探偵と助手
(れ、霊能者だってえええ?!)
海斗は店内の冷房が急に強まったような錯覚を覚え、彼女の嘘かホントかわからないテンション感に、この人ヤバイ人なんじゃないだろうか? とさえ思い始めていた。
初対面の人に使うギャグでもあるまい。
そういえばお水系の人には、占いとか霊感とか、スピリチュアルとかオーラとか、運命とか、そんな奇妙な事を真顔で言うメンヘラさんが多いとは聞くが……。
いや、運命は皆も言うか。
ともあれ何かぞぞっと来るものを感じて、ゴクリと飲み込んだ唾が乾いていた喉に痛いほどに沁みた。
(もしかしたら九条さんは、彼女がヤバイ客だから、僕がド新人の間は相手をさせないようにと配慮してくれていたのか?)
そう思い至って「大丈夫だったかい?」なんて心配げに声掛けされるのを期待しながらカウンターの中に戻る。
しかし、海斗を迎えた老マスターにそんな素振りは一切ないどころか、彼女のオーダーを聞くとにっこりと笑って「じゃあ今日は海斗くんが作ってみようか」と言い出した。
「ぼ、僕がですかぁ!?」
素っ頓狂な声を出してしまったが、嫌ですとは言えず、「わかりました!」と返事をしてから焼いた食パンにあんことバターを乗せるメニューに取り掛かる。専用のパンをとり、オーブンに置いて、決められた時間トーストして、決められた分量のあんことバターを添える、それだけ──手順は単純なはずなのに、指先が震えて上手く動かずにパンを落としそうになり、バターナイフを実際に落としたり、あんこの分量を間違えた。
自分のあまりの無能さに、これはあの不気味な女のせいなのだと言い訳したくなる。
出来上がった人生初の小倉トーストの出来栄えに不安を覚えながら、マスターが淹れてくれた珈琲が全てをカバーしてくれることを信じて、癒しの聖女から危ないメンヘラ女にまで格を落とした常連客が座るテーブル席へと戻る。
トレイを持つ手が、震えている気がした。
ちょっと前までは美しい絵画を愛でるような気持ちで見ていた女性が、今となっては如何にもな地雷女に見えてくるから不思議だ。
あの美しい顔立ちも、豊満な身体も、全ては危険を隠すための擬態なのではないか。
よく見たら結構ブスで、豊満じゃなくてただのデブではないか。
様々な疑念が頭をよぎり、その発想はいつしか美しい歌声で航海者を惑わし、船を岩礁に衝突させて難破させることで知られる恐ろしい妖精の物語を思い出すまでに至っていた。
彼女は相変わらずノートPCでの作業を続けていて、テーブルの上には先ほどは無かったA5の青色封筒と、人物の写真、そして文書資料が広げられていた。
何の資料だろうかと目がそれらに吸い寄せられそうになったが、すぐに視線を戻した。霊能者を自称する女性の持ち物など見ない方が身のためだ。
「お待たせしましタ。小倉トーストセットでス」
「ありがとう」
彼女は顔を上げ、その琥珀色の瞳で真っ直ぐに海斗を捕らえる。
西日を受けて輝く黒髪、透き通るような白い肌、そしてあの身体。危険だと分かっていても目を離すことができない。
悔しいがやはり可愛い…。
おっかなびっくりで再接近してみたが、いざその姿を間近に見ると彼女への興味が涌いてきてしまうのだった。
「僕の……何が見えたんですか?」
気が付けば、そう口走っていた。
今度は彼女が驚き、「ああ、さっきのは冗談。まさか本気にした?」なんて言い出しそうな表情を見せてから、テーブルの上を整理して小倉トーストセットを置くスペースを作る。
「そこ、座れる?」
対面のシートを指さした女性に、海斗は首を横に振って返す。
嫌です。
怖い。
「今は仕事中なので……」
「そっか、残念」
彼女はスティックシュガーを3本、そしてミルクをたっぷり、コーヒーカップに注ぎ込んで、それをかき混ぜる。
「うーんとね、さっき見えたのは例えば君の出身地とか。と言っても生まれた場所というより育った場所だと思うけど」
出身地が見える??
