勝利の女神
8月13日 18時 泉美雫探偵事務所
「疲れたね~」
事務所に戻ると室内は蒸し風呂状態で、私は急ぎクーラーを付けて、急冷の為に設定温度を18度まで下げてから冷蔵庫を開け、棒アイスを取り出して海斗くんに手渡した。
あれこれ動くとホームランボールの直撃を受けたおっぱいがズキンと痛む。
幸い骨には異常はなくて、打ち身だけ。きっとぶつかる瞬間、咄嗟に背中を丸める様に懐深く胸を引いたのが功を奏したのだろう。
球場の処置室に居たのが壮年の男性だったために、処置は最小限にとどめられ、改めて女医さんのいる整形外科で診てもらって、明日辺りから痣が出て1,2週間で消えるけど、もし痛みが持続したり、しこりを感じたりするようになったらまた受診してくれと言われていた。
二人で棒アイスを食べてクールダウンしてから、なんとはなしにTVを点けると18時のスポーツニュースがやっていて、まさに観戦してきた巨人戦の様子が写し出される。
なんだか不思議な感覚で、人生初の特別な経験を、加納省吾なんかと一緒にしてしまった不覚が深く悔やまれた。
『ここで仕事をしたのが6番打者泉口。今季プロ3年目の頼れるショートが初球を捉えました。打った瞬間それと分かる打球はライトスタンドの中段へ! しかしここで思わぬ珍事が』
「「え」」
TVに映し出された光景を見て、今日一日私を見守ってくれていた男の子と一緒に声を上げる。
私のホームランおっぱいキャッチはTVに抜かれているばかりか、再度場面を戻してスローになってカメラが寄り、乳房にボールが当たって涙目になった女が男の子にボールを渡し、その子が嬉しそうにお父さんの所に戻る様子が映し出される。
キャスターはこの光景を微笑ましく伝えていた。
『この女性は、その後医務室で手当てを受けましたが、幸い大きな怪我にならなかったようです。試合ではこの一打が決勝点となり、巨人連敗脱出です』
こーゆーのって、肖像権とかプライバシーとかどうなっているんだろう…。
TVに出ちゃった! とはしゃぐ気持ちも少しはあるけど、なんか落ち着かない気分になる。
「雫さん…」
海斗くんが神妙な顔つきでスマホを差し出してきたので覗いてみれば、それは彼のメッセージ系SNSで、お友達から『あのねーちゃんが男と野球観戦してた! TVに出てるぞ!』とのコメントを受信していた。
私は彼の手からスマホを取ると、返信メッセージを打ち込む。
「ちょ、やめてくださいよ」
勿論勝手に送信なんてしないけど、慌てる海斗くんに書き込んだ文面を見せる。
『これは許せないな。裸にひん剥いて今晩うんっと泣かせてやる。スケベな写真を期待しててくれ』
メッセージを見た彼は真っ赤になって焦り、私はそんな男の子の様子を見てアハハと笑う。
「だってこれ、お前の彼女が浮気してるぞ~っていうタレコミでしょう?」
「その節は本当にスイマセンデシタ…」
私は恐縮してしまった彼の手を取って、その端正な顔を真っすぐに見上げた。
「今日のデート、野球観戦じゃなかったら無理だったと思う。海斗くんが後ろにいるぞって思ってたからなんとかできた場面ばっかりだったし、ほんっと助かっちゃった。ありがとう」
真昼間から生理的嫌悪をしている男性に散々に抱き着かれた私は、その穢れを払う意味でも、目の前に彼にこそ『上書き』して欲しくて、ぎゅ!ってしてくれないかな~なんて思ってしまう。
だけど、海斗くんは大いに照れながらもその襟を正して「それならよかったです。ハイ」なんて生真面目な返事を返してきただけだった。ぐぬぬ。
空調が効いてきたので、24度くらいまで温度を上げて、少しゆっくりしてから「琥珀」にご飯を食べに行こうと心に決める。
二人でダラダラと時間を過ごして、海斗くんを見ればまたスマホを弄っていて、再びそれを私に見せて来た。
「やばいかも…しれないっス」
「え? 何が!?」
「いやあの。雫さんが話題になってると、悪友らが騒いでまして…」
「ええええ!?」
私も急いでスマホを取り出してネットの海を泳ぎ出す。
あの場面はお昼のTV中継の時から、結構話題になっていたらしい。
確かに劇的と言えばそうなのかもしれない。
それが試合を決めるHRで、巨人が連敗を脱して、あの選手の記念すべき今期10号で…と、様々にめでたい要素があった上で、子供にボールを渡した事が称賛を浴び、『美人』だとか『可愛い』だとか『すごい巨乳』だとか、私の容姿でも盛り上がった結果、『勝利の女神』とか呼びながら、おっぱいキャッチの瞬間を鮮明かつ綺麗に切り取った画像が添えられるようになる。
これ本当にヤバイやつうううう!!
