事件① 契約成立
「琥珀」の重いドアを開けて、焙煎された豆の芳香が心地よい喫茶店内へと足を踏み入れる。
私の入店は、ドイツ製ブランドのホールクロックが14時を告げている最中だった。
橘くんに見られることを考えて一度はコーデを組んでみたものの、クセの強い依頼人と面接する可能性があることを思い出し、シゴデキ系への転換を図った結果、見積もっていた変身所要時間を15分はオーバーしていた。
今の私は透け感を排した白のとろみブラウス、チャコールグレーのミモレ丈スカート、黒パンプスの完全武装姿だ。
アルバイト学生さんは、レジカウンターで先客の会計をこなしていた。
昨日私がここのオーナーであることを知ってしまった彼は、その手を止めてどう振る舞うべきか迷い、恐らくは「オーナーに挨拶をするべきか否か」と葛藤をしている。
私は歩みを止めず、ゆっくりウィンクしながら片手を軽く上げて彼を制した。
察しの良い男の子は、そのまま目の前の客に集中し始め、私はいつもの最奥のテーブル席に腰を落ち着けて、ノートPCを開いてから一度店内を眺める。
橘くんの、キビキビハキハキとした受け答えが聞こえてくる中で、九条さんが今日の一杯をトレーに乗せてこちらに向かい出す。
身体の正中を揺らさない、ゆっくりとした歩み。
九条巌さんは、今年の11月には68歳になる。
祖父・泉美剛三のボディーガードをしていた、空手の達人だ。
二人の出会いには軽々しくは口にできない凄惨な事件が関与しているらしくて、その詳細は私も聞いていない。
ただ祖父の死後、事務所を引き継いだ当時、遺品整理の手伝いに来てくれた九条さんが自ら「あの時剛三先生に拾われなければ、きっと今頃は新宿かどこかの路地裏で野垂れ死んでいたでしょう」とだけ語ってくれていた。
彼にとって私は恩人の孫娘で、祖父に返せなかった恩を、私に返したいのだそうだ。
そんな彼からウェルカムコーヒーを受け取って、事務所を出る時から決めていたオーダーを伝える。
「ミックスサンドプレート、それからミルフィーユとコーヒーゼリーを」
「今日のミックスサンドとコーヒーゼリーは『特製』ですよ」
『特製』とは、橘くんが作るという意味のちょっとした冗談だろう。
「コーヒーゼリーのクリームは多めに、あとミックスサンドにはオリジナル要素の追加をお願いしてね」
九条マスターが去った後で発せられたアルバイト店員さんの素っ頓狂な声を聞きながら、私はノートPCに視線を落とす。
そして、このビルの「真の背骨」へとアクセスするために、デスクトップに並んだフォルダの中から、ピンクに色付けしたものをWクリックした。
フォルダ名は「如月るな」。展開されたその中身は「彼女の配信記録」等々だ。
ここでこのビルの四階にあるライブチャット配信スタジオ「ディープ・ブルー」について、少し説明しないといけない。
一般的にライブチャット配信スタジオの管理形態には大きく分けて二つの種類がある。一つは「レンタル型」で、配信するための場所や機材を貸し出して使用料を得るだけのもの。もう一つは「代理店型」で、チャットレディやライバーの所属事務所として、彼女たちにスタジオ環境を提供するだけでなく、特定の配信サイトへの参加や、配信アプリとの提携、更には配信そのもののサポートや、アドバイス。そして宣伝・売り込みまでもを援助する代わりに、利益の20~40%程度をマネジメント料として受け取るもの。
「ディープ・ブルー」は後者で、それは簡単に言えば配信者が稼げば稼ぐほど管理者の懐が潤う中抜き搾取の構造をしていた。
それだけに、管理者は本気で所属ライバーを厳選し、彼女たちの配信活動を強力にサポートするのである。
このビルの財政面の大柱となっているのが4F5Fからのテナント収入で、つまり「真の背骨」というわけ。
昔同階に入っていた風俗系の店舗の黒服店長が祖父の協力を得て独立し、数年前から現在の形式に移行している。
そして…私もまた、20歳でこのビルを相続した時から、不安定な財政面に対処するためにこの構造の「歯車」となっていた。
再び「如月るな」へ話を戻すと、彼女が活動しているライブ配信のプラットフォームの名前はDB Live。この界隈では知る人ぞ知る「秘匿型・会員制チャットサイト」で、海外に拠点を置く、規約の緩い…言ってしまえば日本の法律や規制が及びにくい「グレーゾーン」を突いた運用を可能としているのが特徴だ。
