罠
8月16日
今日は、女探偵泉美雫が一つの依頼を終える日だ。
今朝はちょっと早めの9時に起きて、シャワールーチンをしっかりとこなし、心のスイッチを入れて凛々しくも頼れるお姉さんとなっていた。
11時には事務所に海斗くんを迎え入れ、彼の姿を見て学生スタイルだとホテル内で悪目立ちしちゃうかもしれないと考えた私は、祖父が残したものの中からかなり上質な仕立てのスーツを選んで身に着けてもらうことにした。
今私が手にしているのは、当時の紳士達が愛用したイギリスからの輸入品に違いない。
虫食いや生地の痛みをチェックして、匂いも嗅いでみるなどする。
うん。異常なし。
「うわ…なんかすごい高そうですね…」
祖父はかなり大柄な男であったけど、それでも海斗くんの身長と手足の長さには適わず…と思っていたら、まるで彼の為にあつらえたかのようなフォーマルな仕上がりになって驚いた。
「あ。ちょっと凄いかも…」
これは、ブリティッシュスタイルと呼ばれる当時のスーツが、現代のスーツよりも少し丈長めに創られていた事に起因していた。
祖父よりも背が高くスラリとした彼が、それを偶然にも今風に着こなしていたのだ。
肩パットが強めなシルエットが凄く素敵で、幅の広いラペルが胸元に厚みと威厳を与えている。少し太めのゆったりとしたスラックスも、海斗くんの長い脚にしっかりとマッチしていて、これなら悪目立ちはしないけど、別の意味で人目を惹いちゃいそうだった。
ダメ押しとばかりに彼をドレッサーの前に座らせて、オールバックにスタイリングすると、かつて日本国内にも存在していた『財閥』の御曹司といった美男子が出来上がっていた。
これにて出陣準備は完了。
「さて…そろそろね」
対する今日の私は令嬢スタイル…という訳にも行かず、オフホワイトの長袖シフォンブラウスに、後姿を引き締める黒のタイトなバックジップスカートのシゴデキコーデだ。
神代は13時の作戦開始直前頃まで別件があるらしく、由香さんは近場で待機し、神代の連絡を受けてから姿を見せるという。
このタイムスケジュールでは下手するとあの多機能イヤリングを受け取るタイミングが無いかもしれない。
そこで私は橘財閥の御曹司さんと最終打ち合わせをして、彼に無線アラームの受信機を渡し、一度発信ボタンを押してテストした後、それぞれ別々のタクシーを使って時間差で現地入りすることにした。
私が帝国ホテルのロビーに着いたのは12時少し前だった。
気持ちを落ち着けるために、現地を観察しようとホテル内部を眺め出して、ソファの置かれた一画に自然と視線が寄る。
二人の男性が話していて、何やら今しがた満足の行く取引を終えたかのように握手していた。
私から見て顔が見える位置に座っているのは、30代くらいの、成功者顔しているけど気品はゼロで、帝国ホテルの空気に合わせて普段は着ないスーツを着ていますって感じの男…。
なぜかその顔にどこか見覚えがある気がして、目が留まったのだ。
そしてそんな男と会話を終えて、こちらに背を向けたままスッと立ち上がったチャコールグレースーツの男が振り向くと…。
「ああ雫さん!」
「あ」
それは加納省吾だった。
13時の約束だったので、既に彼が居たことに驚く。
海斗くんと一緒に入らなくて良かった…と冷や汗をかきつつ、手を広げて近づいてきたクライアントの男性からハグを受けた。
私の視線の端を横切る様にして、加納と話していた男がロビーを出て行く。
その姿を目で追う内に思い出した。彼の顔は加納のSNSで見た…つまりサロン仲間だ。
「加納さん、本日は…」
「わかっています。残念ながら僕は夫として、いや一人の男としての魅力と資質に欠けていたようだ。悪いのは由香じゃない…」
いやほんっとーにその通りです! って感じなんだけど、私はここでどうしてよいか分からずに困った表情を返す。
「覚悟は決めました。部屋はもう取っています。さあ行きましょう」
部屋は既に取ってるぅ!?
