事件① 勝負パンツ
その日、「琥珀」の賑わいは一向に衰える気配がないまま終日まで続いた。
老マスターが厨房で忙しく立ち働き、ただ一人のアルバイト学生が首元に汗を光らせながらフロアを何往復もしている姿を眺めながら、私は加納省吾に送るメールをペンディングにして、別件の用事を済ませていた。
そのまま時は流れ、21時20分、閉店10分前には店内にWaltz For Debbyが流れだす。
(今日はもう無理かな……)
頬の腫れは、冷やし続けたおかげで少しは落ち着いたけれど、心の中にある、焦燥感にも似た澱んだ泥のような嫌な感覚はまだ消えていない。
それでも、自分で思っていたよりも、心のバランスを取り戻してきたとは感じていた。
ふーっと深呼吸して、今日はもう諦めようと決心しけかけた時、フロアの掃除を始めた橘くんが、そのまま床を掃きつつの自然な感じでこちらにやってきて、私のテーブルの脇で足を止めた。
「バイト終わったら、少し話、聞きますよ」
どことなく余裕を吹かしているような演技交じりの、でも彼の気遣いがこれでもかと滲んでいる言葉だった。それが私への好意ではなく、加納省吾に一泡吹かせるためなら協力しますよって感じの敵愾心からのものだったとしても、全然、心底、本当に嬉しかった。
現金なもので、彼のその一言だけで私の心はパッと明るくなり、憂鬱な気分の殆どが光の中に溶けていくのを感じて、あやうく泣きそうになってしまう程だった。
「じゃあ、待ってるからね」
橘くんは無言で掃き掃除を続け、それを終えて戻っていく。「九条さん、これ、今日のうちに出しておいた方がいいですか?」「それは明日の朝に私がやるから、そのままで大丈夫です」と、そんな二人の会話が耳に届く。
他の客が居なくなった後は、私も一緒に閉店作業を手伝い、音楽を止め、明かりを消し、三人で揃って真夏の夜道へと出て、九条さんが施錠をした後で「おつかれさま」「おやすみなさい」と挨拶を交わした。
不忍通りを吹き抜ける夜風は、日中の酷暑をそのまま閉じ込めたように熱く、それでいてどこか物悲しい湿り気を帯びていた。
「今なにもないから、コンビニ寄って行こ?」
私はそのまま、信号を渡って向こうのオフィスビルの1Fコンビニへと歩き出すと、あちら側から水風船を指に下げた浴衣姿のカップルがやってきた。
手を握り合っている彼らは名残惜しそうに歩調を合わせて歩きながら、私達とすれ違っていく。
「そっか、近くでお祭りがあったんだ」
「みたいですね」
今日の「琥珀」が賑わっていた理由の一つだろうか。
「あーお祭りいいなぁ…」
私個人には、夏祭りでの甘酸っぱい思い出とかはあまり無いのだけれども、好きなものは好きなんだから仕方がない。
私の独り言に、橘くんはただ前を見据えたまま、いつもより少しだけ硬い横顔で夜道を歩いている。
もしかして、彼女さん(やっぱり居るんだろうか)や友達からお祭りの誘いを受けていたのに、バイトを理由に断っていたりしてたのかな…?
