ep.3 屈辱
多の屋で働き始めて一ヶ月が過ぎた頃から、由は微熱と身体のだるさに悩まされるようになった。
...風邪かしら? でもそれくらいで休むわけにはいかない。今は頑張らないと
自分を雇ってくれた陶に恩返しをしたい。
由は疲れを感じながら、自分を叱咤して懸命に働いた。
他にも気になる事があった。
月のものが一向に来ない、もともと前の職業柄、安定していなかったが、今回はかなり遅れてる。
そのうち胸が張り、痛みが伴うようになると、これは普通とは違う身体の異変だと思うようになった。
思い当たる事がある、でもそれは考えないようにして過ごしていたが、吐き気が襲い、酸っぱいものを身体が欲しがるようになると、もう逃げられないと悟った。
...あたしは、子供を身籠ってる
多の屋で働き始め、二ヶ月目。
こんなタイミングで、しばらく休みたいと言い出せるはずもない。
周囲に、最初から妊娠してると分かっていて、多の屋の人達の情に付け込む為に来たと勘繰られるかもしれない。
自分は元遊女、屋敷の奉公人たちからの印象は良くなかった。
同じ頃、陶の具合は日に日に悪くなっていた。
...お体の悪い奥様に、こんな相談はできない
せっかく得た安住の地を追い出されるかもしれない。
働くことで、不安を忘れるように一日を過ごしていた。
そんなある日・・・
最悪の出来事が起きた。
その日の事を、由はよく思い出せない。
あまりのショックに、記憶の中から消してしまったのだろう。
多の屋の主人で陶の夫の助五郎に、凌辱されたことを。
・・・助五郎が去った後の空虚な自分。
頭は働き、生きてるけど感情が死んでいる。
ぼんやり天井を眺める自分の心に、卑しい思いがひとつ浮かんだ。
『多の屋の主人の手が付いた。妾として生きる道もある。子供を産んでも路頭に迷わずに済む
『何より、この生活を失わなくて済むかもしれない』
その打算を慌てて打ち消したが、心は弱く、それから、屋敷の人達に気付かれないよう、助五郎の部屋に通うようになった。
その度に、行き場のないあたしには他に選択肢が無いと自分に言い訳する。
でも、後ろめたさが消える事は無かった。
助五郎に身体を弄ばれても、心も身体も麻痺したように何も感じない。
助五郎を受け入れるためではなく、自分の体を守るために『ほと』が濡れる、それだけが救い。
江戸の暮らしで身についた諦めるという事、それも由の心の均衡を保つのに役立った。
暗闇を明かりを探して手探りで歩く。
そんな暮らしが続いて三ヶ月が過ぎた頃、体調が急激に悪くなった陶は、一日のほとんどを自室で寝て過ごすようになった。
由は部屋替えし、陶の隣の部屋に移った。
移ってから、身体が思うように動けない陶の代わりに、身の回りの世話から家内向きの仕事、問屋の諸事と、由は一日を忙殺されるようになった。
同じ屋敷内に居ても、助五郎は陶の部屋を避けていた。
四六時中、由は陶の側に居た。常に離れず、仕事をする。
そのせいか、助五郎に部屋へ呼び出される事が無くなった。
由の心も落ち着いてきた、ある日。
その日は陶の部屋で、得意先に出すお礼状の書き付けをしていた。
陶の言う文言を聴きながら書き記し、出せる準備をする。
それが終わった後、陶が何気なく言った。
「よし、あなた子供ができたの?」
心にその一言が突き刺さる。
もうこの頃には、お腹で新しい命が動いているのを感じるようになっていた。
いずれ仕事が出来なくなる、と分かっていても、由には、その事実を打ち明ける勇気が無くただ時間だけが過ぎていた。
相手は分かっていた。
年季が明ける前、もう一度だけと最後に寝床を共にした馴染みの客。
惚れた男という訳でもない。
ただ、情にほだされただけ。
その男の子供を産んだとしても、男に告げるつもりはない。
部屋の片隅で身を固くした由が見つめた方向には、布団の上に、打掛けを肩からかけて座る陶がいる。
「助五郎の子供ではないわね。...だってあの男は、子供が出来ないもの」
陶は助五郎を嘲笑るように、声に出し嗤った。
初めて見る陶の荒んだ顔。
そんな風に人を馬鹿にする姿を、由は今まで見たことがなかった。
それは陶が、由に初めて見せる心の内の毒々しい嫉妬、悔しさ、妻の立場を踏み躙られた屈辱に満ちた女の性だったのかもしれない。
淡い紅を引いた口元が歪む。
おそろしいまでの妖しさがあった。
由はショックに言葉がなかった。
助五郎との関係を知られていたという怖れ。
恩を仇で返したという罪悪感。
由の身体の震えが止まらなくなった。
由は、わなわなと震える両手を畳に這わせ、額を擦りつけるように頭を下げた。
顔を上げ、陶の顔を見る勇気はなかった。
「も もう.し わけござ.いません、奥様。...こんなに目を掛けて頂いたのに、うらぎってしまい...」
涙が次々と溢れ出し、言葉が続かない。
我が身可愛さのあまり、自分の事しか考えられなくなっていたことを恥じた。
「いいのよ。あの男はそういう男だから。謝るのは多分わたしのほう、...ごめんなさい」
陶は、それ以上何も言わなかった。




