それは喫茶店の最奥から始まる
八月四日
湿り気を帯びた熱風が千駄木駅すぐの不忍通りを吹き抜けていく、蝉の声がアスファルトから立ち上る陽炎に溶けそうな午後二時。
街路樹の葉は力なく垂れ下がり、信号待ちの歩行者たちは日陰を求めて電柱の影に身を寄せている。コンビニの自動ドアが開くたびに冷気が漏れ出し、その前を通りかかる人々は一瞬だけ足を緩めて、束の間の涼を盗むように歩いていく。
皆が行き交う駅近ビル群の隅に、地元民のごく一部が第3パラダイスビルと呼ぶ雑居ビルがある。誰がそう呼び始めたかわからないし、第1や第2がどこにあるのかもわからない。100坪規模でRC造の地上6階建てで、外壁は「45二丁タイル」と呼ばれる長方形のタイル貼り、窓枠は重厚なスチールサッシで階段はコンクリート打ちっぱなしにゴム製の滑り止めがついた、いかにも昭和な建築物だ。
そのレンガ色のタイルが、排気ガスや雨だれで少し黒ずんでいるが、50年前か、それ以上前か、建てられた当時にはきっとこのあたりで一番モダンで立派なビルだったに違いない。
テナントの案内板を見ると、6Fには美少女トレカ専門店『ヴァルキリー』、5Fには個室ビデオ・レンタルルーム『プライベートシアター 繭』、4Fにはライブチャット配信スタジオ『ディープ・ブルー』、3Fには自由診療のクリニック『星島メディカル』、 2Fには『泉美 探偵事務所』とあり、B1には契約者専用駐車場とある。
ビルの窓に貼られた薄れたり霞んだりしている文字情報と一緒に読み解けば、二階は泉美剛三探偵事務所で、四階は元テレホンクラブ、五階はイメージクラブだったことが分かる。
そして『純喫茶・琥珀』と記された錆びた看板を外に出している一階の店舗だけが、周囲の喧騒から切り離されたように沈黙していた。
その看板に導かれて重い木製のドアを押し開けると、冷房の冷気とともに、焦げた豆の香りと古い絨毯が吸い込んだ数十年の時間が、来訪者の鼻をくすぐるだろう。
耳には、片隅に置かれた大きな振り子時計が刻む低音と、真空管アンプを通したアナログレコードが奏でる、針のノイズが混じったビル・エヴァンスのピアノ・ジャズが届くに違いない。
クラシカルで、レトロで、アンティーク。そんな昭和の香り漂う空間は、いつもは閑古鳥が鳴いているが、今日ばかりは様子が違った。外の地獄のような熱気に耐えかねた人々が、吸い寄せられるようにドアを押し開けてきているのだ。
営業回りのサラリーマンや大きな荷物を持った観光客。彼らは一様に、店内の冷房に触れた瞬間、深く熱い吐息を漏らして、出された水を一気に飲み干すと、ようやく人心地がついたと言わんばかりに汗を拭い、席料代わりに何かを注文しなくてはとメニューに目を通しだすのだ。
高校一年のアルバイト店員、橘海斗は、そんな客たちに次々と水を運び、空いたグラスを下げ、レジを打っていた。
橘海斗はこの春に都内の私立高校に進学したばかりの16歳だ。百八十一センチの長身とシュッとした風貌が、彼を実年齢よりも幾分上に見せている。中学時代にはバスケット部のエースとして鍛えた広い背中と、すらりと伸びた手足。まだ少年特有の線の細さを残すものの、その立ち姿には同年代の高校生にはない落ち着きがあった。
地元栃木県の小中学での成績は超が付くほどに優秀な文武両道を地で行く少年だ。
親元から離れたい思いがあって、全国でも屈指の難関とされる東京都の中高一貫男子高の編入試験に挑み、見事に合格を果たして、今は千駄木の学生向け賃貸マンションの一室を借りて生活している。
一人暮らしの苦労から、両親の、とくに母親のありがたみをしみじみ~と感じる……ことはなくて、親の目の無い自由度の高さにこそ心を躍らせながら日々の青春を謳歌していた。
だが、満足のいく学生生活を実現するためには欲しい物が山とあり、毎月十万円の仕送りでは、どうやりくりしても必要最低限を満たすのみであった。
