Part.16:裏切り?
(先週は更新が漏れました、すみません)
お読みいただきありがとうございました。
既に執筆の方は全て完了しておりますので、
最後まで週2回程度のペースで更新していこうと思います。
もしよければお付き合いいただければ幸いです。
賑やかな嵐のような子どもたちが帰り、玄関のドアが閉ざされると、今日も世界は再び重い静寂に包まれた。
カズキとイリス、二人だけが残されたリビングルーム。
夏が始まるまで、カズキにとってこの鏡のない家は、外界の視線と自身の罪悪感から完全に隔離された、完璧な安寧のシェルターだった。余計な雑音のない世界こそが、彼の傷ついた精神を癒す唯一の薬だったはずだ。
しかし、タケルたち子どもたちの、あの日向の匂いがする騒がしい情熱に慣れてしまった今。
この家に満ちる静けさは、もはや完璧な「安寧」ではなく、何か大切なものが欠け落ちた「喪失」を意味しているようにも思えた。
カズキは、窓のない壁に向けられたデスクの椅子に深く腰掛けたまま、動けずにいた。
彼はゆっくりと右手を伸ばし、傍らに直立するイリスの左手……少し冷たい機械の指先を探り当て、そっと握りしめた。チタン合金の硬質な感触だけが、今の彼を現実に繋ぎ止めている。
「……イリス」
彼の声は、昼間の穏やかなそれとは打って変わり、自信なさげで、弱々しいものだった。
「タケル君に聞いたよ。……あの子たちは、周りの君への誤解を解きたくて、アンドロイドの自由研究をしているんだそうだ」
カズキは俯いたまま、独り言のように続ける。
「ただの友人である彼らが、君のためにあんなに頑張ってくれている。……なのに、君の主人であるはずのぼくが、いつまでもこうして影に隠れているわけにはいかない。ぼくだって……外に出なきゃいけないと、思うんだ」
それは、彼の中で芽生えた確かな決意だった。
だが、その言葉に続けて、彼は最も恐れている疑念を口にした。
「でも……」
カズキは顔を上げ、イリスを見上げた。
彼の視線は、彼女の顔の正中線---完璧な人工皮膚と、無残に剥き出しになった機械部分との境界線に向けられている。
「ぼくは、君を傷つけた。ぼくの言葉が、君をこんな姿にしたんだ。……そのぼくが、君の庇護を離れて、一人でのうのうと明るい外に出ようとしている」
握りしめた手に、力がこもる。
「イリス、これは……君への『裏切り』だと思うかい? ぼくの今の安寧は、君の犠牲と献身の上に成り立っているのに、君以外の誰かとの交流を求めるなんて……そんな資格が、ぼくにあるんだろうか」
イリスの掌にある高感度センサーは、カズキの手のひらの温度上昇と、微細な震え、そして心拍数の不規則な乱れを正確に検知していた。
彼女の高度な感情シミュレーションAIは、その生理反応と発言内容を統合し、瞬時に解析する。
主人は、「外界への健全な欲求」を、「自らが傷つけたイリスへの裏切り行為」として処理し、新たな罪の意識を生み出そうとしている。健全な変化を拒絶することで、自らをさらに罰しようとしているのだ。
(……子どもたちの前ではあれほど堂々と振る舞っているのに、その実態はなんて小さく、弱々しい主人だろうか)
イリスの論理回路に、数値化できない思考が走る。
だが、彼女にとっては、主人が自分の前でだけその脆い本当の姿を晒してくれるという、その事実だけで十分だった。
彼女は一瞬のデータ処理の後、彼の問いに対し、最も彼を救うことができる「論理的な結論」を出力した。
「マスター。……その感情は、断じて『裏切り』ではありません」
イリスは、カズキの手を、静かに、しかし強い力で握り返した。
彼女の青い瞳が、暗闇の中で優しく明滅する。
「論理的な観点から解析します。マスターがいま現在感じておられる『外界への羨望』や『喪失感』は、貴方の精神的幸福度が、子どもたちとの『外界との健全な交流』によって一時的に強化されたことの、正常な反動であり結果です」
イリスは、カズキの迷いを肯定し、罪悪感を分解していく。
「私の貴方に対する職責は、『生命の維持』と共に、『精神的な幸福度の最大化』を最重要項目として含んでいます。……私自身が幸せになることや、私が貴方を独占することは、目的関数に含まれておりません」
イリスは一歩、カズキに歩み寄った。
「マスターが外に出られることで、より高い幸福を感じられるのであれば、それを支援し達成することこそが、私にとっての幸福です。……ですから、それは何も問題ないことなのです、マスター」
イリスの冷たい論理は、カズキの熱を帯びた罪悪感を、氷のように冷やし、溶かしていく。
カズキは、イリスの手を両手で包み込み、額を押し付けた。
彼女の言葉は、彼が前に進むための、赦しの許可証だった。
「……ありがとう、イリス」
静寂なリビングに、カズキの安堵の吐息が溶けていった。
翌日。
いつものようにタケルたちが「開かずの家」のインターホンを鳴らした時、出迎えたイリスはいつもと変わらぬ涼やかなナース服姿だった。
だが、リビングに通された彼らは、そこに立っていた人物の思いもよらない姿を見て、言葉を失い、入り口で棒立ちになった。
いつもの定位置であるソファの脇に、カズキが立っていた。
しかし、その姿は昨日までの彼とはまるで別人だ。
彼が身に纏っていたのは、療養生活の象徴だった着古した白いTシャツとスウェットではない。
襟の立ったダークネイビーのドレスシャツに、仕立ての良いチャコールグレーのスラックス。
それはまるで、これから重大な仕事の最終面接に向かうか、あるいは高級ホテルのレストランへディナーに出かけるかのような、隙のないフォーマルな装いだった。
その洗練された着こなしと、服の上からでも分かるスタイルの良さは、彼がかつて表舞台に立っていた「役者」であったことを無言のうちに雄弁に語っていた。
清潔感があり、小洒落たその服装は、彼の本来持っているセンスの良さの象徴だ。
だが、タケルの目には、それは単なるファッションには映らなかった。
真夏の昼下がりに着るにはあまりに暑苦しく、場違いなほどに重厚なその装い。
それは、彼が「外界」という戦場に再び足を踏み出すために身につけた、精神的な「鎧」そのものだった。
それほどまでに、彼の「外出する」ということに対する決意は重く、悲壮なまでの覚悟を孕んでいたのだ。
ハルやコウタが、ポカンと口を開けてその姿を見上げている。
あまりの変貌ぶりに、どう声をかけていいのか分からず、子どもたちが呆気に取られていると。
カズキの傍らに控えていたイリスが、静かに一歩前に出た。
彼女は子どもたちの驚愕の表情をどこか満足げに見回すと、よく通るシステム音声で告げた。
「――お喜びください、タケル様、及び友人の皆様」
イリスは、主人の晴れ姿を紹介するように、恭しく手でカズキを示した。
「マスターより、新規のオーダーを受領いたしました。……マスターは本日、貴方達と共に『外出』することを希望されています」




