Part.25:戦略的逃走、或いは
「……ねぇ、どうしようタケル兄ちゃん。なんか、別の意味で誘いづらい雰囲気になっちゃったよ?」
ハルが顔を赤らめ、そわそわとした様子でタケルの袖を引いた。無理もない。小学生の彼らにとって、大人の男性がこれほどまでに感情を剥き出しにし、女性と深く抱き合っている光景は、刺激が強すぎるというか、もはやどう声をかけていいか正解が見つからない未知の領域だった。
「……あ、ああ。そうだな」
タケルも短く答えるのが精一杯だった。かけるべき言葉が見つからないのは、彼も同じだ。
その時、主人の腕の中で再起動を終えたイリスが、静かに、しかし明晰な声で口を開いた。
「……マスター。お言葉ですが、子どもたちが困惑しています。客観的な状況として、現在の私たちは、社会一般的には極めて『恥ずかしい』部類の体裁を晒していると思われます」
「……そんなの、知るもんか。今はそれどころじゃ……」
カズキはそう言いかけたが、イリスの冷静な指摘に、ようやく現実の感覚が戻ってきたようだった。
「……いや、確かにそうだね。……ごめん、みんな」
カズキは名残惜しそうにイリスの身体から顔を上げ、照れ隠しに軽く咳払いをした。外に出る決意を固めた以上、いつまでも二人の愛の世界に溺れているわけにはいかない。
「ごめん、タケル君。キャンプの話だったよね。正直、外がどうなっているのか、君たちがどうやってここに来たのかはまだ呑み込めていないんだけど……。とにかく準備をするから、少し家に上がって待っていてくれないか?」
カズキが立ち上がろうとした、その瞬間だった。 隣で跪いていたイリスが、機械的な機敏さで即座に反応した。
「その必要はございません、マスター」
「え?」
「想定されるリスクを回避する最適な行き先の選定、キャンプに必要な荷物一式のパッキング、移動手段である自家用車の整備及び燃料補充……。これら全て、既に滞りなく実施済みです」
イリスは汚れ一つないスカートの裾を払い、淀みのない完璧な動作で立ち上がった。
「マスターが最小限の着替えを済ませれば、今から3分15秒後には出発可能です」
その圧倒的な手際の良さに、子どもたちは「ぽかん」と口を開けて驚いた。
「イリスさん……。さっきまで、あんなにカズキさんを外に出したくないって言ってたのに……」
ミサキの素朴な疑問に、イリスはどこか誇らしげに、顔の右半分で薄く微笑んだような表情……それはあくまで表情筋の微細なプログラムによるものだが、を見せた。
「おや、そうでしょうか?私は『ほとぼりが冷めるまで』と申し上げました。私は貴方様方のお母様とは違います。私が『ほとぼりが冷めるまで』と言った時は、文字通り『その条件が満たされるまで』という期限付きの保留を意味します。そこに『永遠に禁止する』という隠された意図は含まれません」
イリスの言葉は、大人が使う曖昧な言葉に対する、彼女なりの鋭い批判でもあった。
「そして、マスターから以前にいただいた『キャンプの準備をしてくれ』という命令に対するキャンセルは受領しておりませんでした。……主人の命令を遂行することは、私の存在意義です。であれば、当然、準備は万端です」
相変わらず、彼女は理屈っぽくて、融通が利かなくて――そして、世界で最も有能で忠実な、カズキだけの従者だった。
「……よし。行こう」
カズキが力強く頷く。
イリスがハンドルを握るカズキの自家用車は、滑らかに「開かずの家」のガレージを滑り出した。
長らく車庫に眠っていたはずの車だったが、イリスが豪語した通り、そのエンジン音は驚くほど静かで力強かった。埃一つないダッシュボードや、きしみ一つない足回りが、彼女がこの日のために人知れず積み重ねてきた完璧な整備を物語っている。大人二人と子ども四人。車内は流石に窮屈ではあったが、それが逆に、運命共同体としての奇妙な一体感を生んでいた。
最後列に座るタケルは、窓の外を血走った目で見回していた。あの静かな住宅街で、あんな大声で口論し、あまつさえ(おそらく)初めてガレージのシャッターが開いたのだ。騒ぎを聞きつけた近隣の住人や、例の見回りの親たちがいつ現れてもおかしくない。
もし今、誰かに立ち塞がられれば、このささやかな「脱出」は一瞬で瓦解する。手に汗を握り、心臓の鼓動を噛み殺すタケルの横顔を、助手席のカズキは何も言わずに静かに見守っていた。
「……そうか。そんなに変わった……いや、情熱的な先生がいるんだね」
道中、ハルから改めて現状の説明を受けたカズキは、ぽつりと感想を漏らした。
「君たちもそうだけど……。僕なんかのために、大人がそこまでリスクを冒して動いてくれているなんて。正直、まだ現実感が湧かないよ」
ハルが「シミズ先生はかっこいいんだぞ!」と誇らしげに語る声を、カズキは微笑みながら聞いていた。だが、その微笑みの裏側で、彼の胸にはある「違和感」が去来していた。
それは、先ほどタケルの張り詰めた表情を見た時から、彼の喉の奥に、まるで魚の小骨のようにチクチクと引っかかっている鈍い痛みだった。
(……僕は、これでいいんだろうか)
誤解だったとは言え、イリスが自分を守るために戦い、システムを焼き切るほど苦しんだ。タケルたちが親に嘘をつき、監視の目を盗んでここまで来てくれた。そして見ず知らずの教師までもが、自分の職を賭けるような真似をして時間を稼いでくれている。
今の顔になってからのカズキにとって、世界とは「自分を拒絶し、傷つけるもの」だった。だから、イリスという唯一の理解者に縋り、彼女が提供する安寧の殻に閉じこもることは、彼にとって当然の生存戦略だったのだ。
だが、目の前の少年たちはどうだ。 自分以上に怯え、震えながら、それでも「友達だから」という、ただそれだけの理由で、外界という戦場に身を投じている。
(みんなが、こんなにも僕を想って動いてくれている。……なのに僕は、またイリスにハンドルを握らせ、誰かが用意してくれた道を通って、ただ逃げるだけでいいのか……?)