確かにその人物の雰囲気や仕草や、方言やファッションから、それがぼんやりと窺い知れることもあるだろう。
しかし海斗には、自分がそこまでの情報を彼女に向けて発信しているとは思えなかった。
同性の学友に対してなら「当たったら次の授業を裸でうけてやるよ」等と煽り返す場面だろう。
勿論「その代わり外したらお前がフルチン(昔はフリチンと云ったらしい)で廊下を走れよな」なんて条件を添えてだ。
「ちゃんと見るね…」
彼女はその瞳を閉じ、柔らかな動きで掌をかざして、まるで海斗の身体から流れ出て宙を漂う何かを優しく受け止めるような姿勢になった。
その仕草は、本物の霊能者のようだった。
いや、それが演技だとしても、あまりにも自然で迷いがない。
海斗は彼女の雰囲気に飲まれまいと全身を固くする。
もしこの身から栃木県成分が流れ出していると言うのなら、今だけ止まれ──。
「この感じだと……東日本……東北以南、多分北関東でしょう?」
最初の一手で茨城県、栃木県、群馬県の3択にまで迫られて胃がギュッ!となった。偶然だ、きっと偶然だ。そう自分に言い聞かせる。
「あってる?」
「……あってマス」
声が掠れた。
「じゃあ、栃木県でしょう? それも県南くらいね」
「そ、そうです足利市です」
彼女の霊視に驚いた海斗は、その先を言い当てられる前に自分から白状してしまい、しまった! と頭を抱える。
「あ、ホント? あの織姫神社の? いい所よね」
ちなみに足利織姫神社は縁結びの神様で有名で、メンヘラが口にすると怖い神社ナンバーワンであるとも言える。
彼女は一度手を下ろし、コーヒーカップを両手で持ち、茶道のような優雅な所作で口に運ぶ。その指先は細く白く、カップを持つ所作ひとつにも品があった。
「怖い? もう止めておく?」
そしてフォークとナイフとでトーストを小さいサイズに切り分け、あんことバターを盛りつけると口元に運んで、小気味の良い音を響かせながらそれを食む。
「あっ。これ、君がつくったでしょう?」
二重の意味でドキッとして、急いで頭を下げる。
「すいません、初めてだったもので……」
調理場はここからは死角となっていて見えないハズだが、これも霊能力なのだろうか。
「いつもと少し違う感じがしただけ、普通に美味しいよ」
その言葉に海斗の肩から力が抜けた。味の違いだったとは…。
彼女が普通に美味しいと言ってくれた一切れを食べ終えるまでの間に、海斗は改めてその先に挑む決意を固める。
「じゃあ他に何がわかりましたか?」
これが何か巧みな話術なのではないかと疑って、それをなんとしても暴きたい。
少年のそんな心の内を知ってか知らずか、彼女は彼にもう一度対面に座る様に伝えた。
「そこに座ってくれたら、霊視の精度がグンとあがるんだけどな」
彼女が不意にカウンターの方を指さすので海斗が店内を振り返ると、視線の先にはこの喫茶店の老マスターが立っていて、いつもの柔和な笑顔のまま「そこでお話しておいで」と言いたげにこちらに頷き返した。
海斗は迷った。正直座るのは怖い…しかし九条さんがああ言っている以上、もう仕事を理由には出来ない。
腹をくくって座席に着くと、女性客はニッコリと笑いながら、今度は切り分けたトーストを指さした。
「初めての作品なら、自分でも食べてみないとね」
「そ、そうですかね。じゃあ、いただきます……」
完全にペースを握られている。
緊張の中でなんとか落とさずに口に運んだトーストは、確かに悪くないと思える味だった。サクッとした食感の上で、香ばしさに包まれたバターの塩気とあんこの甘さが一生懸命踊っている。これなら老練のマスターが淹れたコーヒーと一緒に出しても失礼にはあたらないだろう。
「美味し?」
「はい…まあ…」
女性霊能者は海斗の様子に満足げに頷き、一度腰を浮かせてから座り直し、対面に向かってゆさりと身を乗り出して、瞳を閉じた。
海斗は霊視再開に合わせて大きく揺れた彼女の胸元から視線を逸らして、窓の外の景色を見る。
いやあ、今日も本当に暑いな──。
前橋では日中最高気温が38.4℃まで上がったというではないか──。
「……じゃあ次に見るのは家族構成。まずは兄弟……うん、君は一人っ子……ね?」
「…ハイ」
当たっている。でも今は少子化の時代だ。50パーセントとは言わずとも、当たる可能性は高い選択肢ではないだろうか——海斗は自分を落ち着かせるように、そう考えた。
「違ったら、違うって言っていいからね?」
「それは、はい。わかっています」
ここまで追い詰められた反動で、外れたら座席の上に飛び上がり、小踊りしながら鬼の首を取ったように悦んでしまいそうだった。
「……家には、お父様とお母様、あ。お母様の方が年上ね。それと……おばあ様。ああ、きっと母方のおばあ様ね」
「……ソ、ソウデス」
うそだろ…?