部屋を取る時に一緒に居て部屋番号を確認し、それを海斗くんにコッソリ指信号で教えるつもりだった私は立て続けに起こる不測の事態に汗をかきっぱなしになる。
「あ、じゃあ少しだけお化粧室に行ってきますね」
「ええどうぞ」
急いでトイレの個室に入ると、海斗くんにメッセージを飛ばす。
『今どこ?』
『ちょうどロビーに入りました』
『加納の奴がもうロビーに居て。何とかして階数と部屋番号教えるから…。同じ階数の部屋を押さえて』
『わかりました』
『緊急連絡は例のアラームを使うから、スマホは神代達との連絡用に使って。あ、あともし神代が来たら、私にワンギリお願い』
『わかりました』
化粧台の前で前髪をちょいちょいと弄り、呼吸を整えてからロビーに戻る。
加納省吾は私の腰に腕を回し、臀部側面に手を添えてエレベーターへと導く。
ここで私は周囲を気にする素振りをみせながら少し重めに歩き、ロビーに「やや強引に連れていかれる女」のイメージを印象付けようと画策した。
加納のオーバーアクションが従業員の目を惹いてくれている事を願いながら、一輪のバラが飾られている個室に足を踏み入れ、彼がルームキーをかざして目的階を提示している姿を一歩引いた位置から眺めた。
これらのシステムにより、この帝国ホテルは自分の宿泊階層にしか行けない仕組みとなっている。
締まっていく扉の向こうに、緊張の面持ちをしている海斗くんの姿が見えた。
帝国ホテルが「お客様をお迎えする一番小さな客室」と位置付けている箱が上昇を始めて、重力が足に掛かる。
加納省吾の少し荒い呼吸音が「フッ、フッ、フッ」と響いていて、見ればその首元にはうっすらと汗が滲んでいた。
競馬の世界では『入れ込んでる』って言われる状態に見える。
これ不味いんじゃなかろうか。
今から私が仕掛けようとしている罠との相性は最高だけど最悪とも言える状態だ。
でも私は最悪5分と見積もったピンチタイムを0分にするために、彼に隠れてこっそりとスカートのバックジップを音立たせないようにゆっくりと降ろした。
エレベーターは本館の12階で扉を開き、私達は最高級の絨毯の上を歩き出す。
気が逸っているであろう加納省吾は、私の腰を掴むようにしてやや早めに歩き、客室の扉を開いて、紳士的に「さあどうぞ」と入室を促してきた。
私はここで、表情筋を笑顔風に歪めているだけの男に頭を下げてから、故意にたたらを踏み、ドアのデッドボルトを受けるストライク(かんぬきの受座)の上に手をついて、密かに握り込んでいた磁石補助板を被せる様に張り付けた。
この目論見が成功すると、この後男が力任せにサムターンを回すと、内部構造が破損して、デッドボルトが飛び出さないままとなる。
ここでダメ押しとなる仕掛けが、スカートのバックジップを降ろしておくことだった。
前につんのめった姿勢を演じて彼に向かってお尻を突き出し、パックリと割れたゴールドカラーのジップの間から、サテンピュアピンクの総レース下着を見せる。
そう、あの海斗くんとの一件でトラウマ物の特級呪物となっていた勝負下着だ。
彼の意識を私の手元に向けさせないためのミスディレクション。効果は抜群だ。
息を飲んでいる男の前で、私は転びそうになったことを恥ずかしがりながら、意識をこちらに向けさせるために男の顔を見る。
加納省吾は私の姿から目を切らぬままネクタイを緩め、ガキンとサムターンを回して扉をロックした。
ここでサムターンが回りきらず、ヤツが仕掛けに気付いてしまう危険があったので、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。
後は、張り付けた薄い金属板が圧に負けて凹み、半ロックの状態になっていたりする事の無いように、デッドボルトをしっかりと跳ね返してくれているのを祈るのみ…。
「では…最終報告を…させていただきますね?」
私は自ら部屋の奥へと進んでテーブルの上にカバンを置き、資料を収めたファイルを取り出す。
加納は私の背後に回ってお尻を眺めながら客室ミニバーからアルコール飲料を取り出していた。
その隙に私はカバンの中でスマホを操作し、部屋番号を海斗くんへと送信する。
『12階 1208』
後はここで神代たちが来るまで会話を繋ぐ、それが私の仕事だった。
「では…」
「雫さん」
