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事件① これは屈辱? それとも恥辱?

「省吾さん、これは一体どういうつもり…?」


常務役員室のキンキンに冷えた空気が、その一言でさらに数度…いえ、凍り付いたように動けなくなった加納を見れば氷点下にまで下がった気がする。

この窮地に姿を現したのは、カノウ・エコロジクス副社長、加納由香。黒ぶち眼鏡の奥にある瞳は、私を──口に出すものも怖気が走る──ようとしていた加納省吾を、人間としてではなく「会社の品位を汚す不潔なノイズ」として捉えているのが、裏事情を知る私にははっきりと感じられた。

彼女はカーペットの上のリモコンを拾い上げてボタンを押し、大部屋との境のブラインドを上げる。


「いや、由香、これは……」


取り繕おうとする夫には一瞥もくれず、彼女はまるで彼がそこに居ないかのように無視して、私の腕を掴むと力任せに加納から引き離した。

しかし、彼女は私の味方な訳ではない。

「……情けないわね」


加納省吾の妻は、超至近距離で私の耳に吐息を吹き付けるようにボソリと毒を吐く。

彼女の視点でこの状況を見れば、夫が職務中に若い女を執務室に連れ込んで事に及ぼうとしていた最悪な現場であるが…ここから大きく4つに分岐する。

彼女が夫を愛している場合と、夫に愛想をつかしていた場合。

この状況を夫が主導したものだと理解している場合と、理解していない場合。

この2つを組み合わせた、4つにだ。

例えば、彼女が夫を愛していて、この状況を夫が主導しているものだと理解していない場合。

私は若い身体を武器に、お金を持っている馬鹿な男をしゃぶりつくしにきた泥棒猫であり、諸悪の根源。そんな女にまんまと乗せられて夢中になっていた加納省吾は、猿…というと猿が気を悪くするレベルの…、もしくはそれに類する愚かなケダモノだろう。それは悪い女と、馬鹿な男がいる構図だ。

そして私が想定しているのが、彼女がこの状況を夫が主導したものと理解して、かつ彼に愛想をつかしていた場合だ。加納省吾は屑も屑。どうしようもない人間であり、そして私はそんな屑男に金の匂いを嗅ぎつけて、誘われるがままにすり寄っていった過去何人も居たであろう馬鹿女の1人にしか過ぎず、それはクズとカスが、大事な会社を汚している状況だ。

彼女の目を覗けば、そこには「嫉妬」など微塵もなく、ただ圧倒的な「軽蔑」、そして「怒り」、更にその裏の底知れない『何か』が…見える気がする。

私個人の名誉を守りたくもあったけど、ここは堪えるしかなかった。

『私は加納省吾に雇われた探偵で、加納由香の浮気調査を依頼されており、その報告に来て襲われたんですぅ』とこの場で言えるはずもない。

しかしそれだけでなく、釈明の為に口を開けない理由は、もう一つあった。

恐ろしかった。

薄いガラス一枚を隔てた向こうに沢山の人達がいるのに、その皆が平然としていた事が。

勿論、彼らから見た私はそれを承知でやってきた馬鹿女なのだから、見て見ぬふりをするのも無理は無いのかもしれない。気を利かせていたと言えるのかもしれない。

しかしあの中には、ブラインドが落とされる直前に蒼白となっていた私を見た人もいたはずなのだ。

……うんまあ…そのうちの1人の誰かが、加納由香を呼んでくれたのかもしれないけどさぁ…。

オープンなオフィスの執務室だから、安全が担保されていると思っていた私にも油断があった。

危機感を感じないまま窮状に陥った事実が何よりも重く、心に深く刻まれた恐怖となって私の身体の芯を蝕んでいて、それは全身を震わせる微かな戦慄となって現れていた。

今の私は単純に口もきけなくなっていたのだ。

加納由香は無造作に白いシルクのハンカチを取り出すと、虫けらを見るような目はそのままに、肩を震わせている毒婦のワインで汚れた口元からその胸元まで拭い始める。

それは、拭き取るというよりも首筋から鎖骨、濡れて透けたシャツの奥の肌、乳房の谷間の感触を確かめているようでもあり、その指先があまりに熱くて、私は愛撫を受けているのかと思い、ビックリして顔を上げた。

その瞬間。

パァンッ!