海斗の背中を冷たい汗が伝った。
父と母、祖母との四人暮らし…これはまだ20%くらいの確率で当てられるとしよう。
母が父より年上だということ、おばあちゃんが母方である事。そんな細かいことまでは、当てずっぽうで当てられる確率を越えている。
そして彼女の話術には、特に何か誤魔化しのテクニックのようなものは感じない。
例えば「……おじい様は……」と刻み、相手の微妙な反応を見てYESかNOを判断して「いないか……」なんて感じに軌道を修正しながら会話を進めている様子はなかった。
最初から断定的に、そして正確に、まるで見て来たかのように。
「じゃあ次は君のこと。これは霊視だから、君の身体を包む雰囲気みたいなのを見てるんだけど、時々鮮明なイメージも見えるから、変なの見えちゃったらごめんね」
「エッ」
まさかの事後承諾に、海斗は本気で焦って汗をかく。変なもの——それはつまり、さっきから見ているその胸の谷間に指を差し込みたいとか、そういう邪な考えとかのことだろうか。
逃げたい。
九条さん助けて。
ちょっと海斗君戻ってきてって言って。
「地元の小学校の頃から……活動的で…成績は結構……ううん、かなり良かった。そのまま学区の中学に通って……やっぱり成績いい。これはもうずーっと学年トップクラスだったでしょう?」
「はい、まあ、いえ、まさにトップでした」
もはや驚くことにも慣れてきた。しかし心臓は相変わらず早鐘を打っている。
「部活でも結構すごい感じ? 貴方が活躍している様子がなんとなく分かる。皆の中心。あーこれ……バスケ部ね。なんかね、三位決定戦みたいな、大舞台にいる……」
全~部当たっていた。
小学校の頃から成績は良く、中学では常に学年トップの成績を維持していたし、バスケ部では二年目からレギュラーとなり、三年目には主将を務めた。チームは地区大会で2期連続優勝し、去年の栃木県中学校総合体育大会では準決勝で宇都宮に惜敗している。
海斗は知らず知らずのうちにべっとりと汗ばんだこぶしを強く強く握り締めていた。
爪が掌に食い込んでいる感覚がある。
「この春からは都内の結構凄い高校にいるのかな? うーんと、多分一駅向こうにある、あの超難関中高一貫男子校じゃない?」
もはや海斗には頷く事しかできず、そこで彼女は掌を下ろし、目を開けて、胸と肩を大きく動かして、ふー…っと深い呼吸をしてから、骨盤を立てて座り直した。
その一連の動きを、海斗は呆然と見つめていた。
「……とまあ、こんな感じね」
「こんな事ってあるんですね……正直怖いくらいです」
もはや疑いようがない。
信じがたい事だが、霊能力とは本当にあるのだ。
目の前でコーヒーを飲んでいる女性には何かが見えている。オーラとかいうヤツだろうか。兎に角人間の身体から発せられる何かを読み取って、その人の過去を知ることができる——。
怖えぇ。
ここまで見られてしまうと、あまり人には知られたくない心の傷や、疚しい過去にまで触れられてしまうのではないかと落ち着かない気持ちになった。
おっかねぇ。
怖いです、というのは、純な少年の正直な感想だった。
表情を強張らせたままの海斗に向かって、女性客は両手を合わせて首をちょこんと傾げた「ごめんなさい」のポーズをする。その仕草はさっきまでの神秘的な雰囲気とは打って変わって、親しみやすいものだった。
「怖くない怖くない。だってこれには『タネ』があるんだもの」
「は?」
予想外のカミングアウトに、海斗は間の抜けた声を出す。
え? なんだって?
