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前夜

22時


200万円の大仕事を明日に控えた私だけど、それよりも優先すべきことがあった。

それは海斗くんを事務所にお迎えする事だ。

そのために20時からもう色々手がつかなくなっていて、実質明日の準備に使ったのは5時間あまり。

スタンガンなんかもカバンに忍ばせて、これを使う事態になったら、なんかもうぐっちゃぐちゃになるなと少しだけ震える。

しかしそれでも私にとっての一大事は、加納省吾のプライドがどうしたとかいうチンケな話ではなくて、海斗くんのプライドをどう癒すかの一つだけだった。


コンコンコン。


3回のノック音。

曇りガラスの向こう側には直立不動の人影が見える。

その時に初めて、この探偵事務所の扉がどうして曇りガラスをはめ込んだものなのかを理解した。

用心のためや洞察のために、扉を開ける前から来客者の情報を得るための工夫なのだ。

現代だと…例えば神代の事務所なら、きっと扉の前をモニタリングするためのカメラなんかが設置されていたりするのだろう。


「橘海斗ですけど…」


緊張気味の声を聞きながらドアを開けて、彼に入室を促す。

彼を出迎える私は、ついさっきまでバスタオル姿でリベンジするべきかと結構真剣に悩んでいたけれど、結局は大きめサイズの薄手サマーニットと、とろみ素材のギャザーミニスカートを身に着け、髪をあえてラフな感じにハーフアップにして、生活感を演出していた。

安心してください。ブラもつけてますよ。


「おつかれさま。さ、どうぞ」

「失礼します…」


事務所に入った彼は応接セットへは向かわずに、入り口から入って数歩の所で立ち止まっていて。ドアを閉めて振り返った私に、ビシッと頭を下げた。


「僕にもう一度チャンスをください!」


それは隣に立って角度を測りたくなるくらいの美しい角度45度の最敬礼。海斗くんはその姿勢を保ってピタリと静止していて、マイケルジャクソンの『ゼロ・グラヴィティ』を彷彿とさせた。


「…」


私がしゃがみ込んで彼の顔を見上げる。

頭を垂れたままの海斗くんが口を開く。


「…なにしてるんですか」

「いつ頭を上げてくれるなかーって思って…」


返事をしながら立ち上がると、彼はそれに合わせるように頭を上げてくれた。

そして私を直視して、顔をじわじわと赤らめ出す。

その視線の泳ぎ方は、ソナーのように私の全身をくまなくスキャンして、服の下の素肌を探知しているかのよう。

意識しちゃってるのだ、昨日この部屋でみた私の裸を。いゃん❤

その証拠が、彼の股間でズボンを押し上げる昂りとして、バッチリと示されていた。

うん、池袋で見て来た『海斗くんダミー(ダミあんって名前つけるかも)』と同じくらいだ…なんて下品な事考えながら、私もちょっと赤面する。


「昨日、その、雫さんの痴漢被害写真を見て…雫さんを大事に思っているはずなのに、勝手に裏切られた気になって。身勝手にも、他の人に辱められて傷付いてる雫さんに…罰を与えてやる…なんて思ってタオルを剝いでしまいました」


意外だった。

私はてっきり、海斗くんは『アッチの方の失態』を気にしているのだとばかり思っていた。

だからそっちの方のフォローの仕方を考えていたのだが…。

裏切られたように感じたとは…NTR的な意味だろうか。

罰を与えるとはつまり、「俺というものがありながらこの淫乱メス豚め!」みたいな…?