乾いた音が執務室内に響いた。私の顔が横に跳ね、頬に火がつくような激痛が走った。

今まで見て見ぬふりをしていた社員達のいる大部屋から、ざわつきが聞こえる。

灼熱感が頬に広がりだしてそこで初めて、自分が加納由香にビンタされたのだと理解できた。

髪を乱したまま頬を押さえて見上げると、由香さんはわずかに呼吸を乱しながら、眉間に深く皺を寄せて私を睨みつけていた。


「出て行きなさい! 今すぐ!」


彼女は夫が私を連れ込んだ時と同じように私の肘をむんずと掴んだ。その手に込められた感覚は、加納の強引さや我儘さとは違う、もっと強固で、支配的な意志を強く感じさせるものだった。

私は自分自身の状態を『夜遊びをして補導された娘が母親に叱られて引きずられていく』かのようなトホホな扱いだ…と思ったりもしたけれど、周りの見物人達から見れば『先ほど常務取締役が自慢げに侍らせていた馬鹿女が、その妻に殴られた頬を赤く腫らして、連れ出されていく』というもっと悲惨な絵でしかなく、好奇の目に晒されながらの退場になる。

『さっきの子か』『あっちゃ~』『由香さんも気の毒に』

そう口にしながら薄く笑う社員達も居た。でもその嘲笑は、何も私だけに向けられている訳じゃない。

私と、加納省吾と、加納由香の三名を等しく嗤うものだった。

私はまだいいよ。だってそんなの嘘だもん。

勘違いされたままなのは屈辱的ではあるけど、別にここの人達とは一期一会だし、どう思われようとまったく気にしない。ムカつくけど、それだけだ。

加納省吾はいいよ。全然いい。仕事中に女を連れ込もうとして失敗して、皆の前で奥様に怒られた最高に情けない馬鹿男なのは事実だもん。皆で軽蔑して、嗤ってやってよ。

でも、加納由香はどうだろうか。鉄の女として会社を切り盛りする完璧ウーマンとして生きて来た彼女が、『旦那の女遊びの現場を見て感情的になり、声を震わせて間女の頬を殴り、腕を掴んで社外に引き摺り出そうとしている姿』という醜態を、皆に見せてしまい、それを密かに嗤うものが居る中で、今後もこの会社を支え続けるのだ。

私だったら絶対に深く傷付くよ。

だから、彼女が強い女だからまったく傷付いてない、なんてことはそれこそ絶対にない。

今日ここに来たのは、大きな誤りだったかもしれない…。

エントランスへ出ると、あの守衛さんが驚いた顔で私達を出迎えた。


「タクシーを回させて」


由香さんは彼にそう指示を出して、車が到着するまでの数分間、無言のまま私の頬の打痕を睨みつけるようにして隣に立ち続けた。

相当イライラしているのだろうか、腕組みした指先で、自分の腕をトントンと叩いている。

その頃には私の身体の震えは幾分緩解していて、この機会に少し話しかけて、何かフォローしたいというか、彼女の人物像を固めようかなんて思ってはみたものの、息苦しい程の重さを感じさせる沈黙を前にして、大人しくする他なかった。

女副社長はようやく来たタクシーへの乗車を促し、私のお尻をむぎゅっと押し込むと、ドアに手をかけつつ身を屈めて、その鋭い風貌にマッチしているハスキーな低い声で釘を刺してきた。


「二度とここに近寄らないで」


…まあ、『ここ』にはもう近寄らなくてもいいだろう。

今になって頬がめちゃめちゃ痛くなりだした頬を抑えながら、私はこっくりと頷いた。


「……お家はどこなの」

「え?」


その最初の一瞬、なんかナンパじゃないけど、彼女の個人的興味で私の住所を着て来たみたいな、そんな変な思い違いをする。

きっと、そのハスキーボイスの所為で。

でも直ぐに『貴女は馬鹿女で今回の件は自業自得だけど、それはそれとしてタクシー代はこちらが負担する』と言っているのだと理解して、首を横に振った。


「あ…新木場駅まででいいです、電車で帰ります……」

「その成りで公共交通機関に乗るつもり? 自分の姿を鏡で見てきなさい」


ゔ。確かに。

「本当に馬鹿な子ね」って感じに由香さんに鼻で笑われた。

ワインで汚れたこの胸元のまま街を歩くのは、多少恥ずかしくはある。

でもそれ以上に気になるのはこのビンタされた頬の腫れなんですけどね…。

もしかしたら、彼女のこの申し出にはビンタしてしまった事へのお詫びの気持ちが含まれているのかもしれないと考えて、しぶしぶながらもそれを受けることにして「千駄木」と答えた。