信号を渡ってすぐのコンビニに入店すると、自動ドアが開いた瞬間、人工的な冷気と、夏特有のコンビニの匂いが私達を迎えてくれた。入口近くのワゴンには、使い捨てのカメラや日焼け止め、大量の虫よけスプレーと花火セットが並び、レジ横の揚げ物ケースからは祭りの屋台を連想させる油の香りが漂っている。他にも和菓子にラムネ、あとはこの夏の大人気アニメ映画のタイアップ商品等が特設されていた。
有線放送からは耳慣れた夏のヒット曲が軽快なリズムで流れ、深夜を忘れたような明るい蛍光灯の光が、商品を過剰なほどに輝かせている。
店内には浴衣女子や外人の姿がちらほらと見受けられた。
「橘くん、好きなもの端からカゴに入れちゃって」
少し元気を取り戻していた私は、わざとらしくカゴを振って燥いでみせた。
彼は「じゃあ、これお願いします」と返事して、リーチインからエナジードリンクを取り出してカゴに入れて、それから「持ちます」と言って私からカゴを奪って、後は黙って後ろをついてくる。
「それだけ? お菓子は? 私が選んじゃってもいいの?」
私は私で、棚を物色し始めて、取り合えず新作には手を出しちゃうし、期間限定の贅沢チョコに、最近品薄だったわさび味のポテトチップスも放り込む。
コンビニと言えばスイーツを忘れてはならないので、ピスタチオプリンを2つ買いましょう。わらび餅も外せない。そして当然アイスも買わなくちゃいけません。落ち着いて食べるためのカップアイスが2つ。買い置きのためのソーダ味の棒アイスも2つ……いえ、明日の朝の作業中に消費する分も含めて4つかな。
飲み物は濃い目のお茶で、すっきりするとしましょう。
あ、いけないっ。イザというときのポッキーを入れ忘れてた。
「どんだけ買うんですか…」
「ほら、橘くんも自分のメインの一品入れてよ。私だけ買うの恥ずかしいじゃん」
そんな会話をしながらカゴを埋めていた、その時だった。
入店のチャイムと共に高校生の団体が入って来て、そこから3人が橘くんの姿を見つけて、ニヤリと笑って親し気に話しかけてきた。
「お、海斗」
橘くんの高校は、全国的にも有名な超難関中高一貫男子校。皆さんかなりお出来になりそうな感じがする。彼らは同級生の隣に立っている女──まあ私ですけど──に、育ちの良さを伺わせるしっかり目の会釈をする。
私も深めの会釈を返すと、ぶるるんと揺れた乳房が彼らの興味を引いた。
私はそこで、若干恥ずかしがりながらもなんだか照れちゃって「えへへ」みたいに笑っちゃったんだけど、それで橘くんは黙っちゃうし、お友達も無言になってしまい、ここは一旦この場から離れるべき戦況なのとだと理解した。
「ほら。お会計行っちゃうから、何か一つ」
「じゃあフライドチキンでおねがいします」
落ち着かない様子の橘くんをつついてリクエストを引き出した後、高校生グループに笑顔で頭を下げて、皆の脇をすり抜けレジに並ぶ。
そして背後にいる彼らの声を落とした会話を聞いた。
うひひ。地獄耳なんですよ、私。
「すげぇ美人だな。年上の彼女とかやっぱ海斗ぱねぇよ」
「あの人はバイト先のオーナーだよ」
「またまたぁ、オーナーとかって年じゃないじゃん」
「相続したんだってさ」
「なるほどその手があったか。で、どうなの? この後しっぽり?」
「ミーティングだよ」
「なんか見たことある気がするんだけど、もしかしてあのお姉さん、有名人だったりする?」
「そこまで知らねーよ」
「なんにしても流石だよな。あの乳と尻は反則だろ。今日は一緒に風呂に入るくらいしろよ~?」
「うっせ、バーカ。早く家帰ってシコって寝ろ」
年相応のいかにも男子トークって感じのやり取りを聞いて、私に対する橘くんの態度はやっぱり相当丁寧で余所行きなものなのだと知った。
同級生の中での彼は、それこそ皆で一緒に馬鹿やってギャハハと笑いそうな『陽』のキャラクターに見えた。
もし私が7歳若くて、彼らの同級生であったなら、きっと橘くんにはカッコイイけど少し怖いな…みたいな印象をもったんじゃないだろうか。
見ての通り私は陰キャだから、本当にクラスメートだったとしても、『一軍』な感じの彼との接点がほぼ無いまま腐った青春の3年間を終えるんでしょうけどね。
私が会計を終えると、けっこうどっさり目のビニール袋を受け取る前に、橘くんが傍らに来て、サッとそれを持ってくれた。
そのイケメンな所作に、改めて(ああ、やっぱりカッコいい)とか思ってにやけてしまう。
「海斗、またな」
「おう」
「お姉さん、海斗をよろしくお願いします」
セルフレジを通過したお友達が私達を追い越して先に外に出て、ガラスの向こうからこちらに向かって手を振って来る。あ! 今一人写真撮ったな…。
元気いっぱいな彼らに笑顔で手を振りながら、橘くんを見上げた。
「今写真撮られたんですけど…?」
「消せって言っときます」
