれてよかったのだが、江美子の気遣いが嬉しい。いつもは右から左へ受け流すようにしか聞いていなかった江美子の話が、今日はしっかりと聞こえ心に響いていた。いつもこんなに楽しい話をしてくれていたのか。自らも江美子に何か話をしないといけないと思い。「なぁ、ぞわぞわさんって知ってるか」思わずそう口にしていた。殺人事件に関係することを質問してしまっている。島崎は少し動揺していた。「ぞわぞわさん?何それ教育番組のキャラクターか何か?」江美子が知らなかったのが救いだった。「そうなんだ。最近ちょっと流行ってるらしくてな。どんなのか知ってるかと思ったんだが」江美子は微笑みながら聞いている。自分がこんな話をするのが珍しいからだろうか。島崎が考えていると。「無理しなくていいよ。事件と関係あることなんでしょ」微笑みながら言う江美子に島崎は俯く。「秀ちゃんは教育番組のことを私に聞いたりしないよ」嘘をついてしまった。島崎は罪悪感で一杯になる。第一に事件に関することを江美子に話すということは、江美子を事件に巻き込むことだとも言える。それは刑事以前に人として失格だ。島崎はそう思った。「でもありがとう。嘘をついてくれて」何を言っているのか島崎には理解できなかった。嘘をつかれて礼を言うなんて聞いたことがない。島崎が困惑していると。「私を心配して嘘ついてくれたんでしょ。ぞわぞわさんのことを聞いたのは、私に何か話をしようと思って咄嗟に言っちゃったからでしょ。だからありがとう」どこまでも見透かされている。微笑んでいる江美子にそう感じた島崎。「すまん」島崎は力なくそう言った。江美子はケラケラ笑っている。「大丈夫だよ。秀ちゃんがお話苦手なのは知ってるから。そんなに落ち込んでもぉ。また風邪引いた?」江美子は冗談で済ませるつもりのようだ。ならばと思い島崎も。「なんだよそんなに笑うなよ。心配して損した」本当は笑ってくれたことに感謝していたし、今だって心の底から心配している。それでも江美子がそう言うならそれでいい。江美子が笑うならそれでいい。島崎にとってもそれが最善に思えた。


 結局それ以降島崎から話を振ることはなかった。それでも江美子は終始笑顔だった。夕飯を食べ終えると江美子が居間から薬を持ってきた。島崎は黙って従う。「今日は湯船には浸からない方がいいね。汗だけ流して」そう言って江美子は洗い物をし始める。島崎はまた黙って従う。風呂から出ると江美子が帰り支度を済ませて待っていた。「じゃあね秀ちゃん。もし明日も体調が悪かったら休みなよ。鍵は閉めとくからゆっくり休んでね。おやすみ」そう言って玄関へ向かった江美子。いつもなら玄関まで見送る島崎だが、今日は小さく手を振るだけで居間に戻った。ガチャという音を確認すると娘の遺影に向かって。「おやすみ。加奈」と言って仏壇の戸を閉めると電気を消して目を閉じた。一日眠っていたからなかなか寝付けないだろうと思いながら。


 気づいたときには窓から日が差し込んでいた。一瞬で眠っていたようだ。頭痛がしないので最高に気分がいい。江美子の心配は杞憂に終わった。まだ起きるには早い時間だったが、起きてしっかりと朝食をとることにした。朝食を終えると一応薬を飲み仕事に向かう。いつもの風景はやはりいいものだ。ふと江美子の笑顔を思い出す。自分では彼女を笑顔にすることはできないが、彼女が笑う場所を守ることはできるはずだ。そのためにも殺人犯を捕まえる。全力で捜査を続けてみせる。そう胸に誓った。自分の机の前に到着すると座って捜査資料を読んだ。豊田夫人に目立った行動なし、聞き込みによる進展なし、凶器未だに発見できず、有力な情報提供なし、総合的に進展なしだ。島崎の予想していた通りだった。「おはようございます」急に後ろから元気な声がした。生嶋だ。顔色がいい。「おはよう二日酔い」また冗談混じりに挨拶を返す島崎。「二日酔いじゃないですよぉ」いつものようなやり取りにほっとした様子の生嶋だったが、座って捜査資料を読むと。「全然進展がありませんねぇ」そう言って溜息をついた。「今日、明日で解決できない事件は多いんだ。だったら根気よく情報を集めるしかねぇよ。現場にもまた行ってみるぞ。捜査の基本だ」島崎の言葉に生嶋は微笑みながら。「出ましたねぇ捜査の基本」そんなに言ってるのだろうかと島崎は思ったが、生嶋のやる気を出すことには成功したようなのでよしとする。聞き込みと現場検証を続ければ必ず犯人に辿り着ける。島崎はそう確信していた。


 しかし島崎の考えとは裏腹に全く捜査は進まなかった。そして事件発生から一週間後。新たに遺体が発見された。

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