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事件① 浮気調査の依頼

八月五日


時刻は午前十時。世界はすでに白く沸き立っていて、空を見上げれば、遮るもののない太陽が容赦なく街を焼き、アスファルトからはね返る熱気が肌を刺す。

そんな千駄木、不忍通り沿いに建つ駅近雑居ビル──俗称第三パラダイスビル──の二階。

私の城であり、檻でもある「泉美雫探偵事務所(旧名泉美剛三探偵事務所)」の朝は、遮光カーテンの隙間から漏れる容赦ない日差しとともに始まった。

その一筋の光の柱の中で、無数の埃が静かに乱舞している。

発見者のJohn Tyndallの名前から、チンダル現象と呼ばれるけど、言葉の響きが少しアレよね。


「んぅ……う」


鼻の奥からの粘りつくような喘ぎ声を出しながら、ソファベッドから這い出す。起き上がり際に、寝返りで片側に寄っていた乳房が、ずっしりとした振動を伴って定位置へ戻った。ブラジャーという枷は好きではないけれど、逃れようのない重力に好き勝手されるのも気に食わなかった。

窓の外を覗けば、すぐそこを走るトラックの屋根がギラリと光を反射して通り過ぎていく、いつもの不忍通りが見下ろせる。

窓辺からそっと遠ざかり、振り返って事務所を一望すると、飴色に汚れた漆喰壁と歩き癖で擦り減ったテラゾーの床が、半世紀の時間を語りかけてきた。

手前に鎮座する鈍い光を放つ重厚なチーク材のデスク。その上の古いデスクトップパソコン、ファックス、そして今でもけたたましく鳴り出すことがある黒電話が静寂を保ち。

それらを取り囲むガラス扉付きの本棚と鍵付きのスチール製キャビネットが、もう閲覧することもないであろう古い専門書や書類を愚直に守り続け。

タバコの焦げ跡が残る重厚なマホガニーのテーブルと、バネのへたったボルドーのビニールレザー製ソファの応接セットが、中央に敷かれた赤茶色のペルシャ絨毯の上に沈み込み。

武骨なダイヤル式の耐火金庫が部屋の隅からこちらを睨んでいる。

祖父が対峙してきた過去が色濃く沈殿している室内には、効きが悪い冷房の室外機が出す振動が、壁を通じて微かに響いていた。


「ん…」


冷房を日中設定のままつけっぱなしにしていたせいで、肌が少し冷えていて、心なしか腰も鈍く痛重い。

寝ぼけ眼のまま、壁際の古いテレビをつけた。

ワイドショーのキャスターが、どこかの政治家の不祥事を安っぽい熱量で叫んでいる。

何度かチャンネルを切り替えてから、結局最初のワイドショーに戻してリモコンをガラステーブルの上に置いた。


「ふぁあ…」


大きく背伸びをして、歩く度にずり落ちていく緩みきったスウェットパンツを持ち上げる。ゴムのラインが食い込んていた腰回りには、日々の辛い女探偵生活を証明するような、柔らかなお肉が浮き出ていて、そこに痒みを伴う赤い圧痕が残されていた。


「……かゆ」


容赦なくウェストを掻き、そしてブラジャーもせずに着たTシャツの下、たっぷりとした乳房の重みで蒸れた下乳のあたりも掻く。そうこうしている間にまた膝上までずり落ちて来たスウェットパンツを、もうそのまま足をもつれさせながら脱ぎ捨て、下腹を滑り落ちて恥丘の際でかろうじて止まっていたショーツをさらに押し下げ、股ぐりに手を滑り込ませて、二度三度と爪を立ててそこの違和感をも除去した。

真夏日に一日活動した後シャワーを浴びずに就寝して、寝汗で股に籠って更に朝の体温で醸成された独特の匂いが、指先を伝って鼻腔に届く。

23歳で仕事に生きる色恋沙汰とは無縁な女の、隠しようのない生理的な退廃の香りがした。

めんどくさくなってショーツも雑に脱ぎ捨てて、ここ1週間掃除してない人造大理石の床の上に放り出す。蒸れたままの下着は入り口前にくしゃりと身を横たえた。

洗面所で手を洗ってから洗口液で口をすすぎ、歯を磨く。

その際に鏡の中の自分は絶対に見ない。 そこには生活感にまみれた「だらしない女」がいるだけだからだ。

出かける用事でもなければ、このまま乱れた髪を梳くこともしないで事務所に籠るであろう。それが「泉美雫」という女の、偽らざる現在地だった。


半裸でのしのしと歩き、冷房に負けず劣らずうるさく唸っている、白物家電と呼ばれていた時代の冷蔵庫を開けて500ミリリットル入りのペットボトルを取り出すと、唇を寄せてゴクゴクと冷たい水を飲む。