独占欲っていうか、自分の物を人に横取りされたような感覚を覚えた…って事なのかもしれない。

バイブルにしてるM女とSな彼氏な感じのコミックスを思い出し、16歳の男の子が私に向けた「罰を与えてやる!」なんて過激なセリフに脳が蕩けて、じんわりと熱持った下腹が濡れだしてしまった。


「自分の未熟さを痛感しています。その上で、あんな失態を犯した後も、どうしていいかわからずに投げやりな態度をとって雫さんを困らせました。情けないです…でも…」


彼は言葉を震わせてこぶしを握り、シャキッと胸を張って叫んだ。


「雫さんが好きです!」


その瞬間、築50年の雑居ビルの中でほぼ姿を変えずに多くの来客を迎え入れて来たであろう探偵事務所が纏う、古くて陰気で重苦しい空気が全て吹き飛び、何かキラキラとした光が二人の周囲で踊り出す。

こんな…ストレートで、情熱的で、ピュアな告白を受けることなど、私の人生では起こらないだろうと思っていた。

気付けばなし崩し的にベッドインしていて、もう1回を求められながら「なあ…俺達付き合っちゃう?」みたいなのが関の山…だと、思っていたのだ。


「あ…」


私の双眸から、涙がこぼれ落ちそうになる。

これは意中の人からプロポーズされた瞬間とかではないし、こんなので泣き出しちゃったら23歳の女がなにやってんのよ気持ち悪って感じではあるので、頑張って平静を保つ。

そして言うんだ。「私も好きです。よろしくお願いします」と。


「わ…「だから友達から始めさせてください!」


私の言葉に完全に被せるように、彼は再びビシッと最敬礼を決めながら大声を張り上げた。

え? なんて?


「はい?」


あれ? なんか聞き間違えたカナ?

よくあるのは、「好きです付き合ってください!」に対する返事として告白された側が「じゃあお友達から」っていう流れだけど、今回のはかなりイレギュラーで、涙も綺麗サッパリ吹き飛んでいた。

よかった、もう少し衝撃が強かったら引っ込んだ涙が鼻から出るところだったかも。


「あ、うん…。ええと…?」


彼の言葉を意訳すると、ぶっちゃけ「恋人になるのを前提に、段階を踏んでエスカレートさせていきましょう」って事よね??

昨日のアレを繰り返さないためにも、熱いお風呂に入る時みたいにゆっくりと身体を慣らしていかないと辛い、みたいな切実な願いなのかもしれない。

私はもうお友達以上のつもりでいるので、その現実とのギャップが気になるけど、彼が望むならそれくらいなんてことない。


「私も海斗くんの事、好き」


もう少しスマートにカッコよく言えると思ったけど、やっぱり照れてしまい、恥ずかしいのを誤魔化すように視線を泳がせて、横髪を指先に撒いて玩びながらの告白になる。


「だから、お友達から始めましょう」


海斗くんは私の告白に驚いて紅くしていた頬を引き締め、生唾を飲んだ後、素早く頭を下げた。


「よろしくお願いします!」


これで二人は晴れて恋人同士…じゃないのがアレだけど、互いに顔を合わせてエヘヘと笑う。

そしてここで私の悪い性質が出る。


「じゃあ、私は『トモダチレベル1』だから、海斗くんに何もしてあげなくていいのね?」


なんて言いながら、彼のズボン越しに形がわかるくらいになってるちんちんに言及してしまったのだ。

彼は「え? うわ!?」なんて声を上げ、凄い事になっている股間を私に見せ続けていた事を認識したようだった。

それほど告白するのに全集中してくれていたのだ。


「「……」」


時計の針の音が耳に届く。

海斗くんはフリーズしている。

私は自分からイジってしまった手前、大人しく彼のリアクションを待っている。


「ふっ…」


突如として彼は掛けてもいない眼鏡をクイと押し上げるような謎の動作を見せた。


「……あ、いや、誤解しないでいただきたい。雫さん。これはですね。極めて一般的な生物学的現象、すなわち『陰茎海綿体への急速な動脈血流入』に過ぎません。俗に勃起と言います」


