Part.12:論理的な大好き
タケルが紡いだ「安寧の進化」という論理、そして「醜くなんかない」という感情的な訴え。その二つの刃は、カズキが堅く閉ざしていた心の扉の隙間に、深く突き刺さったようだった。静寂は続き、誰一人として動けない。この部屋の空気すべてが、傷を負った主人の、次の言葉を待っていた。
彼は、タケルの言葉を反芻するように、ソファの上で静かに沈黙していた。その沈黙は、ただの無言ではない。「もう傷つきたくない」という内側の絶望と、「でも受け入れられたいのかもしれない」という外界への微かな希望。相反する二つの思いが、彼の胸中で激しくせめぎ合い、火花を散らしている証拠だった。
重苦しい時間が流れる。無限にも等しい時間が流れたと感じられた後、カズキはふぅ、と短く息を吐き出し、ゆっくりと顔を上げた。その瞳に宿っていた拒絶の色は、いくぶん和らいでいるように見えた。
「……イリス」
そして、その沈黙を破り、カズキは隣に立つ従者に声をかけた。
「計算中のところ悪いけど……この子達に、お茶とお菓子を出してあげてくれないか」
その一言が、魔法のように場の空気を変えた。
「えっ、いいの!?」
ハルの顔が、ぱあっと輝く。コウタとミサキも顔を見合わせ、状況の重さや論理的な勝利を理解するより早く、ただ純粋に「歓迎された」という事実に喜びを露わにした。
イリスの左目、その奥にある青いLEDは、依然として激しく点滅を繰り返していた。彼女の電子頭脳は、まだタケルの提案に対するリスク計算とメリット算出の渦中にあったのだ。だが当然のこととして、マスターからの明確な”オーダー”は、あらゆる演算の実行に優先する。
「かしこまりました」
LEDの点滅がスッと落ち着き、イリスは流れるような完璧な動作で一礼した。彼女は記憶領域にある食料の在庫データを参照し、少しだけ困ったように……あるいは、申し訳なさそうに小首を傾げた。
「……ただし、残念ながら私の管理プロセスは、マスターの療養食及び栄養管理に特化しております。現在、この家にはお子様の口に合うような、高カロリーかつ高糖質の嗜好品、いわゆる『スナック菓子』の類は備蓄しておりませんが……あるものを提供させていただきます。成分的には、成長期の方にも有益なものですので」
イリスは、「おもてなし」という人間的で温かな行為を、「備蓄品の範囲内での、論理的に可能な栄養提供」として処理し、静かにキッチンへと向かった。だが言葉とは裏腹に、その背中は、先ほどまでの「排除する者」ではなく、「招く者」のそれだった。
子どもたちへのお茶とお菓子の提供。 それは、カズキが彼らの訪問を許し、彼らが提案した「安寧の進化」という論理を---少なくとも一時的に検討に値するものとして---ひとまずは受け入れたことの、間接的だが確実な承認だった。
カズキは、ソファに深く座り直すと、子どもたちの顔を一人ひとりもう一度見渡した。ハルたちの屈託のない笑顔。そして、肩の力が抜け、安堵の表情を浮かべるタケル。彼らの姿を見ていると、頑なに閉ざしていた自分が、急に馬鹿らしく思えてくるから不思議だ。
「……まあ、子供にあそこまで言われてしまってはな」
カズキは、再び自嘲気味に、しかし先ほどまでよりも少しだけ軽くなった声で言った。
「イリスにあれほどの献身を尽くされ、君たちの純粋な情熱を突きつけられて……それでもまだ、いつまでもウジウジしていられるほど、僕は自分という人間が終わってはいないと思いたいよ」
それは、彼が「罪」と呼び、自らを縛り付けていた自己嫌悪の壁が、僅かではあるが、ガラガラと音を立てて崩れ始めた瞬間だった。
タケルは拳を握りしめる。これが、作戦の大きな前進であることを確信したからだ。彼らは今、この「安寧の箱庭」の住人に対し、「外の世界」の温かさと楽しさを論理的に提示し、共有する権利を勝ち取ったのだ。
「ありがとうございます、カズキさん」
キッチンから、お湯が沸く温かな音が聞こえてくる。それは、止まっていた時計の針が、再び動き出す音のようにも聞こえた。
「……どうぞ」
そう言ってイリスが静かにテーブルに並べたのは、彼女が報告した通りスナック菓子でもチョコレートでもなく、ガラスの器に盛られた冷たいフルーツゼリーだった。「マスターの療養食及び栄養管理に特化した」備蓄品という説明通り、それは市販のケミカルな色合いではなく、淡く透き通った自然な色をしていた。一口含めば、コンビニで売っているような強烈な甘さはなく、果実本来の風味を活かした上品で控えめな甘さが口いっぱいに広がる。それは、彼女の高い技術力を示すとともに、普段からどれほど丁寧に、主人の体を気遣って食事を作っているかを無言のうちに物語っていた。
薄暗いリビングのテーブルを、5人の人間と1機のアンドロイドが囲んでいる。並べられた食器は大きさも形もバラバラだ。それは、この「箱庭」がこれまで、住人以外の来客を全く想定していなかったことの証左でもあった。
「学生さんは夏休みか……懐かしいな」
カズキがゼリーをスプーンでつつきながら、目を細めた。
「まあ、ぼくは毎日が夏休みのようなものだが……」
それは彼なりの自嘲だった。社会からドロップアウトし、生産的な活動をしていない自分への皮肉。だが、その大人の繊細な心の機微は、目の前の小学生には通じなかったようだ。
「いいな〜〜〜!」
ハルが本気で羨ましそうに声を上げた。
「俺も早く大人になりたい! 毎日夏休みとか最強じゃん!」
「お前なぁ」
無邪気すぎる弟の反応を見て、タケルはがっくりと肩を落とす。先ほどまでのシリアスな空気はどこへやら。本当にこの調子で大丈夫なのだろうか?
