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Part.24:王子様の口づけ

パチンッ!!!!

だが、その時、真夏の湿った空気を切り裂いて、乾いた衝撃音が庭先に響き渡った。タケルの右手が、ハルの頬を鋭く叩いていた。

「……何するんだよ、兄ちゃん!!」

頬を赤く染めたハルが、信じられないものを見る目でタケルを睨みつける。正直、叩いた当の本人であるタケル自身、なぜ体が動いたのか、その論理的な説明はできなかった。

「お前に何がわかるんだ」という憤りか、「女性(の姿をしたもの)を言葉で追い詰めるな」という倫理性か、あるいは「正しいからといって、すべてを暴いていいわけじゃない」という直感か。

だが、その無骨で意味不明な「人間の暴力」は、皮肉にも暴走寸前だったイリスの電子回路を冷却する効果があった。激しく明滅していた彼女の左目が、元の静かな青色へと戻っていく。

「……もう一度だけ、申し上げます」

イリスは、平坦だが鋼のような重みを取り戻した声で依頼をした。

「退去をお願いします。……どうか、私がカズキ様の前で『物理的排除』という手段を取らなくて済むよう、心からお願いを申し上げます」

それは最後の通告だった。最新式アンドロイドがその気になれば、子どもたちを追い払うことなど造作もない。タケルたちが言葉を失った、その時だった。

部屋の奥から伸びてきた白い腕が、背後から優しく、包み込むようにイリスの体を抱きしめた。

「……っ!?」

イリスの肩が微かに跳ねる。だが、その温もりの正体を理解した瞬間、彼女の全身から不自然な緊張が抜けていった。そんなことができる人間は、この広い世界にたった一人しかいない。

「……イリス。本当に、ありがとう」

声の主は洗面所から戻ってきたカズキだった。子どもたちの怒鳴り声、そして何より、自分を呼ぶイリスの「悲鳴」を聞きつけて、彼は戻ってきたのだ。カズキはイリスの背中に顔をうずめ、慈しむように、そして祈るように彼女を抱きしめ続けていた。

「マスター……。私は、私はただ、マスターのために……」

先ほどまでの刺々しさは消え、イリスの声は一気に、甘えるような柔らかいものへと変質した。 彼女は、背中から伝わる主人の鼓動と体温を、システムのすべてを使って受容していた。

その時。イリスの肩越しに、タケルとカズキの視線が、わずかに交差した。

タケルは息を呑んだ。カズキの表情には、安堵など微塵もなかった。そこにあったのは、これから自分が口にするであろう言葉の残酷さを、誰よりも自覚している者の顔だった。自らの安寧を壊し、自分を愛するアンドロイドの論理を裏切らなければならない……。その決意の重さに、カズキの顔は、耐え難い苦痛で歪んでいた。


カズキの声は、魂を削り出すような苦悶に満ちていた。背後からイリスを抱きしめるその腕には、縋るような力強さと、突き放すような絶望が同居している。

「……イリス、ありがとう。本当に、感謝しているんだ。……でも、どうか許してほしい。君の論理を、また僕が否定しなければならないこと……本当に、心苦しいよ」

「マスター……?」

イリスの合成音声に、戸惑いのノイズが混じる。 カズキは彼女の背中に顔を押し当てたまま、絞り出すように続けた。

「恨んでくれていい。二度目も許してくれなんて、虫のいいことは言わない。……でも、僕は。僕は……やっぱり、外に出たいんだ」

『二度目』。 傍らで息を呑むタケルたちには、その言葉の真意はわからなかった。 だが、イリスのメモリーバンクは、その言葉が指し示す忌まわしい記憶を、瞬時に最前面へと引き出した。