そんなDB Live所属ライバー「如月るな」のプロフィールには、23歳、日本人女性のクオーター、身長153センチ、体重55キロ、≪B95-W63-H101≫ とある。メインヴィジュアルとして、その身体を紫色のレースクイーン風衣装に身を包み、逆光で顔の半分がうっすらと影に沈む中、口元に指先を当ててウィンクしながら挑発的に微笑む彼女の姿がある他、代理人おすすめの1枚として、2026年7月3日撮影とされた特別画像があり、料金を支払えば、いつもの配信スタジオ内で「如月るな」がヘッドセットだけを残して全裸になり、恥じらって全身汗ばみながら、微笑み顔を俯けて、両腕に乳房を抱き隠しながら、腰をぎゅっと捻り、背中のS字ラインをカメラに向けつつ艶めく大きなお尻をこれでもかと突き出している過激な姿が閲覧できた。
彼女の現在の活動内容はコスプレのリクエストに応えつつの雑談で、その収益はほぼ「投げ銭」に頼る。
もはや国民の生活の一部になっている大手動画配信サービスのYTubeなどとはまた違う規模感で、常時同時視聴者数は多くても500人、うちコアなファンとして20人ほどが付いていて、毎晩3時間の配信を行った月には、90万円のプラットフォーム手数料と、約80万円のマネジメント料を差し引いてだいたい100万円前後の個人収入を上げていた。
「おまたせしました…。ミックスサンドプレートとコーヒーゼリーとミルフィーユでス」
相変わらず凄まじく緊張している様子の橘くんが給仕してくる。
その態度は、さっき私が釘を刺したからか必要以上にそっけなく、助手の件についてなにか話をしてくることもない。
シゴデキメイクとコーデが仇となり、必要以上に近寄り難い印象を与えているのかもしれない。
私も私で、ついさっき彼の人格(?)肖像権(?)を侵害しちゃった事を思い出して、ただチラリとトレーを一瞥しただけでノートPCに視線を戻してしまった。
彼は昨日ほどには私に興味を示さず、なんだかこのまま昨日の話が二人の間で「無かった事」になってしまう可能性が脳裏をよぎって、ああ、今日もおっぱいを強調した服装で来ていれば……なんて結構真剣に思ってしまう。
男子高校生が配膳を終えて、その長身をすこし猫背気味にしながらテーブルを離れていく。
ミックスサンドに添えられたのりしお味のポテトチップスを口に放り込むと、それはいつもより少ししょっぱい味をしていた。
先月の収支を前年度同月の収支と見比べて頭を抱えていた時、PCの画面に探偵事務所用のアドレスへの新着通知が躍った。
『承知しました。本日二十一時、そちらのビル一階の喫茶店に伺います。 加納』
21時は琥珀のラストオーダーの時刻だ。閉店時間は21時30分で、これは加納のような男との対面を長引かせたくない私にとって、これ以上ない「強制終了」の口実になるナイスなタイムスケジュールだったので、すぐさま『お待ちしております』との旨を返信して彼との面接を確定させる。
それから私は店内を見まわして橘くんを探した。
彼は九条さんに教わって、コーヒーを淹れる練習をしていたので、こちらからカウンターに出向いて待つことにする。現在18時。九条さんは私に気付いているけど、橘くんはレッスンに集中していて、私の存在には気付いてない。
その一杯が出来上がり、二人で試飲した後、老マスターが高校生アルバイト店員に優しく「良い点」と「注意点」について総括するのを後ろで聞く。
総評は「筋が良く、呑み込みも早く、もうすでに十分に美味しい」との事で、自らの成長を実感して、それを喜ぶ上昇志向のイケメン男子高校生は「The 男の子!」って感じにピュアな顔を輝かせていた。
「ありがとうございました!」
橘くんがそういって頭を下げ、九条さんが朗らかに顔を緩めながら「明日から頼んだよ」と彼の上腕を叩いて離れる。
今だ。
「橘くん、ちょっといい?」
私が呼ぶと、彼は手を止めずに、最低限の礼儀正しさで応じてきた。
「はい、何でしょうか」
歩み寄れば後ずさりされて、真正面から彼の顔を見上げると、少し後ろに身体を逸らされた気がする。
なんなのよ。私知っているんだからね、昨日までは結構チラチラと私の方を見てたこと。