その問いは、飲み込もうとすればするほど、鋭く喉に刺さった。守られるばかりの、無力な「マスター」のままでいいのか。誰かに安寧を与えられるのを待つだけの、弱々しい「オバケ」のままでいいのか。
カズキの視線が、フロントガラスの向こう、陽炎に揺れるアスファルトの道を見つめる。
「あと十分程度で、高速道路のインターチェンジに進入します。一度入ればしばらくは降りられませんので、そのつもりで承知おきください」
前を見据えたまま、イリスが淡々と告げた。 その声はいつも通りの無機質な業務報告だったが、今のカズキの耳には、それが重い「最終確認」のように響いた。
(本当によろしいですね? このまま、この街のしがらみから逃げ出しても)
そう問いかけられているような気がした。 カズキは拳を握りしめ、流れていく景色を凝視した。胸の奥に刺さった「魚の小骨」が、激しく疼いている。
……やはり、このままではダメだ。
心優しき友人となってくれた子どもたちに対し、恥じない背中を見せられる「人生の先輩」として。 この土地に居を構え、生きる覚悟を決める、自立した一人の人間として。そして何よりも――。 彼女を傷つけた自分をなおも愛し、寄り添い続けてくれたイリスという、かけがえのないパートナーの「主人」として。
ただ外に出るだけでは、何も解決しない。誰かに肩を支えられ、誰かが用意した道を通って逃げるだけでは、結局は「安寧の箱庭」の場所を移動したに過ぎないのだ。今の彼に必要なのは、支えなしに自分の足でしっかりと立ち、この泥臭い現実の地面を力強く踏みしめることだった。
「……イリス」
カズキの声は、これまでになく静かで、それでいて鋼のような硬い意志を秘めていた。
「どうなさいましたか、マスター。体調に異変が?」
「いや。……目的地の変更を頼む」
車内の空気が、一瞬で凍りついた。 後部座席にいたタケルが、息を呑んでカズキの横顔を見つめる。
「変更……? キャンプ場じゃないんですか?」
「ああ。……今からキャンプに行っても、きっと僕は心から笑えない。それでは、イリスが用意してくれた『安寧』の定義に反するだろう?」
カズキは、バックミラー越しに自分を見つめるイリスの電子の瞳と、真っ向から視線をぶつけた。
「キャンプの前に、行かなければならない場所があるんだ。僕が僕であるために、そして、僕を信じてくれているみんなの『正しさ』を証明するために」
カズキは、はっきりとその場所を口にした。そこは、自分を拒絶し、自分を「怪物」と呼んだ親たちが集まる、彼にとって戦場とも言える場所だ。
「……行き先を、シミズ先生のいる高校に変えてくれ。裏口からこっそりじゃない。正面から、堂々と乗り込むんだ」
イリスの指先が、わずかにハンドルを握りしめた。 彼女の論理回路は、その提案を「極めて高リスク」と即座に弾き出している。だが、彼女は反論しなかった。主人の瞳に宿った、かつてないほど気高い輝きを、彼女のシステムは正しく「最適解」として受け取ったのだ。
「――承知しました、マスター。推奨ルートを再検索します。……針路変更。目的地、市立高校」
車が大きく左へ舵を切る。それは、過去との決別、そして未来を勝ち取るための反転だった。
お読みいただきありがとうございました。
既に執筆の方は全て完了しておりますので、
最後まで週2回程度のペースで更新していこうと思います。
もしよければお付き合いいただければ幸いです。