「この子を千駄木まで送ってあげて。支払いはうちのチケットで落とします」


そしてドアが自動で閉まり、車は大きくターンしてから、カノウ・エコロジクス本社を出た。

高級なハイヤーのような静寂の中で、私はハンカチを濡らして頬に当て、そのヒリつく痛みに顔を顰めながら今日の出来事を脳内再生する。

行動調査対象の加納由香という人物が持つ『謎』が深まったような気がして、その理由をアレコレ考えた。

私の頬を張った時、彼女は確かに逆上していた。

何かの感情が抑えられなかったのだ。

普通なら、怒りの原動力は夫への愛や執着、長年彼を妻として支えてきた自尊心だ。

ただやっぱり、あの夫婦の間には…そういった愛は勿論、最低限の信頼関係すら出来ていないように見える。

では、会社への愛? 彼女がそれこそ、夫や家庭よりも大事にしている会社を土足で踏みにじった女への怒りか?

もしくは、男に愛される女への嫉妬…??

なんだろう。あの時私個人に向けられていた、この頬の痛みに込められていたものは…。

タクシーは私を乗せて、時間にして50分、料金にして5,400円分の距離を走り、千駄木駅前で停車した。

私はその足でドラッグストアに立ち寄って、鎮痛消炎冷感パップ剤と携帯用瞬間冷却パックを購入する。

店員さんが、私のおっぱいと、シャツについた赤いワインの染みと、腫れあがった頬とを忙しくチラチラと見ていた。

なんだろう、今の私はデート中に彼氏にぶん殴られて一人で帰って来た悲惨な女…とかかな?

「琥珀」で食事をする前に事務所に立ち寄り、お気に入りだったシアーシャツを脱いで、応急的にぬるま湯に浸してコットンで叩く。


「あーもぅ。ワインシミとか普通に洗濯でいいわけないしな~」


ワインをかけられて(というか無理やり飲まされて)、襲われかけて、ビンタされて、罵られて、嗤われた。

本当に残念すぎる一日だ。

急いで橘くんの大好きな襟ぐり広めのブラウスへと着替えて、シアーシャツの水を切り、紙袋にしまってクリーニング店へと急ぐ。

やっぱりいつもと違って頬を見られている感覚を味わいながら事務所に戻り、1時間ほど冷やし続けて、これはもう今日中にどうこうするのは無理だわと悟り、覚悟を決めて18時過ぎに「琥珀」へと降りた。


何時ものように静かに入店すると、今日は比較的混んでいて、「いらっしゃいませ」を聞かずに最奥のリザーブ席へ辿り着いて、しょんぼりとノートPCを広げる。

事務所のアドレスに新着メールがあり、差出人は、あの醜悪な依頼人だった。


件名:今日の非礼を深くお詫びします

雫さん、本日は不快な思いをさせてしまい、心からお詫び申し上げる。君の眩しいほどの美しさに当てられ、理性を失ってしまった。常務として、なにより一人の大人の男として、あまりに情けなかった。恥じ入るばかりだ。