「それにしても仲良しね。海斗をよろしく、だってさ」
「ただの悪友達ですよ」
とかなんとか言いながら、彼の形の良い耳がみるみるうちに熟れた林檎のように染まっていくのが、明度の高い蛍光灯のおかげで私にははっきりと見えていた。
二人でコンビニを出て、信号を待つ。
店内の空調でがっつり身体を冷やされていたおかげで、夜風が心地よく感じた。
橘くんが持ってくれてる袋の中から、アイスをあたためちゃいそうな揚げ物を取り出す。その数2つ。スパイシーが彼の分で、私のはプレーンだ。
「じゃあこれ、はい。で、こっちが私の。美味しそうだから私も買っちゃった」
ホットスナックを手渡して、自分の袋を開くとほかほかのそれを歩きながら食べて、ちょっとした夏祭り帰り気分に浸る。
「おいし~」
「泉美さん、さっきカツカレーとショートケーキ食べてましたよね…」
「別にいいでしょ、お腹減ってるんだから」
栄養は全部貴方の好きなおっぱいとお尻に回すから安心しなさい…なんてセリフが思い浮かんだけど、勿論口には出せずに、胸の奥に私の隠れた名言としてしまい込む。
付き合ってチキンを食べ出してくれた橘くんは、歩調もこちらに合わせてくれていて、お菓子がパンパンに詰まった袋を提げながら、二人は夜の湿った空気の中、ゆったりと雑居ビルに向かって歩く。
私は月を見上げながら、今年の花火大会は「琥珀」の皆で行けないかな? なんて考えていたら、橘くんが急にその足を止めた。
ビルの入り口に誰かが立っている…。
うすぼんやりとした灯の下で、身長178cm程で痩せ型。短く刈り込んだフェードカット。黒の細身のスラックスに仕立ての良い白シャツ…そんなどこか鋭利な刃物みたいな感じがする男性が煙草を吹かしていて、見る人が見れば、『その筋の人』であることが察せられるだろう。
男子高校生が思わず足を止めるのも無理はないけど、私は特に驚きも警戒もしなかった。
それは顔見知りの男性で4Fライブチャットスタジオ「ディープ・ブルー」支配人・鮫島龍一だった。
42歳の元黒服。
もしあの加納省吾が彼に上等を切ったなら、表情を変えずに即座に叩きのめし、ダストボックスに叩きこんでしまうに違いない。そんな人物だ。
私を『お嬢』と呼ぶ彼は、九条さんと同じく、祖父と親交があるこの雑居ビルの住人の一人。
黒服時代に、ここのテナントだったテレホンクラブとイメージクラブという2つの風俗店(と言っていいと思う)の店長をしていた彼の事を、3年前の私は結構嫌っていたのだけど、とある出来事を境にその関係は変わり、今では経済的な協力関係にあった。
まだまだこれからが仕事をする時間であるはずの彼がここに居るのは、ちょっと外に飲み物でも買いに行こうとしていたのだろう。
「こんばんは」
「お嬢、ちょうどよかった」
鮫島は私の隣にいる橘くんを見て、「どうも」と頭を下げ、それに礼を返した高校生には特に注意を払わずに私へと向き直った。
あ、これヤバイかも。
「今度の配──」
「あーっ! 鮫島さん! 今は『本業』が忙しいから! その話はまた今度ね」
私は鮫島さんの声を強引に遮り、橘くんの背中を押して階段を駆け上り、急いで事務所の鍵を開けて彼を中に押し込んで、そのまま振り向かずにドアを閉めると後ろ手に鍵をかけた。
ふーっ…危ない危ない。
パチっと灯をつけると、そこには昨日までのゴミ溜めとは打って変わっての清潔な空間が広がっている。まずこれを見て欲しかった。
「あ。綺麗になってる」
「ふふーん、やればできる子なのよ、私は」
応接セットのテーブルに戦利品のお菓子やスイーツをこれでもかと広げて、アイスクリームを冷凍庫に叩きこんでから、エアコンとTVを付けて、室内に涼風と夜のニュースを流した。
これを環境音にして、彼にはしばし寛いでいてもらおう。
「橘くん、適当に食べてて。 私、ちょっと部屋着に着替えてくるから」
スポーツニュースを見ながら彼が頷き、私はエナドリのプルタブをカシュっと開く音を聞きながら隣の寝室へと身を滑り込ませる。
今は事務所内のソファベットで寝ているので、この部屋は3年前に引っ越しした時からまだ開けていない段ボールがいくつも積んである状況だった。
もし今後、橘くんが事務所に泊まるような事態を想定するとしたなら、いい加減本腰を入れてこの部屋を整理しないといけないだろう。
そんな『寝室兼物置』に入ってドアを閉めた途端、私は一歩も二歩も進展した状況にしゃがみ込み、「あぁ~っ❤」と声を出さずにジタバタと身悶えた。
『バイト終わったら、少し話、聞きますよ』
イケボで再生される彼の優しい言葉の前では、頬の痛みなんてもう幸せになるためのスパイスでしかない。
だって恐らく、橘くんは頬を赤く腫らした可哀想な姿を見て、そう言ってくれたに違いないのだ。
ありがとう由香さん──。
さて、お色直しです!
