Part.10:論理的な提案
「マスター、自らその話をするのはお止めください。間違いなく、お身体に障ります」
イリスが、鋭く、しかし静かに警告を発した。彼女の高性能なセンサーは、カズキの心拍数と血圧が、会話の開始と同時に危険なレベルまで急上昇していることを検知していた。彼女にとって、これから自身の主人が行おうとしている「過去の告白」は、彼自身と彼女が保ってきた精神的安寧を根底から脅かす単なる自傷行為であり、最大のタブーであることは明白だった。彼女は、子供たちが彼女のマスターのことを理解することなどには、1ミリの価値すらも感じていなかった。
しかし、カズキは首を振った。イリスの警告を無視するその姿は、まるで自分自身の傷口を無理やり抉じ開ける自傷行為のようであり、同時に、膿を出し切ろうとする悲壮な決意のようでもあった。
「いいんだ、イリス」
カズキは、自らの左顔面の傷が引き攣るほどの、深い自嘲的な笑みを浮かべた。
「彼らに、オバケの正体をちゃんと教えてあげなくちゃな」
彼は、ぼそぼそと、懺悔のように語り始めた。その声は、響きの良さを残しながらも、今は絶望の重さで深く沈んでいた。
「……ぼくはかつて、交通事故に巻き込まれたんだ。ただの怪我ならまだ良かったが、運悪く、炎に巻かれてしまってね。この通り、顔に致命的な火傷と裂傷を負った」
子どもたちは息を呑んで、彼の言葉に聞き入る。
「何度も手術をしたよ。でも、医者にも元通りにはならないと匙を投げられてしまった。……そして、それは『役者』だった僕にとって、今まで築いてきた仕事のキャリアの、完全な終わりを意味したんだ。まあ、お金だけはたくさんもらったけどね」
役者。 タケルはハッとした。薄暗がりの中でも尚際立つスタイルの良さと、整った右半分の顔立ち、響く声。すべてに合点がいった。彼は、自分を魅せることを生業としていた人間だったのだ。そして、この家の照明が過剰なほど抑えられていた理由も。
「そして、この顔を人に見られるのが怖くなった。今のこの顔は、僕の『欠陥』そのものだからだ」
カズキの視線が、ふらふらと室内を彷徨い、ある一点で止まる。それは、本来であれば洗面台の鏡が設置されているはずの場所。今は無機質な白いパネルで覆われ、何も映し出すことのない壁だった。その目には底なしの絶望が浮かび、語られる言葉には、拭い去れない根源的な恐怖が滲み出していた。
「ぼくは、人に顔を見られるのは勿論、自分で自分の顔を見ることすら出来なくなった。気付いたかな?この家には鏡が一つもないんだ」
そういえば、とタケルは思い返す。 玄関にも、この広々としたリビングにも、ガラス窓さえ摺りガラスに差し替えられ、自分の姿を映すものは何一つない。徹底して排除されている。
「あまりにも恐ろしくてね。鏡を見ると、自分の顔全体が見えてしまうだろう? 毎日、毎日……かつての完璧だった自分と、今の傷だらけの怪物の顔を、鏡という冷たい道具で比較されることに、僕は耐えられなかったんだ」
彼の声は低く沈み、リビングの淀んだ空気に溶けていく。栄光を知っているからこそ、転落した今の姿が許せない。自己愛と自己嫌悪の狭間で、彼は鏡を割るしかなかったのだ。
カズキは、その沈痛な視線を、隣に立つイリスに向けた。彼女の、機械が剥き出しになった左顔面を見つめる。だがその眼差しは、外界の人間が向ける嫌悪とは異なり、どこか縋るような、安らぎを見出すような色を帯びていた。
「そんな状態だった僕に寄り添うため、イリスは自ら顔を破壊し共に醜さを背負うという判断をした」
カズキの喉から絞り出されたのは、言葉ではなくまるで血反吐のようだった。
「そう、僕の責任だ。……彼女は『医療行為だ』と言って絶対認めないと思うけど、彼女をこんな姿にしてしまったのは、僕の弱さという『罪』以外のなにものでもない」
子どもたちの間に、重苦しい沈黙が広がる。彼らが無邪気に信じていた「オバケ」というファンタジーも、タケルが推測した「虐待」という単純な悪意も、そこにはなかった。あるのは、罪の意識と献身が複雑に絡み合い、互いを傷つけながらも支え合うことでしか成立しない、救いがたい悲劇だった。
カズキは顔を上げた。影と傷に覆われたその表情には、イリスへの絶対的な依存と信頼、そしてそれ以外---すなわち外界の全てへの、断固たる拒絶の光が宿っていた。
「だから、僕は彼女だけに側にいて欲しい。この傷の醜さと、僕の罪の深さを、イリスだけが共有し許してくれた。彼女が共にいるから、僕は安寧でいられるんだ」