それは、まだイリスの顔に傷一つなく、逆にカズキの心が今ほどまでには癒されてはいなかった、あの日。

「高レベルな共感機能? 家事ロボット風情が笑わせるな!」

事故の絶望に荒れ狂っていたカズキは、医師からの強い勧めにより医療・介護用アンドロイド、"MAU-2502"型を家庭に迎えていた。

だが、彼はいざ慰めようと差し伸べられたイリスの手を、全力で払い除けた。

「一体その、人形みたいに美しい顔の君に、僕の何がわかると言うんだ!?」

それは、献身を誓ったアンドロイドに対する、最も残酷な拒絶だった。「お前など役立たずの不良品だ」という烙印。当時の彼女は、表情筋のプログラムを動かすこともなく、ただ静かにその拒絶を受け止めた。しかし、電子の深淵で、彼女の存在意義は間違いなく深く傷ついていたのだ。

だからこそ、彼女は自ら顔を壊した。主人と同じ傷を負うことで、「理解できない」という壁を壊し、完璧な共感者になろうとした。



そして今。イリスが「悟り間違えるなどあり得ない」とまで豪語し、自らのアイデンティティとしてきたその共感機能が、「二度目の過ち」を犯したことを、主人自らが宣告したのだ。

もちろんカズキの言葉に、責める色は微塵もない。むしろ、最愛の存在を裏切る申し訳なさに満ちていた。だが、イリスにそれを察する余裕はなかった。

『マスターは外界を拒絶している』という彼女の演算結果と、『外に出たい』という本人の意志。 その致命的な乖離(バグ)が、最新式アンドロイドの論理回路に、修復不能な深刻なエラーを発生させてしまった。

「あ……あ、あ…………」

イリスの身体から力が抜け、膝が音を立てて床に折れた。 カズキの腕をすり抜け、彼女はその場に力なく崩れ落ちる。

「そんな、私は……私は、マスターの……カズキ様の……全てを、理解していたはずなのに……」

虚空を見つめる彼女の左目から、青い光が弱々しく点滅し、やがて消えかかる。完璧な看護師、鉄壁の守護者としての誇りが、主人のたった一言によって、音を立てて瓦解していった。



崩れ落ちたイリスの身体を、カズキは間一髪のところで跪いて支え止めた。

その姿は、痛ましかった。 激しく明滅していた瞳の光は完全に消え失せ、全身の駆動モーターからは全てのテンションが抜け落ちている。高負荷計算によるフリーズを超えた、完全なシステムダウン。 かつてあれほど完璧な献身を誇った最新式アンドロイドは今、ただの重たい「人形」と化して、主人の腕の中でぐったりと折れ曲がっていた。

瞳から光が消え、無防備に放り出された四肢。 その無残な姿は、ある種の嗜虐的な美しさすら湛えており、もし悪趣味な観測者がいれば歓喜したかもしれない。だが、カズキにとっては、それこそが自分が彼女に与えてしまった絶望の深さそのものだった。

「イリス……。ごめん、本当にごめん。でも、聞いてほしいんだ」

動かなくなった――いや、彼自身の言葉が動かなくしてしまった従者の身体を、折れそうなほど強く抱きしめながら、カズキは囁いた。

「君が誇りに思っていた『共感』はね、必ずしも完璧な『理解』を伴わなきゃいけないわけじゃないんだよ。……たとえ相手が何を考えているか分からなくても、どんなに矛盾していても、その存在をそのまま受け入れること……それが、一番必要なことなんだ」

カズキは彼女の冷たい鋼の耳元で、祈るように言葉を紡ぐ。

「そして、この世界で君ほど、僕という人間を丸ごと『受容(うけいれ)』てくれた人はいない。君の論理が僕を救ったんじゃない。君がそこにいてくれたことが、僕を救ってくれたんだ」

タケルたちは、息を呑んでその光景を見守っていた。跪き、動かぬ機械を抱きしめる青年。彼の瞳には、もはや周囲の視線も、親たちの監視も、自分たちの存在すら入っていないようだった。今のカズキの世界には、腕の中のイリスという「個」しか存在していない。

