少年と尼僧見習い2
トビーが必死にこじ開けようとしている部屋の隣には、偶然にも行方不明中の近衛兵団の団長が愛しい女を抱いて惰眠を貪っていた。三十路後半とは思えない若々しい容貌は姉に似て、たくましい体躯とは対照的に繊細で甘い顔立ちだ。
「あなた、私の愛しい方、起きて下さいまし」
ゆるゆると優しく揺すられて意識ばかりはゆっくりと覚醒するが、まだ起きたくはなくて、デニスローン侯爵は女の豊かな胸に顔を埋めた。
「もう、仕方の無い方。お願いです、何やら騒ぎが起こっている様子。どうか目をお覚ましになって」
「……騒ぎ?」
成る程、耳を澄ませば確かに何やら騒がしい。あれは扉を叩く音だろうか。
「はい、尼僧様が殺される、とか騒ぐ者の声が」
「……何?」
“尼僧”と“殺される”の二つの単語にデニスローン侯爵の頭が急にすっきりと晴れた。今の今まで女に甘えていた男とは思えぬ程の機敏さで起き上がると、女も心得たように薄物を羽織っただけの姿で侯爵にシャツを着せ掛けた。
この王宮に今いる尼僧といえば、慈母アレシア様か、その付き人の尼僧見習いの若い女くらいだ。それが危機に瀕しているとすれば、由々しき事態だ。女が跪いて靴を履かせてくれる間に一応の身支度の体裁を整え、剣を手に足早に部屋を出て行く。
その姿を見送って、女も急いで身支度を整え始めた。
デニスローン侯爵が扉を開けると、その騒ぎの元凶はすぐに知れた。一人の少年が何人かの貴族に羽交い締めにされ暴れている。その出で立ちからして平民のようだ。何故、本宮の奥まったここに平民が紛れ込んでいるのか。部下達の怠慢にまずは顔を顰めたが、今はそれよりも気になる事がある。
「離せよ!! 尼僧様が危ないって言ってんだろ!!」
泣き声混じりの抗議の声に、周りの貴族達は不愉快そうに顔を顰め、少年を容赦なく殴りつけた。侯爵は更に殴ろうと拳を振り上げた貴族の一人の腕を咄嗟に掴んだ。
「何をしている?」
「こ、これはデニスローン侯爵」
自分の行動を阻害した人物を咄嗟に睨むが、それが侯爵だと知ると途端に顔色を変えて媚を売るような笑みを貼付けた。
「挨拶はいい。何が起こっている?」
「実は何処から入り込んだのか、このネズミが騒ぎ立てまして」
「尼僧様がどうとか聞こえたが?」
「追いつめられたネズミの浅はかな嘘でございましょう」
侯爵は口々に言い立てる貴族達を順番に見てから、殴られて呻いている少年に視線を移した。
「ふむ……。少年、それは誠か?」
「違う!!」
「黙れ、このドブネズミが!」
昂然と頭を上げて怒鳴る少年を、また貴族の一人が容赦なく打ち据えた。その野蛮な行いに侯爵は顔をしかめる。
「やめよ、私は少年に聞いている。何があったか話してみよ」
厳しく貴族達を睨めば、不満そうにしながらも口をつぐんだ。少年は一瞬侯爵を疑いの目で見たが、すぐに焦った様子で口を開いた。
「お、俺、見てたんだ。パンを運んでた尼僧様が二人、き、貴族の男二人に突然捕まって、その部屋に引きずり込まれたんだ! 早く助けてくれよ!」
少年の言葉にあらかたの状況を察したのか、貴族達は下品な笑みを浮かべてにやにやと顔を見合わせた。
「それが本当だとしても、名誉なことではないか」
「その通り。尼僧風情が貴族の寵愛を受けるなど、滅多にないこと。尼僧の方もアレシア様にあやかりたくて誘ったのではないか?」
「な、何だよ! どういう意味だよ!」
「少年を離せ」
いきり立つ少年が再び暴れようとするのに先んじて、侯爵は命令した。
「は?」
「良いから離すのだ」
不可解な顔をしながらも、渋々少年を貴族達が突き飛ばすように離す。転んだ少年は、すぐに起き上がって尼僧達が連れ込まれたという扉を叩き始めた。
「開けろ、開けろよぅっ!!」
「少年、下がっていろ」
己の名を出せば、扉は開くだろう。だが、こういう状況では奥の部屋に連れ込まれている可能性が高い。となれば、聞こえなかったとしらを切られる可能性も高い。先程の自分のように。
侯爵は扉にへばりつく少年を退け、愛剣を一閃させた。首尾よく鍵を破壊した後は、勢いを付けて扉を蹴破った。貴族らしからぬ振る舞いをする侯爵に戸惑う面々を無視して部屋に入れば、やはりそこには誰の姿も見えない。だが、倒された花瓶が割れて床に散らばっているのを見ると、少年の言葉は本当のようだ。侯爵は急いで奥の間、寝室の扉を開けた。