彼女がハッキリと言ったのだ、今行われたリーディングは霊能力ではない、と。
「やっぱり今のはトリックだったんですか?! でもどうやって?!」
海斗が長身を浮かせて身を乗り出すと、彼女は楽しげに目を細め、残り二切れとなっている小倉トーストを食べた後、手にしたフォークで宙に円を描く。
「ここは逆に質問しちゃおうかな? 私ってまあここで今も仕事していたわけだけど、職業わかる?」
海斗は彼女のことをヴィジュアル売りしている個人事業主──平たく言えばAVアイドル──ではないかと考えていた事にはそっと蓋をして、差し障りのない答えを別途用意する。
そんなことは口が裂けても言えない。呪い殺されてしまう。
…あ、でも霊能力は嘘だったんだ。
「……大学生かな? とか思ってたくらいなので。正直全然分かりません。ノートPCでお仕事してるのなら、フリーのライターさんとか作家さん……でしょうか。あ、あとは霊能力者じゃないって事は確実ですよね」
「ふふふ。もっと想像力を働かせて……といっても無理か。情報少なすぎるものね、私の仕事はね……た・ん・て・い」
彼女はテーブルの上の写真や書類をまとめて、青封筒の中に戻してから、バッグへとしまう。
それが、彼女の正体のヒントの為に出してあったものだと、今更ながらに気付く。
探偵…? という事は、つまり──。
「じゃあさっきのは全部、僕の振る舞いや表面から見て分かる情報から推理したって事ですか!?」
驚愕する男子を前に、彼女は云う。
「えーと、『橘海斗くん』、コーヒーのお代わりをお願いできるかな?」
突然フルネームで呼ばれて、海斗はギョッとして固まった。背筋に氷水を流し込まれたような感覚が走る。
これはもはや推理などではない。本当の霊能力でもない限り、名前を当てるなど不可能だ。
でも彼女自身がこれにはタネがあると言ったのだ。
つまりこれは……。
海斗の頭がフル回転を始めた。彼女は自分のことを知っていた。それは、事前に情報を得ていたということだ。
では、どうやって?
「……わかりましたよ、僕だって馬鹿じゃないですからね」
「じゃあ答えを聞かせて?」
今度は女性客の方が大ぶりな乳房をテーブルに放り出すようにして身を乗り出し、その迫力にビビった海斗が、カラカラに干上がった喉を潤そうと、テーブルの水を手にして一口飲む。これは無意識に行われた動作で、「それ私のだけど」って顔をしている女性客の表情を見て我に返り、慌ててグラスをコースターの上に戻しつつ、エヘンエヘンと咳払いを繰り返した。
その最中に本当に咽せて、酷く咳き込む。顔が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。
「……貴女は、ずっと僕を見ていたんじゃないですか? 馴染みの喫茶店に一月前から通いだしたアルバイト学生に注目して、その様子をつぶさに観察した。そして僕と九条さんとの会話の断片から、名前や経歴、通っている学校を知ったんですね?」
海斗は自問自答する。実際に、それこそ客が彼女しかいない時なんかは、九条さんと雑談に興じていたし、その中で、「夏休みは帰らないの? ご家族は?」「父と母と祖母がいます。元気ですよ。お盆には帰らないとと思っていますが…」とか「へぇ、あそこの生徒さんか、頭いいんだねぇ!」「昔から要領が良かったのかもしれません」とか「背高いねぇ。何かスポーツはやってたの?」「バスケです」みたいな会話をした覚えはある。この推理に大きな穴はないはずだ。
「じゃあまず、私が君を注視していたのはどうして?」