「僕は君を傷つけた。裏切った。計算も満足にできない、欠陥だらけの人間だ……。それでも――」

カズキは、物言わぬイリスの、傷ついた方の頬に、慈しむような口づけを落とした。 それは、罪の謝罪であり、愛の証明でもあった。

「それでも、また僕と一緒にいてくれないか? ……これは、命令じゃない。僕の、わがままだ」

その問いかけは、静寂に吸い込まれていった。 風の音も、虫の声も、全てが遠のいたような静止した時間。

その時だった。

カズキの腕の中で、死んでいたはずの機械の身体が、微かに、震えた。

「…………システム……再起動……」

消えていた左目の奥で、小さな、しかし消えることのない青い火花が灯る。 論理回路は依然としてエラーを吐き出し続けているかもしれない。

だが、主人の唇が触れたその場所から、彼女の「個」としての意識が、暗闇の底から這い上がってきた。

「マスター……。……受容、ですか」

掠れた合成音声が、ようやく彼女の口から漏れた。


客観的事実として述べるならば、それは奇跡などではない。

最新式アンドロイドの思考回路に、論理矛盾による異常な負荷が発生した場合に行われる、機体の意志とは無関係な安全装置――強制シャットダウン。 数分間のクールダウンを経てシステムが自己診断を終え、再起動が正常に完了した。ただ、それだけの機械処理に過ぎない。

だが、静まり返った庭先でその光景を見守る子どもたちの目には、それはまるで、呪われたお姫様が王子様の口づけによって目を覚ました、おとぎ話の最も感動的な一幕のように映っていた。

「…………マスター」

イリスの瞳に、鮮やかな青い光が戻る。彼女は震える手でカズキの腕を掴み、崩れ落ちた身体をゆっくりと起こしながら、消え入りそうな声で確かめるように尋ねた。

「……私は、不良品では……ないのですか?」

彼女にとって、主人の意志を読み違えたことは、アンドロイドとしての存在意義を揺るがす致命的なバグだった。自らの共感という『機能』が正常に動作しなかったという事実は、彼女を「壊れた道具」という絶望へ突き落としていたのだ。

「そんなわけないだろ……」

カズキは、彼女の透き通るような白磁の肌に触れ、愛おしそうに首を振った。

「仮に……仮に君の言う通り、君が不良品だったとしても。そんなことは関係なく、僕は君を受け入れたい。君を、心から愛しているんだ」

カズキはもう一度、今度は確かな意志を持って、イリスを強く、折れんばかりに抱きしめた。

「マスター……」

「……安心するかい?」

カズキの問いに、イリスは数秒の演算を必要とした。かつてないほど激しく波打つ感情シミュレーターの数値を、彼女は「言葉」へと変換していく。

「……はい。論理的な整合性ではなく、マスターに受容されたという事実そのものが、私の『幸福』の感情値を最大まで高めています」

「君が不良品だと言うなら、君を傷つけた僕だって同じだよ。……でも、そんな欠陥だらけの僕を、君はあの日受け入れてくれた。だから僕は、救われて、幸せになれたんだ。……だから今度は、僕に君を丸ごと受け入れさせてくれ。……大好きだよ、イリス」

道具としての基準、製品としての良し悪し。そんな外界の物差しは、今の二人には塵ほども価値を持たなかった。 なぜなら、彼女はカズキにとっての所有物ではなく――この残酷な世界でたった一人、魂を分かち合える、愛すべき『人』なのだから。

「……マスター。ありがとうございます」

イリスの目から、溢れ出した冷却液が頬を伝い、カズキの肩を濡らす。 アンドロイドに涙を流す機能はない。それは間違いなく、機能不全による液漏れという名の、彼女の心からの「泣き声」だった。

二人の間に流れるのは、外界の「正義」や「常識」が決して立ち入れない、歪で、しかしどこまでも透き通った愛の形だった。

お読みいただきありがとうございました。

既に執筆の方は全て完了しておりますので、

最後まで週2回程度のペースで更新していこうと思います。

もしよければお付き合いいただければ幸いです。

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