ep.13 殺意
「たわ!」
弥切が名を呼ぶと、女が振り返った。
「弥切さん。どうかしたの?」
こんなに余裕がない弥切を見たのは初めてで、心配そうな顔で多和が見ている。
「ついて来い」
弥切は多和の腕を掴むと、グイと引っ張りながら歩き出した。
「痛いわ。いったい何なの?」
多和は、この屋敷の奉公人で弥切の情婦の一人。
世に言う『行き遅れ』の年齢で、嫁いだことはあったが、子供が出来ない理由で離縁された。
弥切は多和が痛がり顔をしかめるのを無視して、陶の部屋へと急いだ。
何処かの間抜けが、あの部屋に行って陶の遺体を発見でもしたら、もう一体、遺体の処理を増やす事になる。
弥切は気が急いて、早足になる。
騒いでいた多和も、弥切のただならぬ様子に、押し黙っていた。
陶の部屋の前に着くと、弥切は声もかけずに戸を開け、有無も言わせず多和を部屋のなかへと引っ張り込んだ。
そして戸をピタリと閉める。
「絶対に声を出すな」
弥切は多和に念を押して、部屋の真ん中の白いシーツに覆われたモノへと歩いて行く。
多和は、異様な部屋の雰囲気に呑まれ漂う血の匂いも我慢して、黙って弥切の行動を見ていた。
「来い」
弥切が押し殺した声で多和を手招きする。
おそるおそる近付くと、弥切は多和の背後に回る。
もし多和が声を出しても、すぐ片手で口を塞げるように準備してから前に手を伸ばし、白いシーツを剥ぐった。
多和はシーツを剥ぐった後の光景を見てもじっとしていた。
驚きのあまり、声も出せずにいるようだ。
多和は、呼吸をするのも忘れ、シーツの下の陶の死に顔を、ずっと凝視している。
陶の白い首筋に血溜まりがあり、流れた血液は布団を通り抜け畳まで濡らして固まりかけている。
周りを見回し、この黒い染みが陶の身体から流れ出た血の跡だったことに、多和は気付いた。
弥切は、声の出ない多和の口にそっと手を当てた。
口を塞ぐと、耳元で囁く。
「奥様は、苦しみの果てに手にした剃刀で、自分の喉を裂いて自裁なされた。病魔が頭に周り、耐えられなくなったんだろう」
弥切が口元から手を離すと、多和は一息をついた。
「お嬢さまが、自分で・・・」
多和は、嫁ぎ先から出戻って直ぐに、多の屋に奉公する事になった。
それから二十年。初めて会ったのは、陶がまだ十二(才)の歳。
それから、ずっとそばで暮らしてきた。
「泣くな、たわ。お前には手伝ってもらいたいことが山ほどあるんだ」
振り返ると、弥切の顔がぼやけて見える。
自分でも知らずに出た涙が、溢れていたようだった。
弥切は、陶の死を自裁ではなく、病死と世間に公表すると話した。
「もし自裁となれば、世間の噂話のネタになる。無責任な噂が広がれば、多の屋だけじゃなく、奥様の名誉まで傷つけられかねない」
ショックで頭の働かない多和は、そうかもしれないと素直に信じた。
それから、弥切に言われるまま陶の着物を脱がせると、身体に付いた血を拭った。
そして真新しいシーツで包むと、棄八がやって来て、弥切と二人で別の部屋に運び出す。
多和は放心状態のまま、後を付いて行った。
運ばれた陶の遺体は、むしろの上に寝かされて、暫くの間、多和がボゥっと遺体を眺めていると、捨八が湯の入ったタライを運んで来た。
「たわ、あとは頼んだぞ」
香が焚かれた部屋で、弥切から、陶の身体を湯潅(故人をお湯で洗い清める儀式)しておくように言われる。
多和は、『寺からの検僧も来てないのに大丈夫か』と聞いたが、弥切は「心配ない」と言う。
「自裁した奥様の御遺体には身体の至る所に斑点があったはずだ。おまえもそれを見ただろう。その斑点は病気のせいだが、検僧は、疱瘡(天然痘)を疑うかもしれない
「そうなると屋敷の住人は全て他所に隔離され、この屋敷は焼かれ子毛に戻る事は出来なくなるだろう。俺たちの帰る場所は失くなる。多の屋は終わりだし、俺たちも後ろ指を刺され生きて行くことになる。それでも良いのか?」
そう言われると、多和は何も返すことが出来なくなった。
『奥様の部屋に戻る。何かあったら呼びに来い』と言って、弥切は捨八と、この部屋を出て行った。
多和はひとりで、陶の遺体と向き合う事になった。
美しかった肌、首筋の剃刀で裂いた跡が痛々しかった。
頬に手を触れる。あの柔らかかった感触はもう無い。
うなじと肩まわりを拭こうとして首を持ちあげると、頭がぐらぐらとして安定しない。
まるで骨が無いかの様に感じた。
弥切は多和に陶のことを任せると、ようやく檀那寺へと使いを出した。
寺からの検僧を、待つつもりは無い。
多和が陶の湯灌を終え、剃髪を済ませて白衣に着替えさせれば、すぐに遺体は棺桶に納めてしまうつもりだ。
檀那寺への使いには、念を入れて言い含めてある。
『和久家からの『変死疑い無し証書』があるから寺からの検僧は不要。必ず、お血脈(極楽往生を保証するいわれる手形)を貰って帰るように』と。
「謝礼は相場より高くすると言え」
と付け加えて送り出した。
弥切は、その日から一睡もできないまま、陶の遺体を棺に納め、葬列にも子毛の名家である多の屋の名に恥じないようにと人を集めた。
葬儀を済ませると墓所へ送り、墓穴に収まった棺が、かけられる土で消えていくのを眺める。
弥切が休む事は無い。
右馬や鬼造のような世間知らずには、後のことを託すわけにはいかず、助五郎も、それを許さなかった。
初七日の間も、香典を持って訪ねて来る客の応対をしながら、傍らでは、博打場への指示、問屋の商いの様子の面倒と、やる事は無限にある。
これが陶の葬儀ではなく、他人の死だったら、陶が全てをとり仕切り、その差配(指示)に従えば良いだけだから、きっと楽に過ごせただろう。
弔問客が訪ねて来ると、部屋に通し、客と雑談する助五郎の背後に控え、神妙な顔で座っていた。
助五郎はこんな時でも、自分が主役でいられることに快感を覚えるような男だった。
弔問客は、最愛の妻を亡くしたばかりの悲しみに暮れる夫を、勇気付けようとやって来た。
お悔やみと『お気を落とさずに、無理をせずにご自愛なさって』と声をかける。
助五郎は、その度に目に涙をうかべて悲劇の主人公を楽しんでいる。
助五郎の後ろに控え、黙って話を聞く弥切は、『お前の目の前に居る奴が、陶を殺した奴なんだよ』と、腹の中で嘲笑、最悪な気持ちを抱えながら殊勝な面持ちで座っていた。
...もう死んでいたとはいえ、俺が陶に引導を渡した。そして、事件を隠蔽し下手人(犯人)を悲劇の主人公に仕立て上げた
喉を掻き切る時の感触と、微かに残っていた陶の肌の温もりと血の生温かさは忘れようがない。
...必ず、この借りは返してもらう
怒りを噛み締め、弥切は助五郎の背中を見つめていた。