「それは……その……常連さんとしての好奇心とか……」
僕が彼女を意識していたように、彼女も僕を意識していたのではないか、なんて言えるはずもなくて、少年は言葉を濁した。そんなことを言ったら、自意識過剰な馬鹿だと思われてしまう。
彼女は海斗の回答に「ふぅーん」と返した後で、最後の小倉トーストに残りのあんことバターを全ツッパして口に運んだ。その仕草は相変わらず優雅で、しかしどこか意地悪げな笑みを含んでいた。
「……じゃあ、例えば私が君の事をす~っごく気になっていたとしましょう。私の席はいつもここ。マスターさんと君の会話の殆どはカウンター内。これ聞こえるかな~?」
実際会話していた海斗も、失礼にならない様に声のトーンを抑えて会話していた自覚があったので、カウンター内の会話がここまで聞こえてくるとは思えなかった。
「う……何か聴力を補助するようなものとか……」
「それなら盗聴していたとしましょうか。ええと、橘くんの推理は、私がアルバイト新人の貴方の事を気にしてて、盗聴とか、何らかの手段でマスターとの会話を聞いて事前に情報を把握していた、でOKね?」
「僕の外見や振る舞いから、出身地が分かったとしても、万が一、家族構成や学業成績、スポーツ歴がわかるのだとしても、名札でも下げない限りは本名が分かる訳がないですからね」
「そう、私は事前に君の事を知っていた。でも答えはもっと単純明快。盗聴器とか、そんな小物も必要なしで出来る。さて、どうやったんでしょうか?」
事はもっと単純らしい……。
海斗は何かを掴みかけているんだけど言葉にできない、分かりそうで分からない、そんな感覚に頭を抱える。
答えは目の前にあるはずなのに、それを言葉にすることができないもどかしさに、海斗は唇を噛んだ。
「分かりません……教えてください……」
「はい。じゃあネタばらしの前にコーヒーのお代わりをお願いね、九条さん」
女性客は海斗の背後へと視線を送り、カップを差し出す。
知らぬ間に、ガラス製のコーヒーサーバーを手にした九条さんが、すぐ後ろに立っていた。
「海斗君、こちらの女性は、この喫茶店のオーナーさんなんですよ」
「え?」
海斗は目を丸くした。
老マスターはこの店のオーナーのカップにコーヒーを注ぐ。その動きは恭しく、しかし親しみを込めたものだった。
彼女がそれを受け取ると、九条さんはまたカウンターの向こうへと戻っていった。
海斗が九条を唖然と見送り、視線を正面に戻すのを待ってから、彼女は口を開く。
「泉美雫です。探偵稼業を引き継いで3年目の23歳。よろしくね。つまり、私は橘君の履歴書に目を通してるってワケ。あとはまあ、九条さんから君の事を色々と聞いてもいたのよ」
「ああそうか……」
やっと全てのピースが嵌まった。
分かりそうな気がしていたのは、海斗の頭の中にはマスターと彼女が個人的な知り合いである事実に辿り着くために必要十分な情報があったからだ。
何しろあの特別扱いである。いつも同じ席、マスターだけが接客する。料金を払わずに帰る——それらは全て、彼女がただの客ではないことを示していた。
個人的な知り合いだと考えるのが一番自然ではないか。
しかし、彼が目にしていた現実が、穏やかな喫茶店のオーナーと物静かな常連客との、必要最低限のゆったりとした関わり合いであったために、それを具体的な形に組み立てる事ができなかったのだ。
(ただの常連客ではないのは分かっていたのに……流石にここのオーナーだとは思わなかったぁ…。もう少し偉そうにしててくれれば…!)