その弛緩した空気を引き締めるように、次にミサキが口を開いた。彼女はスプーンを置き、イリスをまっすぐに見つめる。そこから飛び出したのは、これまでの大人たちの建前や論理を超越した、良く言えば最も純粋で核心的……悪く言えば、あまりにも不躾な質問だった。
「あの、イリスさんはやっぱり……カズキさんのことが、大好きなんですよね?」
直球すぎる問いかけ。だが、その質問を受けても、イリスの表情は微動だにしなかった。彼女は右半分の完璧な美女の顔も、左半分の機械が露出した無機質な顔も、一切の表情を崩さないまま、即座に論理的な回答を提供した。
「”大好き”は人間的過ぎる感情表現です。それは定義が曖昧で定量的でなく、数値化できません。それ故に、私がその質問に回答することは困難です」
彼女の声は、あくまで冷静なシステム音声だ。
「そもそも、当機は医療用アンドロイドです。私の献身は感情ではなく、入力された安寧維持プロセスに基づき、論理的に出力された行動結果に過ぎません」
完璧な回答だった。論理の入り込む隙はない。だが、子供たちはそんな理論など気にしない。彼らは、目の前にある「事実」だけをただ純粋に受け止めているのだ。
「でもさ、大好きじゃないと、イリスさんみたいなことは出来ないと思うな」
ハルがゼリーを頬張りながら言った。
「だって、自分の顔を壊すんだよ?たとえ痛くないとしてもさ、そんなの誰でもできることじゃないもん。……なぁ、兄ちゃんも絶対できないよね?」
「……ああ、無理だな」
タケルは苦笑して首を横に振った。当然だ。たとえ愛する存在のためでも、自分の顔半分を剥ぎ取るなんて真似、正気の人間にできることではない。
それでも、イリスは強情だった。
「私のあの行動は、カズキ様の精神的安寧の回復という医療行為の一環として実施したものです。マスターが感じていた『醜さへの自己嫌悪』という論理的障壁を取り除くための、最も合理的な手段であると判断しました。……愛情由来ではありません」
彼女はあくまでも自分の行動を『論理』で説明しようとする。それが彼女のプロトコルであり、彼女なりのプライドなのだろう。そして議論が平行線を辿ろうとした、その時だった。
これまで静かに彼らのやりとりを聞いてスプーンを動かしていたカズキが、ふと顔を上げ、「とどめの一言」を刺した。
「――そうだったのか」
カズキは、スプーンを置いて大げさに肩を落としてみせた。その仕草には、彼がかつて持っていた技能---元役者らしい演技力が、最大限かつ無駄に活かされていた。
「それは残念だなあ。……ぼくはイリスのこと、大好きだけどな」
(……いや、ノリいいなこの人!)
先ほどまでの陰鬱な様子とは違い過ぎるカズキの反応に、タケルは内心でツッコミを入れるのを抑えきれなかった。子どもたちとの会話で、彼の中で何かが吹っ切れたのかもしれない。
そして、カズキから投下されたその「感情という名の爆弾」は、イリスの強固な論理的防壁を粉々に破壊した。彼女の忠誠心は、カズキの安寧を最優先する。その絶対的な主人が、彼女に「大好き」というポジティブな感情的価値を付与したのであればーーー従順な彼女は、それを無下に否定することなど出来るはずもない。
「あ……」
イリスの言葉が詰まった。そして、見る見るうちに、彼女の顔の右側ーーー人工皮膚の下の肌の色が、じわりと赤らんでいく。それは、アンドロイドが人間の恥じらいや幸福感をシミュレートする際に現れる現象だった。彼女のシステムは、この感情的な事実を、もはや無視できない重大なデータとして認識せざるを得なかったのだ。
「……その、マスター。あ、貴方の感情の伝達については、しゃ、謝意を表します」
彼女の声がほんの少しだけ、わずかに上擦っていることが、カズキにはわかった。彼女の左目、青いLEDが高速で明滅する。彼女はしばし沈黙し、論理的整合性を保てるギリギリの言葉をなんとか計算しーーーようやく、続く言葉を絞り出した。
「……まあ、現在の私のマスターへの忠誠心と愛情を示す感情値が、他の同型機のアンドロイドの平均値よりも、約48%高いことは……事実として、認めざるを得ません」
それは、機械としての精一杯の降伏宣言だった。イリスは、「大好き」という人間的な言葉を避けながらも、「平均値より極めて高い感情」という、彼女自身の論理的限界ギリギリの表現で、カズキへの特別な思いを認めたのだ。
「論理的には、それを『大好き』というのでは……?」
タケルが呆れてこぼしたその言葉は、
「ヒューヒュー!!」「やっぱり両想いじゃん!」
わっと沸いた子どもたちの歓声にかき消された。赤面したまま俯くアンドロイドと、それを優しく見つめる傷だらけの青年。薄暗かったリビングに、温かな笑い声が満ちていた。
お読みいただきありがとうございました。
既に執筆の方は全て完了しておりますので、
最後まで週2回程度のペースで更新していこうと思います。
もしよければお付き合いいただければ幸いです。




