ep.20 小言
...ありゃなんだ? 相手が悪過ぎる。我ながらよく逃げられたもんだ
興奮して、石に襲いかかる可能性もあった一か八かの犬笛だったが、運良く野良犬は全て俵永に襲いかかり、その隙に逃げることが出来た。
ただ足はもつれ、すっ転んで、這々の体で逃げたので、手足は擦り傷だらけになっている。
俵永は、今まで相対した奴らの中でも五本の指に入るほど、振り斬る刀のスピードが早かった。
まるで爪楊枝を振るかのように、楽々と刀を捌く、その筋力はどれほどのものか。
あの時に闘ったら、間違いなく生き残れなかっただろう。
息も絶え絶えに此処まで走って来たが、もう息が切れて動けない。
石は草むらに飛び込み、そこで身を潜める事にした。
...あいつを、由の家に連れていくわけにはいかねえ
息を整え、追っては来ないか耳をそば立て、じっとする。
...追って来るなら、ここで差し違えてもやるしか無い
それから、月は見た目にも分かるくらいに動いた。
石は、時間が経ち、ソロソロと草むらから出て来た。
「追っては来ねえ、助かった」
フウ...と安堵の息を吐いた。
あれだけ五月蝿かった、野良犬の鳴き声も今はピタリと止んでいる。
深い溜息を一つ吐き、石はトボトボと歩き始めた。
疲れ切った体を引きずるように歩く。
途方なく時間が過ぎた気がした。
そして、ようやく由の家へと辿り着くことが出来た。
...やっと眠れる
最後は這いつくばって、家の玄関の前へと行き、体を丸めて座り込む。
戸に、体をもたせ掛けようとしたら。
スゥっと戸が開いた。
「そこに居るのは、ウチの午前様でしょうか?」
「...」
石の体は、動かなかった。
...まったく気配に気付かなかった、今日はもうダメだ
声の主は、よく知ってる。
顔を向ける気力がない。
ただ、項垂れて膝を抱えた。
戸口に立って、弦は、うずくまってる石を見ている。
「子の刻(深夜前後)までには、必ずお帰り下さいと申したはずでしたのに、随分お帰りが遅いようです。一里先の針の音でも拾えると、ご自慢のお耳には、私の声は聞こえませんでしたか?」
...必ず、なんて言ってたっけかな?
思っても石には、言い返す気力が無い。
...寝たい
弦の声を聞いた事で安心してしまったのだろう、力尽きた。
「つる、あしはもうダメだ。寝かせてくれ」
「いっさん、わたしの問いには、まだ答えてらっしゃいませんが?」
「休みてえよう。説教は明日にしてよう」
「なんです? いい大人が甘えた声を出して」
石の身体から、酒の匂いが漂う。
「お酒を飲まれたのですか?」
「へへ」
「お酒に呑まれて、ご機嫌で深夜にお帰りですか?」
「、・-。」
「はい?」
モゴモゴと口籠もりながら小さく呟く、石の言い訳が、弦の怒りに油を注ぐ。
「眠いのはお互い様です。あまりに遅いので、もしや何かあったのでは? と心配で寝ずに待っていたんですが、その頃、いっさんは、呑気にお酒を飲んでいらしたんですね」
石はカチン! とキて振り向いた。
...ノンキとは何だ! あしの苦労も知らねえで
どんなに疲れていても、怒りはエネルギーを産むらしい。
「あしは、お前が先に寝てると思ってたけどな、もう五つ六つの子供じゃねえんだ。あしは、おまえに待っとけ、なんて言ってねえだろう?」
勝手に待ってただけじゃねえか...と小声でブツブツ文句を言ってる石を、見下ろすように弦は、
「じゃあ、誰がこの家の戸を開けるんですか?」
と言った。
「・・...」
言葉に詰まった石は、また膝を抱えて座り込んだ。
「由さんも妙ちゃんも、もう就寝です。二人を起こすわけにはいかないでしょう」
弦が落ち着いて、理由を話す。
「あしは、朝まで外で寝たって大丈夫なんだから、お前は家でゆっくり寝てりゃ良いだろ!」
「大きな声を出さないで、二人とも寝てるんですから」
弦が、家から出て来て後ろ手で、スッと戸を閉めた。
石の前に屈むと、物わかりの悪い子供を諭すように言う。
「良いですか? 私たちは、他人様のお家にご厄介になる身です。まだ五つの子供もいますし、世間の常識を分かって下さい。
「深夜に帰って来るなんて、非常識なんです。それに、お家の前で見知らぬ男が寝ているなど、近くにお住いの方々が見たら。この集落でどんな噂になるか? いっさんは、きちんと考えていらっしゃいますか」
ぐうの音も出ない。
石は、ダウン寸前のサンドバッグ状態で、弦に正論で殴られる。
「それにです。外で寝られると聞きましたが、まだ春先で外はお寒い事でしょうね? 風邪をひくこともありますよね
「そういえばこの前、いっさんが風邪を引いたとき、わたしがどれほどお世話したか、もう忘れました?」
...この前って、それ一年くらい前の・・・
「元気になられたら、今度はご飯が喉を通らねえとか、なんで茶がこんなに苦えんだとか、散々我儘をおっしゃいました。覚えておられますか?」
弦は、日頃の石への不満をぶちまけて、勝手に自分の怒りにさらなる火を注ぐモードに入ろうとしている。
『こりゃ堪らん』と石は弦の着物の袖を掴んで訴えた。
「いや、あんまり五月蝿いと、みんな起こしちゃうよ。落ち着けって、あしが悪いのは分かってるんだから」
「そうやって、とりあえず謝れば許してもらえると・・」
雲間から出た、月明かりが石の顔を照らす。
石の顔が、はっきり見えると、顔に生々しい傷跡が、いくつもある事に気付いた。
特に皮膚が捲れ、肉が剥き出しになっている頬の傷が痛々しい。
弦は顔に手を伸ばして、その傷を見ようとしたが、痛かったのか? 石は顔を背けてしまった。
「何があったんですか?」
よく見ると、手足も傷だらけ。着物は土と草にまみれている。
「いっさん・・話して下さい」
真剣な眼差しで、弦は石に問いかけた。
「大したことはねえ。酔っぱらって歩いてたら、土手に落っこちたんだ。這い上がるのに苦労したよ」
ヒヒヒ、石は、そう言って自嘲った。
弦は、それに取り合わず頬の傷をじっくり見た。
...刃物で肉を刮げ取った跡だ
言いたいことはあったが、ともかく手当をしなくてはならない。
弦は、石を無理矢理に立たせる。
外で待つように言って、弦は家の中に入ると、水を移したタライを持って出て来た。
嫌がる石の道中合羽を剥がして、着物についた土や草は払う。
濡らした手拭いを渡して顔を拭かせてる間に、タライで足を洗ってやり、家の中へ連れて行く。
親子が起きないよう、注意深く静かに歩いた。
そして、手を引いて寝床へ座らせた。
「いっさん、横になって」
石は言われるまま横になると、すぐにイビキをかき始めた。
弦は荷物から、清潔な手拭い取り出して石の首に巻いてやり、巾着から膏薬を取り出して和紙に塗ると、頬の傷口に当てた。
石が巻いていた手拭いは洗い、もう一枚の手拭いを出して、薬草で揉んで傷が残る手足を拭く。
半刻ほどその作業を続け、周りを片付けると、石の隣に横になった。
向かい合わせだと酒臭い息がかかって嫌なので、寝返りをうち、弦は石に背中を見せて眠る事にした。
...少し悪いことをしたかも?
そう考えているうちに、弦も眠りに落ちていた。




