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ぞわぞわさん  作者: 大河 亮
第四章
32/37

7

 松井はいつまでもネチネチと言っていた。元々島崎が悪いので仕方のないことではある。それでも島崎は帰宅するときにはぐったりとした気分だった。怖いものはない。だがもう二度と御免だと思った。


 そんな気持ちの中家に帰ると、また玄関の電気がついている。二日連続で江美子がいるのも珍しい。玄関の戸を開けて家の中に入った島崎は。「ただいま」またそう言った。「おかえり」江美子もまた同じように台所から出てきた。昨日の晩と同じやり取りだが気分がいい。ただいまと言ったとき、おかえりと返ってくる。随分長い間忘れていた感覚だった。こんな気持ちになれるならもっと言っておけばよかった。江美子はずっとおかえりと言ってくれていたのだから。今回も気付くのが遅かった。それでも気付けてよかった。


 江美子が作った夕飯を食べながら江美子の話を聞く。いつも通りの時間が流れている。いつもは聞いているのか聞いていないのかわからないような態度の島崎だが、今日はしっかりと聞いていた。心なしか江美子の声もいつもより楽しそうな気がする。しかしいつもこれだけたくさんの世間話を持っているのはすごいと単純に感服する島崎。「そういえば最近お母さんの調子はどうだ」話が切れた合間で島崎は江美子の母親のことを聞いた。もう1ヶ月程会っていない。「元気だよ。秀ちゃんのこと私に聞いてくるよ。でも最後には別にどっちでもいいんだけどって興味無さそうに冷たく言うの。昔から優しい人だからねぇ。娘が言うのも変か」そう言って江美子は笑う。島崎は少し目頭を熱くさせられたが、江美子に習って少し笑いながら。「嘘つけぇ。どうせ俺の悪口ばっかり言ってるんだろう」敢えてそんな態度をとった。江美子も笑いながら。「それもほんとだけどね」こんなときでも真意の掴めない奴だと島崎は思った。


 それからも島崎は江美子の話をしっかりと聞いた。パート先のスーパーの話、最近よく低い段差に躓く話、家の近くにできたレストランが美味しいと評判という話、甥っ子が将来は刑事になりたいと言っている話、家の電球が切れてしまったが、高い場所なので取り替えるのが大変な話、従姉妹の娘が今度島崎にも挨拶したいのでみんなでご飯を食べようと言っているという話。一語一句聞き逃さないように。江美子との会話をしっかりと胸に刻み込むように。島崎は江美子の話を聞きながら涙を堪えるのに必死だった。でも涙は見せられない。自分のためだけじゃない。もう江美子に心配をかけてはいけないと思った。今日も何の変哲もない元夫婦の会話で終わらなければならない。そう思った。


 夕飯を食べ終えた島崎は小さく頷くぐらいのお辞儀をしてから居間で寝転がった。座布団の下にブーブークッションがあるのはわかっていたが、気付いていないフリをして引っかかり。「うわっ」小さく驚いたフリをする。それを見た江美子は一呼吸置いてからケラケラと笑いだした。よかった江美子が笑ってくれた。島崎は江美子に感づかれないようにしかめっ面をしてからもう一度座布団の上に寝転がる。


 離婚して江美子が家から出ていった日、島崎はひとりぼっちになったと思った。もう誰一人として島崎秀幸を刑事として以外必要としないと。確かにそれも一つの生き方ではある。だが当時既に島崎はあと10年程で引退の身だった。刑事ですらなくなるまでもうあまり時間は残されていなかった。そうなってしまえば島崎に残るのは家族と過ごした家と思い出だけになってしまう。そんな余生に一体なんの意味があるというのだろうか。だから江美子が夕飯を作りにきてくれて本当に嬉しかった。最初のうちは何故別れた旦那にそんなことをするのか。何故離婚したのかと気になったが、途中からそんなことはどうでも良くなってしまっていた。今だからこそ後悔もある。江美子の本心は一体どうだったのだろうか。本当のところは自分が会いにいかないと、島崎が死を選ぶかもしれないと思っていたのではないだろうか。だが結局江美子は島崎に本心を悟らせなかった。時々そんなことを考えていたが、江美子がいてくれることが嬉しくてたまらなかった。いつも夕飯を作りにきてくれて。いつもおかえりと言ってくれて。いつも側にいてくれて。苦労をかけっぱなしだった。それに対して恩返しどころか素っ気ない態度を取り続けた。一言でも礼を言うことができなかった。単純に礼を言うのが気恥ずかしかったというのもあるが、言ってしまえばこの関係が終わってしまうような気がしていた。だがもう怖いものはない。もしこの関係が終わってしまうのだとして、寂しいことはあっても怖いということはない。島崎はそう思った。


「お風呂入れとくね」江美子はいつも通りだ。風呂を沸かしている間に洗い物をしてくれている。もうじき帰宅する頃だ。意外と晴れやかな気持ちだ。男性は統計的に失恋した直後は晴れやかな気持ちになって、その後段々落ち込んでいき引き摺る傾向にあるらしい。もちろん個人差はあると思うし女性でもそういう人もいるだろうが。それに近い気持ちなのだろうか。離婚した時はそんなことを感じる余裕もなかった。もしそうならこの後段々落ち込んでいくのだろうか。別に構わないが。ただこうして洗い物をする江美子の姿を目に焼き付けておこう。島崎は江美子の後ろ姿をじっと見つめていた。


「じゃあ秀ちゃん、私帰るから」洗い物を終えた江美子が島崎にそう告げる。遂にその時がきたか。島崎はゆっくりと立ち上がり、江美子を見送るため玄関に向かう。玄関で靴を履く江美子はまた片足立ちになっている。またバランスを崩すんじゃないかと心配になったが、何事もなく江美子は靴を履き終えた。やはり心配いらない。どこまでもしっかり者の江美子。そう思えた。「じゃあ秀ちゃん。明日もお仕事頑張ってね。無理はしないでね」そう言った江美子に島崎は。「ああ、気を付けてな。ありがとう」ようやく言えた。江美子を心配させてはいけないので重々しくは言わなかったが、それでもありったけの思いは込めたつもりだ。これまでの感謝の気持ち。自己満足以外のなにものでもないが江美子に渡す。だから受け取ってくれとは思わない。自らの清算だから。島崎のありがとうを聞いた江美子は珍しく島崎から一瞬目を逸らした。だがまた目を合わせるといつもの笑顔で。「明日もご飯一緒に食べよう。夕飯作って待ってるから」島崎は笑顔を見せたが決して頷かなかった。


 江美子が帰り一人になった島崎は、箪笥の中から葉書を一枚取り出した。年賀はがきだがまぁいいだろう。いや駄目か。もう一度箪笥の中を探し普通の葉書を取り出す。文章は既に考えてあったのですぐに書き終えた。後は明日ポストに投函するだけだ。


 それからゆっくりと風呂に入りさっぱりとした島崎は、お茶の入った容器から直接お茶を飲んだ。また零すかもしれないと頭によぎったが、今日は零すことなく上手く飲むことができた。明日はいいことがありそうだ。そう思いながら一人でほくそ笑んでいた。布団を敷き寝る準備を整えた島崎は、加奈の仏壇の前に座ると目を瞑り手を合わせた。色々な思いが溢れた。楽しいことも悲しいことも色々なものが。しばらく手を合わせた後目を開ける。明日への決意はより強固なものになった。明日全てが終わる。それがどんな形かはわからないが間違いないだろう。「おやすみ。加奈」島崎は仏壇の戸を閉めるとすぐに眠ってしまった。

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