「おお、これはこれは」
「うむ、やはり美しい。遠目だったが、これほどとは」
何が起きているのか、分からない。
フィリシティアは恐怖のあまり諤々と震えながら声も出せず、見開いた瞳で目の前の下卑た笑みを浮かべる若い男を見上げていた。
「く、この! 暴れるな! 残念ながら、こちらは外れのようです」
「そのようだな。だが、尼僧を抱ける機会など滅多にあるまい。好きにしろ」
「……私めにもそちらの娘の味見をしたく」
「気が向けば、な」
男達が何を話しているのか、恐怖に竦んだフィリシティアには半分も理解出来なかった。
「娘、喜べ。ロンクス伯爵家の嗣子である私が直々に寵愛を施してやろう。お前ほどの美貌なら、孕めば認知してやらないこともない。前陛下に倣って愛人の一人として囲ってやろう。お前が想像もできないほどの贅沢をさせてやるぞ? どうだ、嬉しいだろう?」
無遠慮に胸の膨らみを掴まれ、フィリシティアは心臓が凍り付くほどの衝撃を受けた。尼僧服をたくし上げ、相手のじっとりと湿った掌が太ももを撫でると嫌悪と恐怖に涙が溢れる。嫌だと叫びたいのに凍り付いたように声が出ない。
「そうか、泣くほど嬉しいか。胸もこれから私が大きくしてやろう」
嫌らしく笑いながら乱暴に胸を揉まれ、フィリシティアの育ち始めたばかりの膨らみは痛みと屈辱に戦慄いた。
フィリシティアは、具体的な男女のあれこれなど知らない。けれども、男が己を穢し、踏みにじろうとしているのは本能的に理解した。抗わなくては、そう思うのに、恐怖で竦んだ体は動かず、喉には何かが詰まったように声が出ない。
目の前に男の醜悪か顔が迫る。生温い相手の吐息に吐き気を催したその時、己の上から男が姿を消した。
「尼僧様、大丈夫!?」
そのかわり、顔を赤く腫らした少年がフィリシティアの目に飛び込んで来た。
「く、何をする!? 何だお前は! 何処から入り込んだのだ、平民風情が!」
突き飛ばされ、怒り狂う男を遮るように少年はフィリシティアを背に庇い、怒鳴り返した。
「うるさい! 尼僧様に乱暴するなんて、人間の風上にも置けない罰当たりだぞ!」
「くぬぅううっ、貴様など無礼打ちだ!」
湯気を出さんばかりに真っ赤になった男は剣を抜いた。だが、それを止めたのは男に追従していたもう一人の貴族の中年男だった。
「お、お待ち下さい、レイノルド様!」
「止めるな!」
「デニスローン侯爵様です!」
「な、何?」
思わぬ人の名に冷静さを少しばかり取り戻したレイノルド・デア・ロンクスは、ようやくもう一人新たな人物が増えていることに気付いた。
その視線の先には、呆然と尼僧の顔を見るデニスローン侯爵の姿があった。
「……ミルミラ」
思わず呟いた名は、幸いにも誰にも聞きとがめられることはなかった。
奥の部屋に飛び込むと、まず目についたのは暴れる尼僧に拳を振り上げ殴りつけている男の姿だった。咄嗟にその襟首を掴んで放り投げるが、その男はすぐに己が誰だか悟って顔を青くした。殴られていた尼僧は、危惧した通りアレシアに仕えていた尼僧見習いだった。
次にもう一人の尼僧に目をやれば、先程の少年が必死で背後に庇いながらもう一人の男に対峙していた。その男が剣を抜くのを見て、まずいと足を踏み出そうとしたところで、侯爵は目を疑った。その尼僧の顔が若き日の姉に瓜二つだったからだ。
己の正体に気付いた中年の男がいきり立つ男を止める声に、はっと意識を現実に引き戻す。侯爵は若い男には見覚えがあった。加えてレイノルドという名にも聞き覚えがあった。ロンクス伯爵家の主筋に当たるウィーバー侯爵の更に主筋がデニスローン侯爵家なのだ。
「レイノルド・デア・ロンクス、剣を納めよ」
「は、ははぁ」
すぐに剣を鞘に納めて腰巾着らしき中年男と跪くレイノルドをデニスローン侯爵は無表情に見下ろす。