知らないキャラが出て来た。

恥ずかしいけどかっこよく誤魔化したい、そんな心の動きが新たな人格を呼び覚ましたのだろうか。

彼はどこで仕込んできたのか、妙に硬いインテリ風の口調で演説を始める。


「世界累計40億人とも言われるXY染色体をもつ個体として、極々簡単にですが分かりやすくご説明しましょう。今、私の脳の視床下部および大脳辺縁系が、何らかの外部環境的因子——あえて具体例を挙げるなら……いえ、ここでは具体例を省きますが、兎に角それを刺激と検知したわけです。それにより、副交感神経系から一酸化窒素(NO)が放出されました」


自分の側頭部を指でトントンと叩きながら解説を始めた橘教授の解説にウンウンと頷く。

なんかあったな…高校時代に他の生徒があまり学業に精を出していない中、一番前の席になっていた私が気を使って先生の言葉に頷いていたら、その後先生は私の方ばっかり見て、講義してくれるようになってしまった。

あの美術史のおじいちゃん先生元気かな…。


「この一酸化窒素が平滑筋細胞内のグアニル酸シクラーゼを活性化させ、環状グアノシン一リン酸、いわゆる『cGMP』を増加させる。その結果として血管平滑筋が弛緩し、陰茎深動脈が拡張、海綿体に血液が怒涛の勢いで流れ込んでいる……というのが、今この眼前で起きている物理的事象のすべてです」


凄いね、サイクリックグアノシンリン酸。


「もうお判りでしょう。つまり、これは私の倫理観や理性的意思によるコントロールを完全に離脱した、純粋な脊髄反射であり、オートマチックな水理学的現象なのです。膝の皿を叩かれたら脚が跳ね上がる『膝蓋腱反射』と何ら変わりありません。したがって、そこに私の破廉恥な意図や下心が介在する余地は、熱力学第二法則におけるエントロピーの減少と同等にあり得ないわけです。ですから、そんな『何これ……』というような目で私を見るのは、人体の神秘に対する冒涜と言わざるを得ません。コホン……そのまま、私のcGMPがホスホジエステラーゼ5(PDE5)によって分解されるまで、およそ5分から10分ほど、学会発表でも聞くような平穏な心持ちで待機していただけないでしょうか……」


ああもう! 雫さんのエッチな裸を想像して…とか言ってくれていいのに。

学者キャラのまま何とか股間の猛りを鎮めようと苦心している彼に、私だって同じだよ言ってあげたくなってスカートの裾を摘まんだ。


「橘先生…」

「ん? どうしましたか? なにか質問でも?」


教師キャラまで混ざり出した彼に向けて、熱っぽく吐息を漏らしてから、スカートをゆっくりと持ち上げいていく。

冷静沈着を装っていた彼の目がこれでもかと言う程に大きく見開かれて、私の下腹、濡れたショーツを貼り付かせているデリケートゾーンへと吸い付いた。

その視線の強さに私の腰が震える。


「これは…どういう現象か説明してもらえますか…?」

「そ、それの何処がトモダチレベル1なんですか!!」


理不尽にも凄い勢いで怒られた。

慌ててスカートを正して、ごめんなさいごめんなさいと頭を下げる。

何で私だけ!?

でも聞いて!

これはお付き合いする上で、海斗くんに発情する事を変な負い目として感じて欲しくない私の気遣いなんだってば!