そこで橘少年は、勉強と部活の合間はバイト漬けの学生生活を送ることとなり、一月ほど前からこの『純喫茶・琥珀』でフロアスタッフとして働いていた。
「海斗君、ずいぶん慣れて来たんじゃないかい?」
調理場に立つマスターの九条巌が、自ら率先して仕事を見つけ真摯な態度で仕事に打ち込む若きアルバイト店員に声をかける。
六十代半ばの、小柄で、いつも穏やかな振る舞いを崩さない、とても温厚な男性だ。白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけ、糊の利いた白いシャツの袖を肘まで捲り上げ、黒を基調にしたレザーのエプロンを身に着けている。その清潔感のある風貌は、スッと伸びた背筋、ゆったりとしているが爪先から指先まで神経が行き届いているような所作と合わせて、品のあるこの喫茶店の主に相応しいものだった。
そしてなにより彼の淹れるコーヒーは絶品なのである。
「だといいんですけどね」
海斗は空のグラスをシンクへと運びながら照れくさそうにはにかんだ。まだまだ不慣れな接客に追われながら、首筋に滲んだ汗を制服の袖で拭って窓の外の陽炎を一瞥する。
「もっと楽にしててもいいんだよ」
「はい。でも、やっぱりお金を頂いているから、責任もありますし」
恩義に感じているのは本当だ。
平日は部活を終えて宿に戻ってシャワーを浴びての18時から働かせてもらっている。
試合などの無い日曜日は、10時の開店から。
時給が特別良いわけではないが、宿から走って10分の立地の良さと、何よりここの居心地の良さが気に入っていた。
「いつもここで22時まで働かせてもらっているので、そこはちゃんとしておきたくて」
その分だけ、出来る事はしたいし、「雇わなければよかった」なんて思わせたくはない。
手にしたグラスを丁寧に拭き上げながら、背筋を伸ばしている少年の生真面目な姿は、今どきの若者としては珍しい部類のものだろう。
「もしかして…お金に困っているのかい?」
親身になり、心配してくれている様子の老マスターに、海斗は勿論お金は欲しいけど、そんなに深刻なやつじゃないですよと正直に答えた。
「遊ぶ金を作るためみたいなものなんで。僕、欲しい物とか沢山あるんですよ」
「それはいいね。私にも覚えがあるよ。ちょうど海斗君と同じ年の頃に、RZ50というバイクが欲しくてね…」
老マスターは楽しげに笑ってから「おっと」と言って雑談を切り上げてイタリア製の大型エスプレッソマシンの前に立ち、海斗もまたグラスの積み上げられているシンクへと視線を落とした。
「よし」
水道の蛇口から流れ出る水音と、グラスが触れ合う微かな音が、ジャズのピアノと溶け合って、涼しげな音色を奏でた。
カララン。
客足も落ち着いた午後4時頃、真鍮製のドアベルが澄んだ音を立てて新たな来店を告げた。
「いらっしゃいませ──」
カウンターの椅子を拭いていた海斗が反射的に声を上げてから入口へと視線を向けると、そこには外から差し込む真夏の陽光を背にした常連客のシルエットがあった。
二十歳前後の女性客で、海斗がアルバイトを始めた日から、彼女が訪れなかった日はないと記憶している。
彼女は店内に向かって会釈を返してから、俯き加減のまま、店の一番奥へと歩いていく。
腰まで届くほどの長さの艶やかな黒髪が、歩くたびに緩やかな波を描く。
そしてその豊満な胸の膨らみと、腰から尻にかけての、日本人離れした肉感的な曲線が人目を引く。歩く度に乳房とお尻が揺れているその佇まいから、海斗は彼女を業界の人とか、インフルエンサーとか、それこそAVアイドルとかの、自分自身のヴィジュアルを売り物にしている職種なのではないかと推測していた。