これは何年も連続してモンドセレクション金賞を受賞している、大分県日田市の地下深層部から汲み上げられる、天然の活性水素とシリカを豊富に含んだ弱アルカリ性のナチュラルミネラルウォーターだ。

理想的な1日の総水分摂取量の目安は、体重1kgあたり30~40ミリリットルなんだとか。そうすると私は……頑張って最低でも一日2…リットルは飲まないといけない。

…さて、そんな事は脇に置いといて、これから仕事の時間です。

ペットボトルを庫内に戻して、冷凍室から棒アイスを取り出して咥え、デスクに向かう。

まずは黒電話に後から取り付けた留守番電話装置で着信履歴を確認する。録音三件。一つは自動音声の詐欺電話。一つは不動産の営業。最後の一つは受話器を置いた音だけだった。

これら電話の中には、ここの主がまだ祖父の泉美剛三だと思っている人たちが沢山いて、失礼のないように電話を折り返さねばならない事があった。

次にファックスをチェックする。ビルの管理会社からの事務連絡が数枚、それだけだ。

最後に祖父が愛用していたアンティーク調のエグゼクティブチェアにどっしりと重たく座り、牛革の座面があげる悲鳴を聞きながら、2011年製のデスクトップPCの電源を入れる。

メールチェックとブラウザ検索くらいしかさせていないその箱が、不機嫌な唸り声を上げながら立ち上がる。

おっそい。

あんまり遅いので待ち時間に爪を弄る。

起動した後も、実際に操作できるようになるまで数分の待ち時間を要した後でようやくメールボックスを開くと、迷惑メール除外機能をすり抜けた大量のスパムメールに混じって、一件の問い合わせが届いていた。

受信日時は昨日の22時58分。


件名:【ご相談】家内の素行調査の件

泉美 雫 様

突然のメール、失礼いたします。 株式会社カノウ・エコロジクス、常務取締役を務めております加納省吾と申します。

貴殿のホームページを拝見いたしました。 「女性ならではの繊細な視点」を売りにされているとのこと、大変興味深く拝見した次第です。 正直なところ、探偵業というのはもっと無骨で年配の男性が営んでいるイメージが強かったものですから、泉美様のようなお若く、かつ大変お美しい方が代表を務めていらっしゃるとは驚きました。

実は、家内の素行に少々不審な点があり、調査をお願いしたいと考えております。 本来であれば大手興信所に依頼すべき案件かとも思いましたが、事務的な対応をされるよりも、 泉美様のような女性であれば、私のこの心の痛みも、より親身に汲み取っていただけるのではないかと直感した次第です。

内容が内容ですので、詳細については直接お会いしてお話しできればと思います。お若い女性一人では、ご不安もおありになるでしょうから、まずは私が、依頼人として相応しいかどうかを面接していただく形でも構いません。

つきましては、明日以降、貴殿の事務所あるいは、私の行きつけの静かなラウンジ等で一度お会いできませんでしょうか。

報酬については、泉美様のご期待に添えるよう、相場よりも色を付ける用意がございます。それでは、良いお返事をお待ちしております。


文面は丁寧だが、端々に「女が探偵をやっていること」への好奇心と、下衆なニュアンスが透けて見える。

見える気がする、じゃなくて、見える。

見える…見ている…と言えば、昨日の橘海斗くんの視線だ。


「アレくらい純な好意なら…いいんだけどね」


彼の慌てっぷりを思い出して、あの時は我慢したけど、今度は普通に「ぷふっ」と吹き出してしまった。

さて、この依頼。

選り好みが出来るなら放置するところだけど、泉美雫探偵事務所を取り巻く財務状況は決して楽観視出来るものではない。

雑居ビルのテナント収入は大体月150万から200万円程ある。しかし税金や維持管理費を含めた様々な要素を差っ引くと、下手すると赤字…なんて月も過去にあったし、築50年のこのビルは、今後いつ何時どんな修繕費用が発生するとも限らない。

