ep.16 密偵
助五郎への報告が終わり、追われるように屋敷を出た後、梅雨空を見上げて定吉は思った。
...俺は何をするために子毛に戻って来たんだ。あの人を、陰ながら助けてあげたいと思ったからじゃないのか? それがなんだこのザマは
一年ぶりに会った陶は、病を患い痩せ細っていた。
心配すると、「大丈夫だから、少し風邪が長引いているだけ」と言って彼女は微笑んだ。
病状は、一向に良くなる事はなかった。
寝床に伏せることが多くなり、やがて姿を見せなくなった。
お見舞いを願い出ても会う事は許されず、亡くなる前の最後の言葉は、奉公人の女性から伝えられた。
「ありがとう」
その一言だった。
陶は何故、定吉に嘆願書の事を何も話さなかったのか?
...聞くまでも無い、理由など自分が一番よく分かっている。・・俺が無能で無力だから
梅雨の小休止で、今日は雨が止んでいる。
この合間に用事を済ませようと、家に閉じこもっていた人達が出て来て、町は多くの人が行き交っている。
大通りを避け棒鼻に向かい歩いていると、いつの間にやら、弥切がいつも待っている屋台へと足が向かっていた。
嘆願書が灰になった今、弥切と話をする理由など無いが、来てしまったなら仕方ない。
定吉は、弥切とこれまでの事のケリをつける事にした。
弥切は自分の過去を助五郎にバラすと脅すかもしれない。
でも、この時はどうにでもなれと半分ばヤケになっていた。
...俺は、役立たずの出来損ない。彼女に助けてもらう事ばかりで、なんの恩も返せなかった
陶の遺言と言っても良い嘆願書。
それを公儀に届け、助五郎の悪行に鉄槌を下してもらう。
...嘆願書の存在を知った時、俺は、それに命を賭けようと思った
屋台に座る弥切の姿が見えた。
弥切も、こちらを見つけたようだ。
仲の良い関係なら、ここで手を振るのかもしれないが、俺たちは、互いに相容れない相手。
笑顔とは真逆の、互いに睨み合うように距離が縮まって行く。
弥切は、何処で身につけたものか分からないが教養があり、子毛のような山奥の田舎町には、二人と居ない頭の回る知恵者。
普通、田舎者の八九三など、暴力しか取り柄がなく、それ以外に解決の方法を知らない。
助五郎の手下で云えば、右馬や鬼造とその他大勢。
その中で、弥切はたった一人異質な存在。頭を使って穏便に利益を得て、暴力は最終手段として使う。
こんな奴が、助五郎の手下として、こんな場所で燻ってるのが不思議でしかない。
定吉がソの郷の職人として会った頃は、堅気に混ざって問屋の仕事をしていた。
礼儀をわきまえ、読み書き算盤も出来たこの男を、陶さまも重宝していたようだ。
陶さまが亡くなってからは、この男が問屋と裏稼業。その両方の仕入れと仕切り、帳簿の管理を預かっていると噂に聞いた。
助五郎は喜怒哀楽が激しく、感情が顔に出るので、危ない時が分かる。
だが、この男は同じようにはいかない。
言葉尻を取られただけで、後でどんな厄介事を押し付けられる事になるか、分かったものではなかった。
いつも弥切とは神経戦。
会うたびにグッタリしていたが、今日でそれも終わり。
明日からは気が楽になる。
屋台の商品のおでんはグツグツ煮えているが、主人は何処かに消えている。
込み入った話の時は、いつもどこかに消えている。
定吉は黙って、長椅子に腰を掛けた。
「今日は助五郎と、何か話をしたか?」
「さあな?」
見ると、弥切は自分の目の前で徳利を揺らしていた。
「ソの河の工事が進んでないだろ、その事を言われたか?」
「それなら、夏までに完成すればいいという話だった」
コトッ 弥切は徳利をテーブルに置いた。
「へぇ、和久家の役人に、『期日までに間に合うのか』と毎日のように催促れてるはずなのに。ダンナは寛大だな、お前もそう思うだろう」
定吉は、返答に詰まった。
「・・ああ」
「嘘つけ」
定吉の表情が強張る。
弥切は、そんな定吉の表情を見て嘲笑った。
「酒は?」
「まだ仕事がある」
「そりゃご苦労だな。駄賃に俺の銭で飲んでも良いんだぜ」
弥切はそう言って酒を煽った。
助五郎なら『俺の酒が飲めないのか」と言い出しそうな気もするが、弥切はタイプが違う。
そんな事は気にしない。
感情に流される事がなく、冷酷なほど合理的だ。
最近の助五郎との会話は、そのほとんどが由の事。
そんな話を、この男が聞きたいとは思わない。
「よしの話はしたか?」
ふいを突かれて、定吉はドキリとしたが、平静を装う。
「いつものことだ。教えて欲しいか?」
「いいや、要らんな」
...一体この男は、何を考えているのか?
ふと、屋敷内の至る所に弥切の息のかかった密偵がいて、何処かで聞き耳を立ててる光景が浮かんだ。
...もうどうでも良い。俺とこの男は、酒を呑んでバカ話をするような仲でもない。これで終わりだ
定吉は、自分の人生も終わりのような気がした。
これから、何を目的に生きて行けば良いのか
「もう話をするのは、これで最後にしよう。俺にはあんたと話す理由が無い」
「そうか」
弥切は、興味が無さそうだ。
定吉は椅子から立ち上がった。
「俺が見つけた嘆願書は灰にしたが、まだ他に、嘆願書は存在はずだ」
定吉は、殺気だった目で弥切を見下ろした。