冷静に考えれば、ミルミラなわけがない。いくら美貌を誇っても、姉はそろそろ四十の声を聞く。落ち着いて再度ちらっと見れば、あれは姪のフィリシティアだと分かる。何故尼僧姿などしているのか見当もつかないが、とにかく未遂で終わったならば姪の出自はなんとしても隠さねばならない。不名誉な噂など、王妃選びの真っ最中にあっては致命的だ。本当なら誰に手を出そうとしたのか教えて地獄にたたき落としてやりたい気分だが、それで姪が不幸になってはかなわない。このような下種に姪は身を穢されかけたのかと思うと、はらわたが煮えくり返るようだったが、努めて怒りを無表情の下に押し込めた。
「見習いとはいえ、尼僧とは神に身を捧げた尊き者。それに対してなんという品性を欠く振る舞か。貴族にあるまじき下劣なことよ」
冷ややかな侯爵の言葉に焦ったのか、若い方が顔を上げて必死に言い訳を始めた。
「お、お言葉ですが、誘ったのはこの者達の方です。神に身を捧げたというのに恥知らずな振る舞いで我らを堕落に誘ったのです」
「んなわけあるか! こんなに震えて怯えてるんだぞ!」
呆れた言い訳に侯爵の怒りが爆発する前に、既に落ち着いて起き上がっていたキヨ尼僧見習いが怒りに戦慄いて反論する前に、少年が怒りの声を上げた。まだ震えが止まらないらしい姪の姿に胸が痛む。
「黙れ、平民め!」
「なぁ、本当だよ! 尼僧様達は本当に無理矢理この部屋に連れ込まれたんだ! 誘って何かいない!」
味方だと判断したのか、少年が必死で自分に訴えるのを無言で頷いて受け止める。その様子に激高した男がまだ許していないのに立ち上がって拳を振り上げた。
「このっ、黙れと言っているだろうが!」
「やめよ! 見苦しい!」
一喝すると渋々拳を納め、その場に再び跪く。その男の隣、先程からすっかり萎縮している男に侯爵は視線を移した。
「お前、名は?」
「……は、クルト・シェ・ラグノーレでございます」
気が弱そうな男は、震えた声で名を答えた。聞き覚えの無い家名だ。おそらくロンクス伯爵家を主筋とする下級も下級の男爵家だろう。
「ラグノーレ男爵、お前が殴りつけた尼僧殿の名を、知っているか?」
「……いいえ」
「私は知っている。尼僧殿……正確には尼僧見習いだが、名をキヨ殿と申され、アレシア慈母様の身の回りの世話をする為に王宮に上がられた。副宰相でもあるドールーズ伯爵の御養女だ」
淡々と侯爵の告げた事実に、その場の雰囲気が凍り付く。主に跪く二人の、だが。当たり前だが、大した役職にありつけていないロンクス伯爵家と、副宰相でありレイゼン公爵の信頼も厚いと言われているドールーズ伯爵家とでは同じ伯爵家でも立場が全く違う。キヨの顔を知らないことからしても、政治の場での存在の軽さが分かる。そもそも、ロンクス伯爵家はデニスローン侯爵家の派閥に属し、つまりはレイゼン公爵派の一員なのだ。自分の属する派閥のトップに近い人物に、喧嘩を売ったのだ。青くならないわけがない。
「ドールーズ伯爵の御養女になられたのはレイゼン公爵の口利きであるとも申しておこう。そうですね、キヨ殿」
それまで無言で事の推移を見守っていた尼僧見習いに声を掛けると、得たりとばかりにキヨは頷いた。
「はい、その通りでございます」
「もう一人の尼僧見習い殿は?」
「この方は、はっきりとは申せませんが貴い血筋の姫君です。訳あって慈母様から預かりました大事なお方」
上手い言い方に、侯爵は内心にやりと笑う。これならフィリシティアには辿り着くまい。
「なるほど、そなたらはレイゼン公爵や、恐れ多くも国王陛下の母君であられるアレシア慈母様が目をかけた娘らをふしだらだと蔑むのだな?」
駄目押しのように言葉を続ければ、いよいよ二人は顔色を失くす。ロンクス伯爵家のどら息子は呆然とするばかりだ。ラグノーレ男爵は薄くなった頭を床に擦り付けんばかりにして土下座した。
「も、申し訳ございません。まさかそのような貴い方々とは知らず……」
「ほう、出自が平民なら罪に問われないと思うのか。随分と浅はかで愚かなことだ。このような愚か者は誇り高きゼッタセルドの貴族には不要だな」
「そんな! どうかお目こぼしをっ」
「これ以上私を失望させないでくれるか。それぞれ、身の処し方くらいは弁えていると。出て行け、出口はあちらだ」
侯爵は騒ぐラグノーレ男爵を遮り、事実上の最後通牒を二人につき付けて追い出した。