Part.9:オバケの正体
彼女の背後に見える家の内部の照明は、生活に支障が出ないギリギリのラインまで落とされているようだった。廊下は薄暗く、昼間だというのに深海のような重苦しい空気が淀んでいる。その曖昧な光の粒子の中で、先ほど声をかけてきた男性の姿は、外からだと輪郭だけのシルエットとなって浮かび上がっていた。
顔は暗がりに溶けて見えない。だが、その声は若く、よく響く低いバリトンで、立ち尽くすシルエットは身長が高く、無駄のない洗練されたスタイルをしているのが見て取れた。飾り気のない白いTシャツ姿が、かえってその肉体的なプロポーションの美しさを際立たせている。
(なんだか格好良さそうな人だな)
タケルはそう感じた。タケルは知る由もないが、その美しいシルエットこそが、かつての彼の「栄光の残滓」だった。彼は家の照明を薄暗くすることで、自分の「欠陥」だけを隠し、その他の「完璧な要素」は、無意識のうちに晒していた。
その男性は、子どもたちの様子をそれ以上窺うことなく、「リビングで待っているから、案内してあげて」とだけイリスに言い残すと、光の届かない扉の奥へと静かに消えていった。
残されたイリスは、一瞬の動揺をシステム内部に格納し、職務に忠実な医療用アンドロイドとしての顔に戻った。
「それでは、お入りください」
彼女は一歩下がり、招き入れる姿勢をとった。だが、その声に歓迎の色はない。
「ただし、マスターの療養環境を乱す行為、及び不必要な接触は、安寧維持プロセスに抵触するため、即座に退去を要求します」
イリスに案内され、タケル、ハル、コウタ、ミサキの四人は、開かずの家の内部へと足を踏み入れた。
通されたリビングルームは広々としており、置かれているソファやテーブルも見るからに高級そうなもので揃えられていた。だが、そこもまた異様なほど薄暗かった。遮光カーテンが半分以上閉め切られ、外光を拒絶している。空調の低い音だけが響くその空間は、まるで外界と切り離された水族館の底のような、冷たく静謐な静けさに包まれていた。
そのリビングの隅。あえて窓のない壁に向けられた一人掛けのソファに、マスターは座って彼らを待っていた。相変わらず顔は薄暗い影に沈んでいて見えない。子供たちを誘導し終えたイリスは、音もなく彼に歩み寄ると、その半分剥き出しの顔のまま、彼の横に完璧な看護師の姿で寄り添った。
闇に沈む青年と、異形の美を持つアンドロイド。 その光景は、外界の常識や倫理からかけ離れた、一つの完成された背徳的なアートのように美しく、そして恐ろしかった。
子どもたちは緊張に喉を鳴らしながら、イリスに促されるまま、ソファの対面にあるラグの上に正座した。
「……ようこそ、『オバケ』を見に来た子どもたち」
彼の声は、安寧の箱庭の静寂を破り、彼らの「介入」という名の挑戦が、いよいよ開始されたことを告げた。
「君たちの『論理的な提示』とやらを聞かせてもらおうか」
「初めまして、自分はタケルと言います。マスターさん、お会いできて嬉しいです。……それと、先日は大変なご無礼をしてしまい申し訳ございませんでした。」
タケルは、緊張で喉が渇くのを感じながらも、まずは挨拶と先日の非礼を詫びるところから始めた。シミズ先生とアヤメが教えてくれた通り、礼儀を欠けば、対話のテーブルにすらつけない。
カズキは、顔を影に隠したまま、落ち着いた低い声で応じた。
「それは別にかまわないよ。……ただ、その”マスターさん”というの、それはやめて欲しいかな」
「え?」
「ぼくがそう呼ばれたいのはこの子、イリスからだけなんだ。」
その一言は、冷ややかだった。それは、彼と彼女---イリスの関係性が、一般的なアンドロイドと所有者という主従関係を超えた、極めて個人的で、閉鎖的で、特別なものであることを、子どもたちに明確に突きつける拒絶の言葉。
彼の言葉に続き、イリスが完璧な姿勢のまま、子どもたちに向けて自分の役割を再確認させた。彼女の冷たいシステム音声は、一縷の隙もない防御壁そのものだった。