何となく寝つきの悪い夜に彼女の事を思い出し、有名人だったら部活の時にでも皆に自慢してやろうと考えて、ベッドの上に身を投げ出しながらスマホを弄り、アダルトプラットフォームを閲覧して、『巨乳』『巨尻』とか、そんなザックリとしたワードだけで彼女を探そうとしたこともあった。
無論それでなにかがヒットするはずもない。
若気の至りというやつである。
彼女はいつものように誰とも目を合わせずに奥の席に陣取ると、ノートPCを広げてなにやら作業をし始めた。
海斗は、あのノートPCを覗き込んだならグラビアの仕事の打ち合わせや撮影スケジュールの確認、自撮りの加工作業だとか自らのSNSでファンとのやり取りを行っている様子を目にすることができるのだろう、などと勝手な想像をする。
しかし彼にはそれを確かめる術がなかった。
と、言うのも、実は彼女に対する接客は全てマスターの九条さんが行っていた。
彼女がやってくると、九条さんが頃合いを見計らって一杯のコーヒーを最奥のテーブルへと運んでいき、そのまま静かに注文を受けて戻り、厨房で調理をして食事を届けるのだ。
その後彼女は四時間ほどしてから席を立ち、カウンターの前を通りかかる時に小さく会釈をして、店を後にする。
そう、料金の支払いを行わずに、だ。
それがこの女性客だけに適用される特別なルーチンだった。
以前に一度、仕事に勇んだ海斗が「僕が行きます」と伝票を手に取ろうとしたことがあったが、老マスターは穏やかに「いいんだよ、彼女の分は僕がやるから」と制した。それ以来、あの女性客は海斗にとって、この古い喫茶店の背景の一部であり、美術館に飾られた名画の如き、触れてはいけない「聖域」のような存在となった。
何気ない風を装って、奇妙な来訪者の姿を遠目に眺めるのは、アルバイト中の密かな楽しみでもあった。
「海斗君、奥の彼女の、注文を聞いてきてくれるかな」
「えっ?……あ、はい!」
調理場でナポリタンのフライパンを振っていたマスターからの突然の指示に、海斗は驚き、心臓を一拍ドクンと跳ねさせながら手に持っていた布巾を置く。
喉まで出かかった「九条さんじゃなくていいんですか?」というセリフを飲み込み、改めてきっちりと返事をした。
「わかりました!」
これは『君にはもう大事な常連客を任せてもいいだろう』という信任を得たのと同じだった。
「よし……」
喫茶店の主に認められた誇らしさと、禁断の存在と位置付けて遠くから眺めることで満足していた女性に接客しなければならない緊張とで、喉の奥が痛いくらいに乾いていくのを感じる。
こんな緊張は、それこそ中学バスケ部最後の試合となった、県大会準決勝、宇都宮を相手に、入れば延長の状況で放つことになったフリースローの時以来ない。もっともあの時は外してしまったが……。
海斗は苦い記憶を噛みしめつつ、意を決して銀色のトレイに水の入ったコップを載せると、店の奥へと足を進めた。
胸を張って、一歩一歩、しっかりと、力強く歩くと、築五十年の床がいつもより大きくギィギィと鳴く。
ノートPCのタイピング音が、近づくにつれてはっきりと聞こえてくる。その音だけが、彼女と外界を繋ぐ唯一の接点のようだった。
店内の隅、西日の差し込むテーブルに座る女性は、同世代の女子たちとは明らかに違う、静かで理知的な空気を纏っている。
そしてこの夏真っ盛りの暑さで今日の彼女は襟ぐり広めのブラウスを着ており、座った姿勢で前かがみになると、その深い谷間がここからでもハッキリ見て取れるほどに惜しげもなく披露されてしまっていて、高校生の海斗から見れば、それは手の届かない「大人」の雰囲気そのものだった。
「あの、失礼しまス」
冷房の音に混じって震えた声が女性の手を止める。自分の声がこんなに上ずっていることに、海斗は内心で舌打ちした。
彼女はゆっくりと顔を上げ、初めて海斗と真正面から目を合わせた。