私は今からイケメン男子高校生の前に戻るための、最高の「ラフな部屋着」を考えなければなりません。
勿論ガチではない。
それではドン引きされる。
ガチのラフな部屋着とは、一切の気取りと見栄を排した、もっとも全裸に近い状態であると定義されるからだ。きっと広辞苑や大辞林、ウィキペディアやY!知恵袋にもそう書いてあるし、AIに尋ねても『そのとおりです!』と答えてくれるだろう。
なので今から私がするのは、部屋着という建前の上に築かれた魅惑のコーデであり、超えるべきハードルは…。
1・あんまり頑張りすぎていないもの。
2・だらしないお姉さんにならないもの。
3・というか、素敵な憧れのお姉さんにみえるもの。
4・プライベートを共有しているような気分になってもらえるもの。
5・彼の大好きなおっぱいを強調したもの。
6・私のデカ尻に免疫を(できれば興味を)持ってもらえるようにさりげなくアピールしたもの。
この6つだった。
「うん、これかな。使い古してクタクタになった薄手のオーバーサイズTシャツ。ノーブラだと流石に露骨すぎるから、カップ付きのキャミソールを中に仕込んでお茶を濁す。パンツルックはだめ。ゼッタイ引かれる。はい。スウェットミニスカートしか選択肢がありません!」
無駄なシゴデキ感を発揮して、ズバズバと決定を下してテキパキと着替えると、鏡の前でシャツの襟元をずらして胸の谷間や鎖骨の見え方を確認した。
外身は完成。残っているのは…女戦士の最後の儀式。
そう、下着──。
私はクローゼットの奥の奥、自分でも「いつ、何の目的で買ったんだっけ?」と首を傾げたくなるような、秘密の小箱の封印を解いた。
そこにあるのは、自称・勝負したことのない女がなぜか持っている勝負パンツだった。
それは、繊細すぎるサテンピュアピンクの総レースで、サイドが華奢なリボンで結ばれている、いわゆる紐パンというやつ。
見せる予定がなくて本当に見せなかったとしても、身に着ければ贅沢なレースが肌に触れているという事実だけで、女は自分がとてつもなく魅力的な存在になったような自信が持てるのです。
それをスウェットミニスカートの下に隠して、私の武装は完成した。
時間は22時22分。
橘くんの性格上、23時には帰ると言い出すだろう。
「今日は泊っていったら?」なんて数回声に出して予行演習をするけど、全然自然に言えなくて微妙にキモくなって、ガックリと床に膝をついて断念した。
「よしっ」
気を取り直し、頬を叩いて気合を入れて、私は次なるステージへと足を踏み出す為に事務所への扉を開ける。
「お待たせ。じゃあ相談にのってもらっちゃおうかな」
エセ普段着の魅力に、男の子が多少ギクシャクとした動きを見せた気がした。
本当の所はまだ彼を直視できていないので私にもわからない。体温上がって地味に汗ばんできているので冷房設定を22℃まで落としてから、彼の左隣にぎっしりとお尻を沈めた。
「相談に乗ってくれて、ありがとね」
私も照れていたので顔を合わせずにお礼をいうと、微かに彼が頷いた気配があった。
僅かに密着している腰から、二人の体温が通い合う…。
バッグからノートPCを取り出して膝の上で起動させて、隣からその画面をのぞき込んでもらいながら、私は、今私を悩ませている事件について、その推理を語りだしたのだった。