「マスターからご紹介に預かりました、MAU-2502型アンドロイド、”イリス”です。マスターの精神的・肉体的安寧をいかなる命令、状況よりも優先し守り続けるのが私の役割です」
それは、家には上げても、自分たち二人の特別な領域に立ち入ることは許さないという、彼らからの明確な否定であり、外界への境界線を引く行為に他ならなかった。
「ぼくの名前はカズキ。まあ適当に、カズキさんとでも呼んでくれ」
それでもカズキと名乗った青年は、外界とのコミュニケーションにおける最低限の譲歩を示した。タケルは、この静かで暗いリビングに、カズキとイリスという二人だけの強固な世界が存在していることを、肌で感じ取った。
(この人たち、本当に、外界を必要としていないんだ)
そう言い終わると、カズキと名乗った青年は、サイドテーブルに置かれた照明のリモコンを手に取った。 普段は全く使っていないのだろう。彼はどのボタンを押せば良いのか覚えていないようで、一瞬どのボタンを押せばよいのか悩む様子を見せつつ、親指でボタンを押し込んだ。
カチリ。
電子音と共に、リビングのシーリングライトが最大輝度で点灯した。一瞬前までとは真逆に目が眩むほどの白い光が、部屋の隅々までを暴き出す。その瞬間、これまで暗がりに隠れて見えなかったカズキの顔が、四人の前に容赦なくさらされた。
タケルは、リビングのソファに座るカズキの顔を直視した瞬間、全身に電流が走ったような衝撃を受けた。
「……っ!」
息を飲む音すら、凍りつく。これまで照明の暗さに隠されていたカズキの顔。 その顔の右側は、イリスのように完璧とまでは言わずとも、非常に整った、涼やかな顔だちをしていた。かつては多くの人を魅了したであろう美青年の面影が、はっきりと残っている。だが、左側は、一目で分かるほどの痛々しい、深く大きな傷跡に覆われていた。タケルには専門的なことはよくわからないが、その傷跡はただの裂傷ではないようだった。皮膚はただれたように変色し、複雑に歪んでおり、かつてのあったであろう美青年の面影はそこにはなかった。今は出血も炎症もないものの、その状態がイリスという医療用アンドロイドの絶え間ないケアを必要としていることは疑いようもなかった。
タケルの脳裏に、イリスの顔の左半分が剥き出しの機械となっている姿が、フラッシュバックのように重なった。
この恐ろしいまでの視覚的な一致は、シミズ先生の複雑な論理を飛び越え、タケルにイリスの行動の真の理由を本能的に理解させた。
(イリスは、カズキさんのこの傷を、自分の顔に「再現」したんだ……)
その理解は、「虐待」でも「故障」でもない。 「究極の共感と献身」という、歪ながらも純粋で、あまりに痛切な愛の形だった。 イリスは、主人の欠陥を「自分の欠陥」として受け入れ、その孤独な醜さを物理的に共有することで、彼に精神的な孤独を感じさせないようにしていたのだ。
タケルたち子どもたちの間に、一瞬の静寂と、息を飲む音が広がった。ハル、コウタ、ミサキも、その異様な光景に目を奪われ、言葉を失っている。
その沈黙を破ったのは、カズキ自身だった。彼は、子どもたちの驚きと恐怖の視線を、本当に久しく彼自身に直接向けられた「外界の視線」として受け止めた。その視線は、外界が彼をどう認識するかを、容赦なく突きつけていた。
カズキは、その痛々しい顔を隠そうともせず、自嘲気味な、しかしどこか虚勢を張ったような笑みを浮かべて、口を開いた。
「あはは、この顔が気になるかな?」
その問いかけは、子どもたちの反応を試すものであり、また、この傷を否定せず共に醜さを背負ってくれるイリスの存在がなければ、彼は決して人前に晒すことのできない、彼自身の絶望の深さを物語っていた。
彼の横に立つイリスは、微動だにせず、その機械の顔と人間の顔の半分ずつで、カズキの絶望と虚勢を、静かに共有し続けていた。