私がオーナーだった事を知って腰が引けているのか。
でもオーナーとして振る舞わない私との距離感を掴みかねているのか。
もしくは……また助手の話をされるのかと警戒しているのか。
「今夜21時に、ここで依頼主と会うの。その時、お水を持ってきてくれないかな?」
私は胸の高さより少し高い位置で両手のひらをふんわりと合わせ、肩をすくめて首を少し傾け、視線は下から覗き込むような上目遣いで、「ね、いいでしょ?」と困ったような笑顔を浮かべてみせた。
おねがいおねがいおねが~い。
今日初めてちゃんと私の眼を見た橘海斗は、僅かに頬を染め、俯き加減になって「やれやれだぜ」とでも言いたげなイケメンポーズを取りながら答えた。
「まあ。それは普通にフロアスタッフの仕事ですから。わかりました。21時ですね」
会話が成立した事が嬉しくて、彼に「よろしくね」と笑いかけ、九条さんの真似をして彼の逞しくてしなやかな上腕に触れた後、足取りも軽く座席に戻ったのでした。
──そして約束の時刻。
キッカリ21時にドアベルを鳴らして、鍛えた体と日焼けした肌を強調するような白のポロシャツと濃紺のジーンズ姿で、茶の本革ローファーを履いた男性が姿を現した。
見かけの身長は橘くんよりやや低く、血管の浮き出ているゴツゴツとした逞しい腕には金の時計が光っている。
彼はギョロっとした目つきで奥座席の私を探して、見つけて、その表情を緩めながら悠々とこちらに向かって歩き出した。
そんな男性の様子から、まず本当に私がいるかが不安で、その上で別の心配もあったけど、「実物」を見て安心した、といった心の動きを読み取り、席を立って彼を出迎える。
男は私に歩み寄りながら、大げさに両手を広げるボディランゲージを見せた。
「初めまして、泉美雫さん。加納省吾です。いや、これは想像以上に厳しい状況ですね。こんなに若くて美しい方に、私の家庭の恥部を晒さねばならないとは」
「泉美雫です。よろしくお願いします」
綺麗に頭を下げるけど、ワンテンポ遅れてゆっさり揺れるバストの動きが、依頼人の興味を引いてしまっているのが分かる。身を起こした後で「よろしくおねがいします」と握手を求められて、うげ~っと思いながらも、微笑みながらそれに応じる。
彼の身体から放たれている重苦しい高級ブランドの香水の香りが、落ち着いた喫茶店内の雰囲気とミスマッチを引き起こしていた。
「私はこれまで数多くの『ご夫婦の悩み』と呼ばれるものを見てきました。それを乗り越えようとする貴方の心の痛みが、私共の調査で寛解されるものかどうかは分かりません。もし精神的に大きなご負担を感じるのでしたら、どうぞご無理をなさらず。このご依頼は大手興信所さんにお預けするのが良いかと…」
彼の視線が、下衆な好奇心で私の肉体を舐めるように這い回るのを感じながら、会話をする。その視線があまりにも露骨で、姿見で何度もチェックして、地肌や下着が透けていないのを確認したけど、彼の目には透けて見えているのではと不安になってしまう。
今フロアに残る客は私とこの加納省吾のみ。そして九条さんは明日のための準備で奥に引っ込んでいた。
トレーにグラスを1つ乗せた橘くんがお願いした通りにこちらにやって来てくれる。
「21時ラストオーダーです。ご注文は?」
その態度は私にするものと違い、ちょっと乱暴で何か威圧感を漂わせるようなものだったので、びっくりしてつい橘くんの顔を見てしまう。
加納も不快に感じたのだろう、いかにも神経質そうな眉を大きく動かしながら水を運んできた男性店員を一瞥して、その口角をわずかに歪ませた。
装飾品なしで「本物」の輝きを放っている若い同性への、黒い感情が垣間見えた。
「君さ、ぜんぜん接客できてないね。ここのバイト代いくら? 時給50円くらい引かれちゃうんじゃない? まあいいや、俺は一番高いコーヒーでいいよ。あと、彼女には一番高いデザート。ちゃんとした奴を頼むぜ? ラストオーダーなんだっけ? じゃあ全部今すぐ持ってきて」
加納省吾は橘海斗に向けて信じられない言葉を発して、私は思わず口を挟んでしまう。
「ちょっと、加納さん…! 報酬以外で金品を頂くことはできません」
「あ、そうなの? 俺は別にいいのに。おーい君ぃ、デザートの方はキャンセルで」
うぉおおおい! アンタ馬鹿なの!?
