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ぞわぞわさん  作者: 大河 亮
第一章
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5

 島崎が帰り道を歩いていると。「こんばんは」急に女性に声をかけられた。見覚えがある。島崎は目の前の自分より少し年上であろう女性にそう感じた。「こんばんは」とりあえず挨拶を返す。どちらにせよこれでこの女性との掛け合いは終了だろう。島崎の考えは甘かった。そこから女性は仕事は忙しいか、最近近くで殺人事件があったが捜査は進んでいるのか、寒い日があったり暖かい日があったりで体調を崩していないか、自分は崩した、近所の子供が元気、この前江美子と話した等話が次から次へと出てきた。島崎の酔いは完全に醒めてしまった。しかし話をするうちに彼女が誰かはわかった。高橋さんだ間違いない。殺人事件のことを知っているし、これだけの話好き、そして何より最近江美子に会ったという供述。島崎は話が途切れたところで。「それじゃあ私はこれで。高橋さんも体調には気をつけてくださいね」「すみません私向かいの井上ですけど」「あぁんー」素直に謝ればいいものを、謎の声を島崎が発したせいで二人の間にはとんでもなく微妙な空気が流れた。永遠にも感じられる時間が二人の間を流れたが島崎は唐突に。「おやすみなさい」そう言って背を向けた。背後からおやすみなさいという声が聞こえるが、島崎は決して振り返らなかった。向かいの家なので本来帰り道は一緒だが、島崎は相当な遠回りをして帰ることにした。


 相当な遠回りのせいで一日の疲れが増した島崎。しかしあのまま一緒に帰るのは不可能だ。疲れた体で玄関の鍵を開けた時に島崎はあることに気づいた。格子戸のすりガラス越しに人影が見える。絶対に江美子だ。また島崎を驚かそうと電気をつけずに玄関の前で待っているのだ。島崎が開けた瞬間驚くという算段だろう。しかし江美子の誤算は夜で周りが暗くても、より濃い影は見えてしまうというのを忘れていたことだ。いつも驚かされている島崎は笑うのを堪えながら、手だけで引き戸を開けて自分は二枚重なっている引き戸側に身を隠していた。すると二枚重なっている引き戸がガラッと一気に開いて。「おかえり」「ぶぅーん」そこにしゃがんでいたのは笑顔の江美子だった。「遅かったね」まだ息の整わない島崎はその一言に返事ができなかった。江美子は相変わらず嬉しそうだ。ようやく落ち着いてきた島崎は。「なんでここにいるんだよ」それを聞いた江美子は意地悪な顔で。「失礼な。秀ちゃんのご飯作ってあげたのにそんな言い方って」「いやそうじゃなくて影が」それを聞いた江美子は意地悪な笑顔のまま立ち上がり、格子戸から人型に切った人間大の黒い紙を剥がして。「すごいでしょう」嬉しそうに笑ってみせた。完敗だ。


 ケラケラ笑う江美子と共に家の中に入っていく島崎。その顔はいつも通りしかめっ面だ。「悪趣味なんだよ」島崎の一言に江美子は笑いながら。「あれでも苦労したんだよ。画用紙を何枚か貼り合わせてから人型に切ったんだから。私の家の近所で切り絵教室やってるからそこでやったんだけどね」自由すぎる切り絵教室な上に、まずあれは切り絵ではないのではという疑問を島崎は抱いた。あまりに悔しかったので、江美子の目を避けるため洗面所に手を洗いにいった。


 夕飯を二人で食べていると江美子が。「今日一緒にいた女誰よ」いきなりだったので島崎は味噌汁を吹き出しかけた。「何言ってんだ。ガイシャの嫁だよ」必死に弁明する島崎を見てまた笑う江美子。何故か毎度驚かされる。江美子の演技力の高さだろうか。そんなことを島崎が考えていると。「綺麗な人だったね。色白で細かったし」確かに色白で細い体躯の女性だったがそれには理由がある。島崎は少し眉間に皺を寄せながら。「違う。あの人は旦那が死んだショックで痩せちまったんだよ」それに対して江美子は口を尖らせながら。「確かにそうかもね。でも痩せて見えたのは喪服だったからだと思うよ」「はぁ?」本当に意味がわからない。島崎はそう思った。「知らないの?黒い服って細く見えるんだよ。でもその奥さんが大変だったのはほんとだと思うし、適当なことは言えないけどね」五十四年生きてきたが島崎は本当に知らなかった。と同時に昔の江美子の姿を思い出していた。「そういえば若い時はお前もよく黒い服着てたな」「どういう意味かな?」地雷を踏んだ。悪気は本当になかった。江美子はまた笑顔を見せているが今回の笑顔は違う。島崎は目を逸らして味噌汁をすすった。