彼は子どもたちを、そしてその背後にある「普通の世界」を見据えて、冷たく言い放った。
「悪いけど、君たちや他の誰でもなくね。……この家は、僕とイリスのための、鏡のない安寧の箱庭なんだ」
彼の最後の言葉は、子どもたちに向けられた、優しくも絶対的な「門前払い」だった。
これ以上踏み込むな。僕たちを、そっとしておいてくれ。その悲痛な拒絶が、壁となってタケルたちの前に立ちはだかった。
「……さて。これで、説明の時間は終わりだ」
カズキは、自らの胸の内を全て吐き出し終えると、憑き物が落ちたような、それでいてどこか虚無的な表情で子どもたちを見渡した。
「これで君たちの話に戻れるな。君たちは、この醜い罪人を、どうしたい?」
その問いかけは重かった。まるで、これから下される判決を待つ被告人のようだった。
高校生のタケルは、言葉を失っていた。カズキの重々しい告白と、彼が背負う「罪の鎖」の重圧。そして、それを全て受け入れ、共に堕ちることを選んだイリスの献身。この「開かずの家」で育った関係性は、確かに歪んでいる。だが、それは彼ら二人だけで完結し、ある種、完璧に完成された共依存の世界だった。 高校生としてある程度成熟した論理と倫理観を持つタケルにとって、この救いようのない悲劇に対し、「外に出よう」などと軽々しく言うことは、あまりに無責任な暴力のように思えてしまったのだ。早いところ、彼は、「介入の正当性」を見失いかけていた。
その重苦しい沈黙を破ったのは、人生経験の浅さゆえの、暴力的なまでの純粋さを持つ弟、ハルだった。彼は意図的ではないにせよ、カズキが語った複雑な因果も、深い罪の意識も、すべてを無視することを選択した。彼が持っているのは、もっとシンプルで、もっと強力な「子どもの論理」だけだった。
「⋯⋯ぼくは、2人と遊びたい!」
ハルの声が、薄暗いリビングに響いた。彼は、カズキの爛れた左顔面からも、イリスの剥き出しになった機械の顔からも、目を逸らさなかった。真っ直ぐに、その瞳を見つめて言い放った。
「せっかくの夏休みなのに、ずっと家にこもりきりなんて、勿体ないよ!」
彼にとって、目の前の人間と機械が抱える絶望の構造よりも、「夏休みという二度とない貴重な時間」と、それに伴う「遊び」という幸福な機会が失われていることの方が、よほど致命的で、許しがたい「欠陥」に見えたのだ。
ハルの言葉が、堤防を決壊させた。 続いてコウタも、一歩前に進み出る。
「僕たちは……カズキさんとイリスさんの、友達になりたいと思ってます」
コウタは、「同情」ではなく「友情」という、新しい関係性を提案した。それは、イリスが提供する「共感」や「奉仕」とは異なる、対等で自発的な繋がりだ。
そして最後に、一番怖がりだったはずのミサキが、震える声で、しかしはっきりと想いを告げた。
「なんだか、カズキさんとイリスさんが……可哀想だと思うんです。イリスさんが壊れているのも、カズキさんがそれを悔やんで隠れてるのも、すごく可哀想」
彼女は、最も感情的な側面を担った。「可哀想」という言葉は時に人を傷つけるが、彼女のそれは上からの憐憫ではなく、「一緒に泣きたい」という寄り添う心からの言葉だった。
「罪」や「絶望」よりも、「遊び」や「友情」の方が、人間にとって幸福である。子どもたちの放つ、眩しいほどの正論の連打を正面から受けて、カズキは呆気にとられ---やがて、肩を揺らした。
「ははは……」
乾いた、しかし温かみのある自嘲的な苦笑いが、彼の口から漏れた。
「3人とも、ちゃんとぼくの話を聞いてくれていたかな? ぼくは、君たちが友達になりたがっているイリスをこんな顔にした醜い罪人だと、今、君たちに告白したんだぞ?」
そう言いながらも、彼の声には怒っている様子は一切なかった。むしろ、本当に久方ぶりに外界からの優しさ---利害も偏見もない、純度100%の好意に触れたことへの、深い戸惑いと、微かな喜びが滲んでいるようだった。
その様子を見て、タケルの中にあった迷いが晴れていく。
(ああ、やっぱりそうか)
タケルは確信した。 この人は、怪物なんかじゃない。 カズキは、自分の顔の傷というトラウマに、そしてイリスを傷つけた罪の意識に押しつぶされて、身動きが取れなくなっているだけだ。 その根っこは---そう、傷のことさえ絡まなければ---きっと、子どもたちの言葉を素直に喜べる、ただの良い人なのだろう。
お読みいただきありがとうございました。
既に執筆の方は全て完了しておりますので、
最後まで週2回程度のペースで更新していこうと思います。
もしよければお付き合いいただければ幸いです。