しかし何より許せないのは妻のあの暴力です。夫として、君にあのような傷を負わせてしまったことが、今の私には一番の痛みです。

お詫びという訳ではないですが、今日の会合も報告としてカウントし、料金をお支払い致します。

由香のスケジュールと、関連部署の資料を添付したので、ご確認ください。

加納省吾


「はぁ…」


深い深いため息が出る。ほんっとにダメだこの男。

あーあーもう100万円だけもらってここでブッチしようかしら。

やろうと思えば、私は加納を訴えることもできる気さえする。

痛む頬を抑えながら、テーブルの上に肘をつき、片手でチョンチョンとキーをタッチして返信の文面を打ち込んでいく。

私が一番許せないのは奥様のビンタじゃなくてお前の暴走だよ! との本心をどこまで伝えるべきか。

まったく言わない訳にはいかないよね、と鼻息を荒くしていた所に、脇から珈琲セットがコトリと置かれた。


「大丈夫ですか、雫さん」


怒りのあまり九条さんの気配に気付けてなかった私は、そのまま顔を向けず、心配げな彼の声に、メールを打ち込みながら「大丈夫」と伝える。


「本当に大丈夫です。今日はがっつり食べたいから、カツカレーをお願い。嫌な事があったのも事実だから、『記念に』ショートケーキを付けてもらおうかな」


九条さんが離れていくのを確認してから、ハンカチを濡らし直して頬に当て、勢いで書いた文面を俯瞰する。


加納省吾様

執務室での一件は、到底容認できるものではありません。本来であれば依頼をキャンセルさせていただきたいところです。ですが一度お引き受けした仕事を投げ出すのもまた、私の望まない所です。ですので、こちらから条件を出させていただき、加納様にご納得していただければ、行動調査を継続させていただきたいと思います。

1・四日に1度の報告義務を契約より削除し、調査の結果報告すべき事象が判明した時に随時行うとする。

2・カノウ・エコロジクス・加納省吾と泉美雫探偵事務所・泉美雫は、依頼人と探偵という関係を弁えて、適切な距離を守るものとする。

どうぞよろしくお願いいたします。


これでも相当に分厚いオブラートに包んでいるけど、もう少しマイルドにするべきだろうか。

なんかもう、本当に腹が立つ。

悪い事に、時間が経てば経つほど怒りが湧く状態になりかけている。これは非常によろしくない。ヒステリーな自分が嫌になって来る…。


「おまたせしました。カツカレーとショートケーキでス」


両頬杖を突いて若干涙目になっていた私の元に、橘くんが給仕に来た。

頬にハンカチを当てている私の様子が気になっているみたいだけど、その視線はやっぱりおっぱいの谷間に注ぎ込まれていた。


「ねぇ」


九条さんには見せなかった顔を上げて、男子高校生を見上げる。

彼はハンカチから覗く頬の赤みだけでなく、私の表情や雰囲気、もしかしたら漏れ出ている『負のオーラ』みたいなものまでもを察知してその顔色を変えた。


「…アイツですか?」

「んー…」


そうよ。と言いたいけど、厳密には違う。私を叩いたのは加納由香。

その状況の根本的な原因となったのは、橘くんの思い浮かべている『アイツ』。

いやこれ、もう「そうよ」って返しても良くなくない?

そう言えば、私は何で彼を呼び止めたんだっけ…。

愚痴ろうとしたんだっけ?

慰めてもらおうとしたんだっけ?

いや違う、私自身の思考をまとめるための、壁打ち役になって欲しかったんだ。

事件を解決する、相棒として──。

あといつもみたいにおっぱいを見て欲しかった…のもあるかも。

今の私、自己肯定感が地ベタだからね。

彼の目の間で、わざとゆっさりおっぱいを揺すり、そのふくらみを強調してみせると、イケメンくんの視線が素直にストンと下がる。

そうそう、なんだか本調子じゃない私の様子とか、赤いほっぺたとか見なくていいから、おっぱいを見ててね。


「えーと、今だとお客さん沢山いるからダメだけど。もしお客さんが私だけになったら、ここに来てくれないかな?」


腹話術(?)のように、身体を揺すっておっぱいをゆさゆささせながらお願いする。


「わかりましたから、ふ、普通にしてていいですよ…」


橘くんはどこか厳しい目つきをしながらも、私に負けない程に頬を赤らめて、視線を窓の方へと逸らした。


「ほんとに?」

「ほんとですよ。だからもういいですって」


座ったままベリーダンスするみたいに身体を浮かせて、乳房をぼよんぼよんさせると、彼はもういいですってば!と言いつつも、しっかり律義に見てくれる。

見ないような顔して見ているから、逆に超下目使いみたいになっていて面白い。

ああコレよコレ。心が洗われる…!


「ホント? じゃあ待ってるからね❤」


にぎった手を顔に寄せる『ぶりっ子ポーズ』をしてから、頬を抑えていない方の手を小さく振って、「やれやれ」って感じに去っていく橘海斗を見送る。

なんだか少しだけ復調した自分を感じて、私は彼と会話して、元気になりたかった、それだけだったのかもしれないと思った。


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