店員への配慮を見せない40代男性の振る舞いに、心の内で激しくツッコむ。
家庭の恥部がどうのより、自分の恥部を気にしてよ!
若者にイキってるおじさんの姿を見て、私が「きゃー!加納さん素敵!」なんて言うとでも思っているのだろうか…。
橘くんは特に何か言い返すことはせず、無言のまま引き返していくけれど、その背中からは加納省吾に対する怒りの焔が立ち昇っているのがハッキリと見えていて、私は申し訳なさに頭を抱えた。
彼にグラスを運んでもらった目的は2つある。
ここはカウンターの死角になっていて、だからこそこの仕事に使えるのだけど、時にクライアントの男性が「暴走」することがあった。
私自身がそう見られる部分はあるけど、他の客がいなくて、九条さんが大人しそうで小さなお年寄りに見えるせいで、よりそんな事態になりやすいのだと思う。
特に今回の依頼人はその要件を満たしそうな人物であり、だから若い男性スタッフがいる事を見せて自制を促す事を考えた。そして後で橘くんに加納省吾という人物の印象を尋ねようとしていたのだった。
…まあ仕事のできるかっこいい私を見てもらおうとも思ってはいたけどさ。
それがこんなことになるなんて!
橘くん! 不愉快な思いさせてほんっとごめんなさい!
「それで…奥様の『不審な点』とは」
私が切り出すと、加納は私から見て、ちょっと違和感のある表情になった。
それは、興味のない話題について無理やり話を合わせる時のソレに似ているような、そんな微妙なものだった。
「ああ。妻のことか…そうだな。正直に話すと、俺はもう妻の浮気を咎める気はないんだ」
彼はそう言って、自嘲気味に笑って見せた。
いやこれは、もしかしたら…悲しい男を演じている気なのかも。
「加納さん…」
傾聴の姿勢を示しながら、私は考える。
浮気調査の多くは、その証拠を交渉の場で道具にする目的で依頼される。
その目的は2つに大別されて、家庭を維持するためか、離婚をするため。
婿養子となった先で、カノウ・エコロジクスの常務取締役に就いた加納の狙いは、浮気の証拠を手にして、彼女の非をはっきりさせた上で、夫婦関係を続ける事にあるのだろう。
家庭内では今後の自分の女遊びを当然の権利と主張する。
更には加納由香の不貞を、加納一族が彼に対して持つ負い目とする。
これで社内における彼の地位は盤石となり、あとは上へ上へと昇り詰めるのみ…と、そんな絵図を引いているのではないだろうか。
もう妻に愛情を感じていないという自白は、彼がメールで匂わせていた「妻に裏切られて心に傷を負った男」という設定を軽く破綻させるものだけど、私は用意された初期設定に乗っかることにする。
「探偵として言わせてもらえるのなら、奥様が不貞をなさっているかどうかはまだわかりません」
静かに前置きしてから、対面に座る大根役者の目を見て、彼の「妻の事はもう諦めた発言」を諫める。
「万が一それが本当だったとしても、しっかり調査する事で、原因を取り除く事が出来たり、奥様に深く反省を促す事ができたりして、関係をやり直すきっかけになる可能性もあるんです。信じるのも、疑うのも、辛くなってしまっているのだと思いますが……」
「ああ、そうですね。確かにそうだ。貴女の言うとおりだ…」
私の誘導に従って彼も軌道を修正し、妻に裏切られて深く傷付いてはいるが、まだ望みは捨てていない健気な男へと姿を変える。
「この件、私と一緒に、しっかりと向き合ってみませんか?」
「泉美さん!」
彼は私の手元に自分の分厚い手を伸ばし、指先を絡めるように重ねてきた。 ドロリとした不快な悪寒が走る。
「君の…」
「お待たせしました! コピ・ルアクです!」
加納が脱線しそうな気配を醸し出したまさにその時、ガチャン! と強めの音を立てて、恐らくは橘くんが淹れた『特製』のジャコウネコ・コーヒーの注がれたデミタスが届けられ、その甘やかでフルーティーな香りが私の鼻腔にまで届いてきた。
出鼻をくじかれた形になった加納が、なんとなく気まずそうにコーヒーに口を付けるのを見て、そーっと手を引いてテーブルの下に収めてから、彼がまた変な事を言わない様に釘を刺す。
「ああいい香りですね。ジャコウネコ・コーヒーでしょう? 高いから特別な日にしか頼めないけど、私も好きですよ」