「でも怖いよ。近所で殺人事件が起きるなんて。もしかしたら自分か知ってる人が犠牲になるかもしれないし」江美子の言う通りだと思った。まだ犯人は捕まっていない。それどころか手掛かりすらほぼない。犯人がもし無差別連続殺人を計画していたとしたら、次の被害者は江美子という可能性も十分にある。怖いのは当然だ。だが安易なことは言えない。俺が捕まえてやるから安心しろとは言えなかった。島崎はこれまで何件も殺人事件を捜査してきたが、殺人犯を自らの手で捕まえたことは一度もなかった。逮捕したことがあるのは暴れていた酔っ払いや、喧嘩していた輩だけだ。もちろんそういった人達を取り締まるのも警察官として大切な仕事と理解しているし、殺人犯に手錠をかけていないだけで、逮捕に貢献する捜査は行ってきたという自信もある。しかし一般市民にとっては犯人に手錠をかけた者が良い刑事で、それ以外は無能な刑事という見方かもしれない。そう島崎は考えていた。「まだ殺人と決まったわけじゃないよ」気休めにしかならないだろうが事実を言った。しかし江美子はキョトンとした顔をして。「でも一昨日殺人事件のこと聞いたら否定しなかったよね」そうだった。確かに否定しなかった。島崎自身既に殺人事件だと思っていたからだ。まずいどうしよう。島崎が心の中で頭を抱えていると。「大丈夫だよ。島崎巡査部長は優秀な刑事さんだから、また事件を解決してくれるよ」またいつものようにからかわれているのだろうか。目の前の江美子は微笑んでいる。真意は掴めない。しかし島崎はどうしても気恥ずかしくて。「巡査長じゃねぇのかよ」その言葉に江美子はしまったという顔をしながら。「あー間違えた巡査長だった」「いや、間違いじゃないから」二人は同時に吹き出して笑った。島崎としては江美子の不安が少しでも和らいだのなら良かったという思いだった。


「お風呂入れとくね」夕飯を食べ終えていつものように居間で寝転がっている島崎に、江美子がそう告げる。もう江美子は家に帰るのだ。「風呂入ってけよ」島崎は自分の言葉に驚いた。思わず口から出た言葉は、泊まっていけというニュアンスを多分に含んでいる。だったらせめて素直に泊まっていけと言えばいいのに、なんでよりにもよって風呂を勧めた。島崎は恥ずかしさと焦りで焦点が定まらない。また江美子に笑われる。そう思って彼女の顔を見ると、不思議なことに少し悲しそうな顔をしている。島崎は血の気が引くような思いだった。しかし江美子はすぐに意地悪な笑顔を浮かべ、自分の体を抱きしめながら。「エッチ」と言った。普段なら恥ずかしくてたまらないところだが、さっきの江美子の表情が気になってそれどころではなかった。「秀ちゃんもそんな冗談言うんだね」冗談。江美子はそう受け取ることにしたようだ。考えてみれば離婚した奴の家に泊まるなんてありえない選択肢だろう。島崎はそう思い。「俺をなんだと思ってんだ。それに五十にもなってなにがエッチだこの野郎」「ひどい。まだ四十九歳だよ」二人とも笑顔だったが、二人の間には深い溝があるのだと島崎は痛感した。


 冗談じゃない。そう言えればどれほど楽だろうか。江美子が帰りひとりぼっちになった島崎は、酒の肴にそんなことを考えていた。しかし江美子は望まないだろう。自分のわがままで江美子に嫌な思いをさせてはいけない。江美子は決して表には出さないが、自分のことを恨んでいるだろう。お前のせいで加奈は死んだ。今日は正にそれを突きつけられた気がした。それでも夕飯を作りに来てくれている。自分が江美子を縛り付けている。そう思えてならなかった。仏壇に置いてある加奈の遺影を手に取って眺める。写真の加奈は笑顔だ。なんの屈託もない。だが加奈だって死の間際、いやもっとずっと前から屈託のない笑顔など無かったのかもしれない。きっとそうだ。そして父を恨みながら死んでいったんだ。今自分は殺人犯を追っている。毎日聞き込みをして回っている。これまでもそうだった。凶悪な犯人達を何度も何度も追い掛けた。しかし自分こそが最も凶悪な存在なのではないか。だとすると今感じている感情の全てが自分への罰なのだろうか。島崎はコップに日本酒をなみなみ注ぐと一気に飲み干した。そして服を乱暴に脱いで洗濯機に放り込むと風呂に入った。頭に血液が集まるような感じがする。明日も豊田龍彦殺しの犯人を追い掛ける。懸命にただひたすら懸命に。絶対に人を殺したことを後悔させてやる。自分への罰を全て犯人にぶつけるような思いを胸に抱きながら風呂から上がり早々に眠りについた。

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