改めて目にしたその顔立ちは、想像とやや異なり、年上の女性に対しては失礼になるかもしれないが、どこか幼さを残した可愛らしさがあり、琥珀色の光を湛えた大きな瞳、その上で影を落としている長い睫毛、小ぶりな鼻、薄く色づいた唇。顔のパーツひとつひとつが精巧に配置されながらもどこか人間味のある——つまり、完璧すぎない——言ってしまえば愛嬌を残している。
どことなく漂う混血の香りに、『東欧系』なんて言葉が思い浮かぶ。
それは一般的には青年と呼ばれはするものの、法的にはまだ少年であると定義される十六歳の高校一年生男子をドキっとさせるような美しさを備えたものだった。
海斗には化粧の事などは全く分からなかったが、同世代の女子がするような盛り方とは違う、素肌のままのような自然な印象をうける。流石にノーメイクだと思う程無知ではないが、その飾らない姿が、かえって彼女の持つ端整な目鼻立ちを際立たせているような気がした。
「あら?」
そんな彼女が、海斗の姿を視認してすぐに怪訝な表情を作り、小さく首を傾げると、耳元の髪がさらりと流れる。
「き、今日は僕が注文を伺うように言われまシて……」
女性客が漏らした疑問の声を、海斗は「いつもと違う店員が来た」ことへの不満と受け止め、額に汗を滲ませながら慌てて言葉を重ねた。
声を裏返らせるほどガッチガチに緊張しているアルバイト店員の様子に、女性客は失礼にならない様にと口元に手を当てて笑いを堪えて、その肩を小さく震わせながら再び視線をノートPCへと落とす。
海斗は自分が笑われている事を甘んじて受け止めながら、頬を掻いた。
「本当にすみません…」
「ああ、ちがうの。ゴメンネ。今……見えちゃったから」
「見えちゃった?」
海斗は背後を振り返るが、店内に変わった様子は何もない。カウンターでは九条さんがナポリタンを仕上げており、他の客たちは各々の時間を過ごしている。一体何が見えてしまったのだろうか?
その一方で彼自身が、彼女の胸元の、ブラによって支え持ち上げられた両乳房が作り出す深い谷間の迫力に釘付けとなっていたことから、見えちゃってるのは彼女の方だし、見ちゃってるのは僕の方である、という思いだった。
無理に視線を逸らそうとしても、かえって不自然になる。でも顔を直視する勇気はない。どこを見ればいいのか分からなくなって、結局彼女の顎のあたりに視線を固定することにした。それでも視界の下端には、あの膨らみの輪郭が入り込んでくる。
だから見る。
見れば見るほどにものすごい。
海斗は目の前にいる女性の身体は、『商品』に違いないぞと確信する。こんな身体つきで、こんな顔立ちで、普通の仕事をしているはずがない——そう思わずにはいられなかった。
事実、彼女はここで毎日何時間も作業をしているのだ。
疑惑の(魅惑の?)女性客が笑いを堪え終えて、ふーっと深呼吸してから改めて顔を上げたので、海斗の視線はそれに従って女性客の口元まで引き上げられた。
さあ気を取り直して注文をとらなくては──。
「ごちゅ…」
「……見えたのはね、君の事」
「え?」
注文を尋ねようとした後の先を取られ、彼女の意図するところを理解できずに、海斗はオウム返しで返事をする。
「見えたのは、ぼ、僕の事ですか?」
そりゃ見えるだろう。見えなかったら僕は幽霊ということになるではないか。
困惑する少年を見上げた女性客は、肩を竦めてから、腕まで滑り落ちて来たブラの肩ひもを正して見せた。
「私……霊能者なんだ。でも安心して、別に悪い未来が見えたとかじゃなくて、君の過去の一部が見えたとか、そんな感じだから。えーと、注文だったね、小倉トーストセットで」
彼女は衝撃の発言の尻尾にオーダーを付け加え、会話を畳んで再びノートPCに向き直ってしまう。
そしてまるで海斗など最初からいなかったかのように、彼女の指が再び軽快なタイピング音を奏で始めたのだった。