彼は報告を始めようとした私を手で制してから、ジンを炭酸で割ったものが入った2つのグラスを指し示した。
「情けない話だが…。妻のことなどどうでもいいと言いながら、いざとなるとやはり緊張してしまう……心を落ち着けるためにアルコールに頼ってもいいかな?」
「勿論ですよ」
「雫さんも一杯だけ付き合ってくれないか?」
お酒をつきあってくれと誘う心理は、相手ともっと親密になりたいという好意、または一人の寂しさを埋めたいという依存心が主な理由だ。
どちらも本心では御免被りたい…。
仕事中だからと断るのは簡単だけど、ここで寄り添う姿勢を見せておかないと、後々の「説得ターン」に影響するかもしれないと考えて、差し出されたグラスを受け取る事にした。
「わかりました…。でも、1杯だけですよ。私この後仕事あるので」
「ありがとう。それでいいさ…」
彼はグラスを私に持たせて乾杯するようにグラスを合わせ、一気に呷った。そしてなにかしんみりとした余韻に浸っている。
私もお付き合いでそれを飲み込んで、改めて彼の前に座り直す。
「では…、本日8月16日。泉美雫探偵事務所が、加納省吾さんの妻、加納由香さんの行動調査を行った結果をご報告いたします。今までご報告してきた通り、彼女は一人の男性と頻繁に会合を繰り返していました」
テーブルの上に、由香さんと神代との写真を複数枚提示する。
依頼人は目をギラつかせながらも静かにグラスを傾け続けていた。
「相手の男性の名前は…神代連。池袋に調査室を持つ、私の同業者…探偵でした」
加納の眉がピクリと動き、グラスを傾けていた手が止まる。
緊張感が場を支配し始め、私もなんだか心拍数が上がっていて汗ばみ、ふーっと深呼吸した。
頼むから暴れ出さないでね…。
「こちらの男は、カノウ・エコロジクス副社長である加納由香さんの依頼を受け、加納省吾さん…貴方の社内犯罪の証拠を集めていたようです」
「!!」
ここに至って彼はその目を見開き、「しまった!」という表情を見せた。
私は二人の会話を間近で盗み聞いたという体で、事前に神代から許可されていた範囲の捜査状況を彼に知らせる。
加納が1年前から不法投棄を主導していた事の証拠となる情報を入手し、更に3人の実行犯を捕らえた事だ。
悪事が暴かれた男の顔は強張り、その目は宙を睨むように開かれ続けている。
「以上が、ご依頼いただいた加納由香行動調査の全てとなります。奥様がしていたのは浮気ではありませんでした」
「そうだったのか…」
彼は目元を覆いながら大きく背をソファーに預けて天を仰いだ。
その姿を1分間見守り、沈黙を挟んでから彼に頭を下げる。
「…残念です。私の報告は、これで終わります」
加納は動かない。
妻に出し抜かれた敗北感、会社上層部に不正がバレた絶望感、そんな黒い感情の渦の中にいるのだろう。
彼が茫然自失となっている隙をついてこのままそっと退出できれば、扉の仕掛けの成否関係なく、私は安全にこの部屋を出ていける。
しかし時計を見ればまだ12時半前。
神代達が来た事を知らせる合図は無い。
まったくも~っ! 社外でコイツを詰めたいから、ホテルの個室に呼び出してくれって依頼しておきながら酷いじゃない。
ドキドキと煩く騒ぎ出す心臓を叱りつけながら、微かに震えた手元で資料を整えて、提出用のものをテーブルに残す。
「加納さんにお渡しする報告書は、こちらに」
残りのファイルをバッグに仕舞いながら、予定外の延長雑談タイムに入ることになって、天気の事とか、野球観戦の思い出とか、彼を刺激しないような話題をいくつか思い浮かべたけど、ちょうどいい機会だからと気になっていた事を本人に問いただす事にした。
謎を謎のままにしておけない性分なんです。
「あの…省吾さんはどうして私にこんな大事な依頼をなさったのですか?」
神代よ早く来い。本当は雑談なんてしていたくない。さっさとなり出せワンコール。
私の質問を受けた彼はゆっくりと姿勢を正し、再びグラスにアルコールを注ぎ始める。
その瞳には得体のしれない濁った光が宿っていた。
「俺には…3年くらい連れ添った情婦が居てね」
「浮気をなさっていたのは、省吾さんの方だったんですね…」
一言言ってやりたくなって、チクリと刺したけど、目の前の男はバツの悪そうな顔を見せることもしない。
「ああ、由香なんて女としての価値はゼロだからな。ハッキリ言えば、アイツには加納伸介の娘としての価値しかない」