「ん? ああ、まあまあだね。じゃあ君も飲んでみるかい?」
途端に上機嫌になった彼が、「ほら」とか言いながら、装飾の施された陶磁器をこちらに差し出してくるのを笑って拒んで、ここが21時半に閉店となる事、今日はその後別の仕事がある事を伝えて話を急がせ、正式に依頼を受けるに至った。
彼は調査期間を最長二週間と定めて着手金100万、成功報酬100万、計200万円を提示した。更にオプションとして、2日に1度、最低でも4日に1度の報告を義務とし、報告1回につき10万円を支払うという。
相場から見ても、かなり支払いの良い客だと言えた。
気持ち悪いけど、ノートPCにそれらを打ち込み、プリンターで泉美雫探偵事務所の名前がエンボス加工された用紙に契約内容を印字し、私が声出ししながら互いに確認して、最終的な署名をする。
契約完了時刻は21時30分を8分ほどオーバーしてしまっていて、店内にはWaltz For Debbyが流れていた。
私達が席を立つまで器を下げるのを待ってくれていた九条さんが、丁寧に頭を下げてくれる。
「お話し中のところ失礼いたします。誠に勝手ながら、閉店のお時間となりましたのでお知らせに参りました」
「ああ、会計はここでいいかな?お釣りはいらないよ」
加納は新一万円札をテーブルに置くと、エスコートしますよと言いたげに片手を差し出してくる。
私は勿論それを受けることはせず、でも彼の顔を立ててその手を両手で握って頭を下げることで、契約の握手という形にした。
ぎゅ!と手を握り返されて、ビクっとする。
加納と一緒に店を出ると、外にはまだムワっとした暑さが漂っていた。風も無く、アスファルトから立ち上る余熱がスカートの中まで入り込んでくるような蒸し風呂の中で、なんだかんだと場所を変えての延長を求められ、別の仕事がありますからと断るのに5分の時間を要して全身に汗をかき、付いてきてしまうのを心配しながら裏口に回って、空調の効いている琥珀の店内に戻ってくる。
九条さんが何も言わずに差し出してくれた一杯の水を、お礼とともに一気に飲み干してから、水場を借りて手を洗った。
「なんかごめんね~…」
フロアの椅子を全て上にあげて、掃き掃除をしている橘くんに、ぐったりしながら謝罪する。
「……はい。いえ、俺もすみませんでした」
あれ?彼の一人称って「俺」だっけ…? まあいいや、今日はもう加納の印象を聞いたりするのもやめておこう。
一つ残されている「何故彼が、自分の今後を決める切り札になりかねない大事な依頼を、大手にではなく私に頼んだのか」という謎にも、既に大体の予想が付いていた。
それは、調査対象者加納由香の動向、特にその相手を見れば分かるに違いない。
今日は本当に疲れた。
奥座席で撤収作業に入ると、橘くんがやってきて、プリンターとノートPCを持ってくれた。
「運びますよ。二階でいいですか?」
イケメンすぎるぅううう!
私は急ぎ書類その他をかき集めてバッグに放り込む。
「あ、ちょっとまって。うん、行きましょ」
今日の帰りはお店奥の従業員用スペースを通過して内階段を使う。
重たい機材を任せておいてなんだけど、なんだか嬉しくなって、彼の3段先を上りながら事務所へ向かう。
夜中の雑居ビルは、不気味な暗さ。
非常灯の緑の灯が、ふわふわと光っている。
昔の役場みたいな造りの無機質な正方形Pタイル張りの床とコンクリを塗装仕上げした壁の通路を進んだ先に見えてくる木枠の扉に嵌まったすりガラスには、右から左に向けての書き順で、泉美剛三探偵事務所と白くペイントされている。
「ここで寝泊まりしてるんですか?」
「うん、昔は違ったんだけど…お金に余裕がなくて、マンション解約してここに引っ越してきちゃった」
橘くんが驚くのも無理はない。
50年前に、当時の祖父のセンスで造ったお部屋に住む23歳女子の悲しみよ。
私は古めかしい鍵でガチャンと解錠して、開閉時に必ず軋んだ音を立てるその扉を開き、ドキドキしながら彼を初めて事務所へと招き入れ、手探りで電気のスイッチを入れた。
パチッ。
「きゃ!」
「あ!」
二人は揃って声を上げる。
私が見たのは、光から逃げるように素早く走ったGの影。
彼が見たのは、入り口前の床で死んだように蹲っていた、私のシミつき下着だった。