だから「勃起してるってつまり、海斗くんってば私を…。でも実は私も❤」って言おうと思ってたけど、無理だった。

彼は23歳女のはしたなささを叱った後で、「う…またcGMPが…」と小さく呻く。

ほんとうにすいませんでした。頑張れ海斗くんのPDE5。

私は空調を3℃下げて、それから戦利品のスコーンとお紅茶をセットを取って来る。

彼に着座を促し、そそくさと座る様子を見守り、隣に座って一緒に絶品スコーンを食べだした。


「あ、これ美味しいですね」

「でしょ、知り合いに教わったの。今度食べに行かない?」


そんな会話をしながら、本当に友達同士ならここで何をしただろうかと妄想する。

動画を見たりする…のかな。

二人で静かにスコットランド発祥の伝統的焼き菓子を食べ終えた後、お皿とカップを流しに下げる。

誰かがお部屋のソファに座っているときに、キッチンでお皿を洗うのってなんだか新鮮な感覚だった。

戻ってくると彼はTVを付けてスポーツニュースを見ている。

ああ、勝利の女神騒動は今どうなっているんだろう。おっぱいの痣はまだ残ってるけど、そっちはほぼ消滅してたらいいな…寝る前にエゴサしよ。

時計を見ると、もう23時を回っていた。


「じゃあ、『お友達』の海斗くんに、早速の相談があるんだけど」

「な、なんです?」


彼の顔には何かエッチな事を想像しているかのような期待と緊張が浮かんでいる。


「明日ね、あの加納省吾と決着をつけることになったから」

「えっ」

「13時に帝国ホテルで。彼を個室に誘い込んで落ち着かせた後で、由香さんと神代さんを呼び込めばお仕事完了…っていう流れ」

「あ、危ないじゃないですか!」

「そうねぇ。誘い出すためには多少際どい事をしないといけないかな…」


男の子は「それはダメだ」と言いたいのを頑張って堪えている。

ですよね、私達は『まだ友達』だもんね~。


「そうならない様に頑張るけど、レイプされちゃう危険はあるの。でも危ない男を個室に釣りだして場を温め、そしてドアを開けて仲間を招き入れる。この依頼に200万って言われたら、妥当どころか貰いすぎよね?」

「い、一般的にはそうですかね」


焦ってる焦ってる。

殊更に身の危険を強調したのは、私の仕事を知っておいて欲しいのと、そしてイザという時に助けて欲しいから…だった。


「明日…海斗くんも一緒に来てくれないかな?」

「い、いいですけど。部屋に隠れてるとか…ですか?」


なるほどその手は考えなかった。

加納省吾が自分で選ぶ部屋に海斗くんを送り込む手を考える。

所謂手品技法の『マジシャンズ・チョイス』みたいに、加納自身が部屋を選んだと思っているけど、実はこちらが部屋を掴ませているような細工が必要になる。

実践するとしたら一番簡単なのはホテル側を抱き込む事だけど、残念ながら私にそんな力はない。

そしてそれだと海斗くんの身の危険が大きすぎる。


「実は…アイツの目を盗んで部屋の鍵をバカにするつもりなの。だから海斗くんは、合図を送ったらお部屋に入ってきてくれないかなって。一緒に由香さんと神代さんが控えている状況になるから、皆で踏み込んできて」

「合図ですか…」

「ボタン式の呼び出しアラームとか、スマホを通話状態にしておくとか考えてるけど。あ、また神代からあのイヤリングの支給を受けるかも」


それがいい。そうしよう。あとでメールしておかないと。


「ドアの細工はどうやるか分からないですけど、もしも失敗したら危ないじゃないですか」

「その場合はちょっとフロントまで走って、中で悲鳴が聞こえたって伝えて欲しい。鍵を持ってきてくれるまで、5分とかかかるかな…? その間に、裸にされちゃってたりして★」


絶対安全なんて訳にはいかずに5分間はリスクを負う事になるが、でもこれが現実的に私の用意できる策でもあった。


「海斗くん。もしアイツがナイフとか持ち出して暴れそうになったら、現場は由香さんと神代さんにまかせて、その時も急いでフロントに走ってね」

「わかりました…」


彼は私の忠告を緊張感をもって聞き入れてくれた。

多少は探偵業というものの危うさを肌で感じてくれているに違いない。

そんな男の子に「もちろんバイト代は出します。時給2000円で、交通費支給。時間は12時~15時を見てて。九条さんには私からも言っておくね」と伝えたところでシンデレラの魔法が解ける0時となり、彼が帰るのを見送ることになる。


「お邪魔しました」

「うん。相談に乗ってくれてありがとう。おやすみなさい」


事務所ドアの前で頭を下げる彼に、オトモダチレベル1の女は笑顔で手を振ったのだった。


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