ep.5 矜持
由は、部屋に入ると静かに戸を閉めた。
真っ暗な部屋の中心にぽつんと置いてある燭台に明かりが灯り、その光を避けるように部屋の奥の暗闇に、陶が座っていた。
奥へ進むことを拒まれている気がして、由は戸口に背中を丸めて座り、陶の言葉を待った。
「それ を持って、行きな さい」
陶がそう言った。
緊張していたので見えてなかったが、明かりの下に、お金と手紙が置いてあることに由は気付いた。
これまでの給金は、番頭代わりの弥切さんから頂いていたので、それとは別の物だ。
由は唇を噛み、拳を握りしめた。
「このお金は... 受け取れません」
由は、恥ずかしさと怒りに顔を赤くして俯いた。
「お金は...口止め料、そう思って もらっていい わ。 生まれ てくる、子供のため だと思っ て、受け取り なさい」
口止めという言葉に由の体が震えた。
身体は、さらに熱を帯びたようで言葉が出てこない。
「... 奥様。 私は、こちらで仕事をさせてもらうまで、からだを売って生きてきました。世間様から見れば賤しい女でしょう。ですが、たった数ヶ月でも、こちらで受けた恩を忘れるようなことはありません。決して、裏切るような真似は... 」
ぽたりぽたりと... 自分の手の甲に涙がこぼれ落ちるのを、由は人ごとのように感じた。
「感謝はあっても、お恨みすることなどありません。何があっても、多の屋の名を貶めるようなことは、決して致しません」
暗闇の中の陶に、哀しい表情が浮かんだ。
「貴方が された ことは、女にとって 死ぬほど辛い。でも ね、もう元には戻らない わ。冷たい 言いよう だけど、犬に噛まれた とでも思って、忘れ なさい。私 が口止め するのは、その事では ないのよ」
陶は、近くに置いてあった小机に手を置き、老人のように「ふう」とため息をつきながら、ゆっくり立ちあがった。
その身体が、蝋燭の炎のようにゆらゆらと揺れながら、明かりのほうへとゆっくり姿を現した。
「私 には、もう お金なんて 意味が無 い。これから 子供を抱え て生きる、貴方の ような人に こそ必要な もの。ちゃんと 受け取り なさい」
「お く さ ま ・・・」
由は、その姿に絶句した。
「酷い でしょう? 鏡を見る のが 嫌になる わ」
明かりの下に現れた陶は、この世の者とは思えないほど、やつれてしまっている。
瞳孔を見開いたまま、由は呆然と陶の姿を見ていたが、少しずつ意識を取り戻しうわ言のように話し始めた。
「すえ さ ま、お医者さ に... お医者様に、すぐに医者に いしゃに 診せて、はやく、行かないと」
「よし... 取り乱さ な いで」
陶はゆっくりと由に近づいた。
「すえ様! お医者さまを。今すぐ、よしがお呼びして参ります。ここでお待ちください! 必ず、必ず! 連れて参りますから!!」
我を忘れて、泣きながら叫ぶ由の頬に、陶は自分の手のひらをそぅっと置いた。
その触れた手からは、かつての艶やかさが消えていた。
皮膚は乾ききり、骨と皮だけのような姿。
目の前の陶に死が迫っていることをひしひしと感じる。
由はそれが恐ろしくて、やりきれない思いで居ても立っても居られなかった。
「よし、もうお医者 様を呼んでも無駄 なのよ。私は もうすぐ 死ぬわ。ようやく その心構えが出来 たのに、貴方 が騒いでい たら、この世 に未練 が残っ てしまう わ」
『陶さまがこの世から居なくなる、もう会えなくなってしまう』
陶の腕には、多数の茶黒い斑点のような滲みがあり、それは顔にまで広がっていた。
ただ、由を見る瞳には、以前と変わらない暖かな光が灯っていた。
「よし、手紙 を見な さい。二通ある のが分 かる? ひとつは 貴方 宛て。私に、お迎え が来たら 見てね。いまは、まだ 恥ずかしい から」
由の全身から力が抜けた。
陶は、もう死を受け入れる準備は済んでいる、それが分かった。
陶の冗談は、とても笑えないが、茶目っ気たっぷりで話す陶は、出会った時のように笑みを浮かべている。
「もう 一通は、嘆願 書。私の 遺書。その内容 も、貴方が 持っている 事も、必要な時 が来るま で、決して 口外し てはなり ません」
陶の言葉が入って来ない。
これが最後かもしれないのに。
『陶がこの世から居なくなる』
その現実に、由の胸は押しつぶされそうで、目を開いて、陶の姿は見えているはずなのに、とめどなく流れる涙でぼやけてしまう。
陶は、両手で由の頬を包んだ。
「この嘆願書 の内容 は、多の屋の恥を 晒すような もの。本当 は、貴方 を巻き込み たくはなかったけど、もう 私には時間が 無い。貴方以外 に、託せる 相手がいない のよ... 時間を かけて、よく見て、定吉という 男を観察 して。彼に、嘆願書を 託しても良い と思う日が 来たら、彼 に渡し て」
陶の両手に力がこもる、それでも綿布団に挟まれたくらいの力しかない。
「もし 定吉さんが、託す べき相手では ないと貴方が 思ったなら... 燃やして しまいなさい。そして 全て 忘れて」
陶は、由の目を覗き込むように言った。
「良い です か? 分か りまし たか?」
陶の顔には赤みがない。
目はくぼみ、頬はこけ、茶黒い斑点が広がる顔から、かつての愛らしさは消えていた。
だが、それでも手は温かく優しかった。
それが、ただただ哀しい。
由は泣きながら、頷いた。
陶は手を離すと、ゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと明かりの届かない真っ暗な部屋の奥へと消えた。
「行き なさい。今後、多の屋の敷居を跨ぐことは 許しません」
言い返すことを許さない、断固たる意志。
病で身体を蝕まれても、人の矜持は決して失っていない。
それが、由が聞いた陶の最後の言葉だった。