彼女は実質的には海斗の雇い主なのだから、履歴書を見るのも当然というわけだ。
「悪かったわね、勝手にテストしちゃって。私の職業とか、ここのオーナーであるとか、あんまり言いたくなかったから、こんな形式にしたの」
「まあ……そういうことなら……仕方ないですね……」
真の雇い主に頭を下げられて、渋々ながら彼女に理解を示してしまう。
「やられた…」
海斗は力なくテーブルに身を沈める。
確かに、言われてみれば簡単な謎だった。
そして謎が解けると同時に、また別の謎が生まれる。
それは、どうしてこんな手の込んだ事をしたのか?ということだった。
「……あの、泉美オーナー、質問いいですか?」
「はい、どうぞ」
「もしかして『コレ』、アルバイトに入った人全員にやってたりしますか?」
「私がここのオーナーになって3年の間に、橘君で二人目。それが三十点あげた理由です」
当たっていた三十点分の推理、それはつまり……。
「……僕の事が気になったってヤツですか!?」
敗北に打ちひしがれていた海斗は、崩れかけていた上体をガバっと起こした。
泉美はゆっくりと頷く。
「そう。理由を知りたい?」
「勿論です」
海斗は知らず知らずの間に試されていた事に僅かにムッとはしていたが、それに対する謝罪はもう受け入れていたし、それよりも一〇〇点の解答が出来なかったことが悔しいし、彼女に興味を持ってもらえていたことが嬉しくもあって、是が非でもその理由を知りたくなっていた。
「実はね…」
自分をじっと見つめている星を湛えた琥珀色の瞳。その真っすぐな視線から、海斗は目を逸らすことができなかった。
少年は思う。やはり、こちらが彼女を意識していたように、彼女もこちらを意識していたのだ。
自分でも馬鹿げた考えだと分かっている。七歳も年上で、雇い主で、探偵で、おまけにこんな人を食ったような性格の女性だ。
2人が釣り合うはずがないし、付き合っても地獄を見るだけだ。
——でも。
なんだかおっかない人だけど、もし言い寄られたのなら即OKしてしまうだろう、と。
ドキドキと胸が高鳴る。
何と応えるべきだろう。「お受けします」とかかな?
緊張の中、海斗に出来ることは、彼女の瞳から目を離さないように努める事だった。
「……丁度ね、このひと夏の間の助手を探していたの。体力があって、礼儀正しくて、察しも良くて……みたいな。九条さんは私の仕事を知っているから、貴方を推薦してくれたの。私の所にオーダーを取りに来るっていうのは、つまりそういう事なのよ」
全てのネタばらしが終わる。
それは文武両道で身長181センチを誇るイケメン男子高校生橘海斗君への告白ではなかった。
知らない間に助手の候補に選ばれ、応募もしていないテストに合格したと云う事であった。
オートで口が動いて「お受けします」とか言ってしまう所だった。危ねぇ──。
「そんな訳だから、もし君が探偵助手のアルバイトに興味があるのなら声をかけてね」
そう告げると、純喫茶「琥珀」のオーナーでもある女探偵泉美雫は、みたびノートPCへと視線を落として、この会話はこれで終わり、と言わんばかりにキータッチを再開させたのだった。
海斗は小倉トーストの皿を下げてから、しばらくの間シンク前に立ち尽くしていた。
目の奥に昔の長~い映画を見た後のような疲労感がある。
(探偵の助手——そんな仕事が、マジで存在するのか。そしてそれが、自分に舞い込んできているのか)
改めて奥の座席に身を沈めている『オーナー』の様子を窺う。
西日が傾き始め、窓から差し込む光の角度が変わっていく中、彼女の黒髪が亜麻色に輝いている。
店内には相変わらずビル・エヴァンスのピアノが流れ、振り子時計が時を刻み、コーヒーの香りが漂っている。何も変わっていないはずなのに、海斗にはこの古い喫茶店が、さっきまでとは全く違う場所に見える気がした。
九条は海斗の隣にそっと並び立ち、穏やかな笑みを浮かべて尋ねる。
「どうだった?」
「……どうだったって言われても」
海斗は頭を掻いた。何から話せばいいのか分からない。
「雫さんが君を気に入ったと言うのなら、それは本当のことだ。探偵とはいっても、まだまだ駆け出しで、しかも若い女性だからね。危険な事も沢山ある。助手をするとなれば、その危険を分かち合うことになるかもしれない。でももしも海斗君にその気があれば、出来る範囲で力を貸してあげて欲しい」
老マスターはそれだけ言うと、また厨房へと戻っていったのだった。