私が探偵業での収益を上げられなかった場合、自由に使えるのは月十数万円程度。

改めて書くと楽観視出来ないどころか、結構な危険水域にある気がする。

なのでこの仕事は受けざるを得ないのだ。

「琥珀」のアルバイト店員、イケメンハイスペック男子高校生橘海斗くんの容姿と様子を思い出してのぼせてしまった頬を手うちわで扇ぎ冷ましながら、マウスを操作して依頼人の会社情報を手早く洗う。

カノウ・エコロジクス…と。


雫は片足を座面に引き上げ、膝を抱え込むような姿勢でデスクに頬杖をつく。

そしてうんざりとした顔で、そのホームページを閲覧していった。

会社の旧名は、加納産廃工業。現在のキャッチコピーは『サステナブルな未来を、私たちのマニフェストに。――SDGsゴール12のその先へ。』『循環の力で、地球をゼロ・エミッションの聖域に。カノウ・エコロジクスは、透明性の高い環境ソリューションを約束します。』『子供たちの笑顔のために、土に還る物語を。カノウ・エコロジクスは、17の目標を愛しています。』なんだそうだ。


「あー、はいはい。こーゆーのね…」


びっくりするくらい心に響かない。

そして常務取締役なる依頼人加納省吾の挨拶ページには、都内の高層ビルの窓際にモデル立ちして、高級腕時計を見せるために袖のボタンを弄っている風にポーズを決めながら、シリアスな表情を作って下界を俯瞰する45歳の男の姿が──。

多分本人は若々しいつもりなのだろうけど、そこは普通に年相応に見える。

そんな彼の容姿は、短髪でスポーツマンタイプの男らしい顔をしている人、と説明するのがいいだろう。

個人的には微塵も好みではないし、イケオジとも呼びたくないから、これ以上説明しようとするときっと悪口になってしまう。

そこにインサートされるメッセージ。

『Next Loop. Next Life. 地球に、誠実でありたい。』


「……」


既にもうそのアクの強さに胸焼けしていたけれど、お仕事だからと仕方なく作業を進めて、実名検索で直ぐにたどり着ける彼のSNSまでは遠征することにした。

そこには派手な交友関係と、同じ穴の貉さん達との小金持ち自慢の数々が散りばめられていて、ナイトプールでゴールドの装飾を5つばかり身に着けながら、若い女性をはべらせてポーズを決めている加納省吾の肉体は、腹筋が六つに割れる程に鍛えてあり、肌も小麦色に焼いていたりと、かなり頑張って造り、維持しているのが窺えた。

心を無にして彼のここ5年分を掘り返す。

途中何度かお菓子の力を借りての、その偉業ともいうべき忍耐の結果、手に入れた情報は2つ。

彼が自慢げに晒す港区女子系の女友達の中に出現頻度が高すぎる女がいる事と、加納省吾のSNSには奥さまやお子さんと映っているもの、即ち「夫婦」と「家族」を思わせるものは一件たりとも見いだせない事であった。