などと言いながら自分を正当化して、またアルコールをなみなみと注いだグラスを呷る。
アンタは今しがたその女に完膚なきまでに敗北したというのに…。
強気な発言をし始めた男の姿に、憐れみと違和感を覚えた。
「その情婦が我儘な女でね、アレが欲しいコレが欲しいと言って、何を与えても満足しなくなっていった。その要望に応えるために、俺には給与以上の金が必要になってね…。それでも与えて、そして当然の見返りを要求した。そうしたらどうなったと思う?」
そりゃ女をアクセサリーだと考えている男と、男を金蔓だと思ってる女の組み合わせなんだからそうなるでしょ…。
まあ、杏奈さんもちょっとアレよねと思わなくもない。
私は彼女が逃げたのは知っている。
そして彼が言っている「当然の見返り」がどれ程異常なものだったかも知っていた。
「ええと……そんな不正をしてまでして要求に応えなくてもいい…とか?」
「ハッ」
不正解だと知りながら発した回答に、加納は楽しそうに笑い、膝を叩き、「それいいな」と返事をした後で急に真顔になる。
「あなたにはこれ以上付き合いきれない、だ。その日俺の傍で最高級のイタリアンを食べている時はそんな素振りを見せなかったが、翌日にそんなメッセージを送ってきて突然音信不通になった。仕事終わりに見に行くと、彼女の為に契約してキーを預けていたマンションは蛻の殻だ。ありとあらゆる連絡手段はブロックされ、拒否されていた」
そして目の前の男はまた肩を震わせて笑いだす。
正直かなり怖かった。
「それでだ。あの女…杏奈を見つけ出そうとして、依頼する探偵事務所を探していた。そして偶然、キミを見つけた。脳髄に電撃が走ったよ。ああ、俺の苦しみを理解して寄り添ってくれる人が見つかった! と。そしたらもう杏奈なんてどうでもよくなっていた。そして俺は妻の浮気調査をでっち上げて…最終的にはキミを手に入れたんだ」
ぞくっとした。
え? なんで探偵事務所のHP見ただけでそんな事になるの?
確かにあいさつ文に、真心とか寄り添うとか、真剣に向き合うとか、書いてあるけどさ…。
馬鹿なの?
彼は私を「手に入れた」と言い切り、目の前でゆっくりと立ち上がる。
私は扉に向かう為に席を立とうとして、でも足が動かないのに気付く。
恐怖で身体が硬直している?
いや、違う…これは…力が…。
「やっと効果が出て来たか。DRDだよ。無味無臭で気付かなかったろう? 」
デートレイプドラッグとは、お酒や飲み物にこっそり混ぜて相手の意識を失わせ、抵抗できない状態にして性的暴行に及ぶために悪用される薬物の総称だった。
飲まされると意識はうっすらとあっても、身体に力が入らず、声も出せず、拒否や抵抗が一切できなくなる。
そして前向性健忘があり、薬の効果が出ている間の出来事を、目が覚めた後に一切思い出せなくなるのだ。
私はそこにこそ最も恐怖する。
加納省吾はニヤリと顔を歪めながら、余裕をもった動作でテーブルを回り込んみ、悠々と眼の前に立つ。
私は自分の迂闊さを呪った。
海斗くんに部屋番号を送るメッセージを打ち込んでいた時、彼は私のグラスに薬を入れていたのだ。
欺いたつもりで、隙を作っていた。
裏目だ。
そしてゆっくりと会話しながら神代の到着を待って退出する計画をも逆手に取られて、結果的に薬が効くまでの時間を稼がれていた。
全部裏目だ。
眠気にも似た虚脱感の中、全身の力が抜けて、座ってもいられなくなりぐらりと身体が泳ぐ。
「おっと」
私の身体はそのまま加納に受け止められた。
そうか…加納がロビーで会っていたあのサロン仲間…きっとあの時に薬を入手していたんだ。
そのために1時間も早く来ていた…。
「俺は負けちゃいない。由香は勝ったと思っているだろうが、そうじゃない。俺にとって不法投棄は欲しい女を手に入れるための手段に過ぎないからな。アイツは俺の不法投棄を潰したが、真の目的は達成される。だから、俺の負けじゃないのさ」
加納が何か言ってるけど、それはまるで水中でなにか音を聞いているかのようにくぐもり出していた。
指一本動かせない。
声も微かにしか絞り出せい。
視界も不明瞭になり始めて…。
カバンの中の、無線アラームのボタンを押さないと…。
「ざまあみろ! 俺の勝ちだ!」
敗北によるプライドの崩壊で狂気に飲まれた男が、私の衣類に手をかけた。