「あら?そう言えば…」


何気なく閲覧した際に目にしていた情報を頼りに、再びカノウ・エコノミクスのHPへと戻り、数度のクリックを繰り返す。


「確か過去の活動報告で……あった」


この加納省吾の旧姓は佐藤省吾と言い、奥様は会社創業者加納伸介の長娘加納由香。つまり依頼人は婿養子である事が確認できた。


「なるほどね…はいもう大体わかった!」


こんな気持ち悪い案件はさっさと終わらせるに限る。

私は依頼人加納省吾への、今日にでも泉美ビル1F純喫茶「琥珀」での面接を希望する旨をそっけなく整えた文書を打ち込む。

その最中、依頼人の文面が脳内で…しかも何故かボイスつきでリフレインしていた。

『泉美様のような女性であれば、私のこの心の痛みも、より親身に汲み取っていただけるのではないかと直感した次第です。』


「地球に誠実である前に家族に誠実でいなさいっての」


メールを送信し終えて、これで事務所デスクでの仕事を切り上げる。

ツイストしながら壁に掛けられているゴシック時計を見上げると、もう12時を回ってしまっていて、私は急いでTシャツを脱ぎ捨てた。

だらしない女はここまで。

泉美雫は今から「美しくて、強くて、賢くて大人な女性探偵」となり、「琥珀」で美味しいご飯を食べなければならない。

ドレッサーに立ち寄ってヘアブラシを手にし、髪を梳き整えながらシャワーを浴びに行く。

換気扇の回りが悪いせいでサウナのようになっていた浴室に踏み込み蛇口を捻ると、最初は生温かい水が出てきたが、それはやがて鋭い冷たさを伴って雨の様に降り注いだ。


「っ……!」


気怠さを伴って疼くように火照っていた肌に、冷水の礫が叩きつけられる。

シャワーヘッドから溢れる水飛沫を頭から浴びながら、お臍の下に手を当てて、息を吐きながらお腹を凹めるドローインを数回行う。

そしてモザイクタイルを敷き詰めて出来てる壁に両手をつき、後ろにぐっとお尻を突き出し持ち上げて、背後から誰かにエッチされている時みたいに(もちろんそんな経験はない)リズミカルに腰を振り回す。


「あっ、あんっ、あっ、あんっ」


これは艶声。喉をリラックスさせて、強めの腹式呼吸だけで声を出すボイストレーニングの一種だ。

私の人様に見られたら軽く2、3回は死ねる感じのシャワー習慣で、こうしてお腹と腰回りのインナーマッスルを動かすと身が引き締まっていく。

…でもそれはそれとして、まあやっぱり、アンアン言いながら全身を揺すっておっぱいを跳ね上げ続けていれば、変な妄想はする。

これは身体が心に作用する医学的な根拠に依るものだと思う。

たぶん『女が生き延びる上で必要になった』本能的なものなのだろう。

『お相手様』の常連は、どちらかと言えば、漫画アニメゲームの版権キャラクターが多い。もっと言えば、K-POPアイドルユニットの○○君、みたいな実在の有名人を使う事は殆どない。

実在の人が登場するとき、それは大抵、身近にいる人物だった。

必ずしも好意を寄せている相手ではなくて、ぜんぜん意識もしたことないような意外な人物だったり、むしろ嫌いな奴だったりする。

そして今、私の中では、あの橘海斗君が後ろに立っている。

助手に誘ってみたものの、まだ返事は貰えていない男子高校生と…。

そんな恥知らずな妄想が、逆に私の背徳感と羞恥心を無慈悲に乱暴に煽り立てた。




──13分後。

私はシャワーヘッドを手に取り、火照ったうなじ、胸元、お腹、脚と…全身を容赦なく責める。

上気した肌が弾いた水粒が排水溝へ吸い込まれていくのと一緒に、身体の表面の何かよくないものが流れ落ちて、いままでぼやけていた私本来の輪郭が現れるような感覚を覚える。

こうなればもうこっちのもので、お気に入りのシャンプーを3プッシュして髪を洗い、ボディシャンプーを1.5倍量手に取って全身をくまなくマッサージし、洗顔料を細かく泡立てて陶器のような肌を丁寧に磨き上げ、最後に暖かいシャワーで全てを綺麗にしっかりと洗い流せば、体そのものが軽くなったような気がした。


「ふー❤」


心のスイッチを切り替えた私は、事務所に置かれた大きな姿見の前で立ち止まる。

そこには、「まあまあいいんじゃない?」って程度にコンディションを戻した裸の女が映し出されていた。

今なら誰かが不意にドアを蹴り破って入ってきたとしても半殺しで許してあげられるでしょう。

先ほど飲んだお水の残りを優雅に飲み干してから、ドレッサーの前にふわりと腰を下ろす。


「じゃあ、今日もがんばっちゃう?」


タオルドライをしながら、鏡の中の自分に向かってにっこりと笑ってみせる。

ここからメイクとコーデにかかる時間は推定40分。

現在時刻13時08分。

階下のテナント、純喫茶・琥珀から、微かにコーヒーを淹れる香りが上がってくる。


女探偵泉美雫の、嘘と真実が混ざり合う一日が、ようやく動き出そうとしていた。



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