なんだか赤面しちゃうし、チヤホヤされてる状況ではあるけど、その実恐怖が90%くらいある。
こわいこわいこわい!
「凄い勢いですね…」
「う、うん…」
「雫さんやっぱり目立ちますからね…」
「そ、そうかな?」
褒められてるんだよね??
エゴサーチを続けて、ついには『一番エロくしたのが優勝』なんて言いながら、おっぱいキャッチをAIで加工して遊んでいる所にまで行きついてしまう。
そこでは私を散々玩具にした後で『無加工が一番エロい』と結論を出されていて、その場にバタンと倒れこむ。
まあ私もライバーとかやっちゃってる女なので…顔の見えない多数の男性に性的消費されるのは慣れてるし、それに『嫌悪だけじゃないもの』も感じるけどさぁ…。
実際に後からじわじわと恐怖よりも羞恥となんか変な感覚の方が強まっていく。
皆のおもちゃになれるくらいの美人さんって事で、いいのよね?
「ん…」
海斗くんが隣に居るのに、いえ、多分彼が隣にいるからこそ、じんわりと濡れだしてしまい、淫らな身体を持て余しながら男子の様子を見ると、彼はなんだか超集中してスマホを見ている。
どこか赤い顔をしてる男の子に四つん這いで接近して、背中におっぱいを押し当てながら、肩越しにその画面を覗いた。
「ぐああ!」
「きゃあああ!」
海斗くんは物凄い声をあげて驚き、スマホを天井高くまでぶん投げてお手玉する。
つられて私も悲鳴を上げてしまった。ああびっくりした。
「エッチなの、見てたんでしょう??」
私のエッチなの、と言いたかったけど、そこは流石に羞恥からぼかす。
「いや、あの………………………………ハイ、ソウデス」
彼は5秒くらいの沈黙の後で、素直に見ていたと白状する。
過去の一件から、私には嘘をつかない様に心掛けているに違いない。その誠実さは推せる!
『そんなの見なくても、海斗くんになら本物を見せてあげるのに』っていう、23歳の女が16歳の男の子を事務所に連れ込んでから言ったらダメな感じの、相当に火力の高い台詞が思い浮かんでしまった。
ヤバイ。私の頭の中、いま凄いピンク色だ。
心の中には、今日加納省吾とデートする私を見て、海斗くんが私に対して冷めちゃう…と言うか、穢れを感じちゃうと言うか…上手く表現できないけれど、兎に角何か負の感情をもってしまったりしていないか確かめたい気持ちがあった。
ドキドキと心臓が跳ねる。
その鼓動は、彼の背中に密着させている乳房を通して、熱と一緒に伝わっているに違いない。
私達が今裸で、直接肌を重ねていたならいいのに…と思った。
「海斗く…」
唇がゆっくりと開き、致命的な一言を言いかけた瞬間、スマホが着信を知らせて騒ぎ出す。
それは神代からの着信設定音で、我に返って男の子の背を離れ、急ぎ通話に出る。
「は、はい。泉美です」
『例の情報は、思った通りの物だった。明日の夜に不法投棄が行われる。その現場を抑えたら、この件は片が付くだろう。今からそちらにもデータを渡しに行きたいが…九条さんのコーヒーが飲めるのは、21時までだったかな?』
私は指で海斗くんにOKサインを作りながら、神代の言葉に頷いた。
「ええ。じゃあ「琥珀」でお待ちしています」
通話を終えると、神代がコピーしたデータを持ってくる事を彼にも告げて、二人そろって「琥珀」に降りる事にした。
私達の入店を受けた九条さんが、いつもより僅かに嬉しそうにしながら優しく微笑んでくれて、二人そろって会釈を返し、彼に神代連の来店予定を伝えて、他に二人の客がいるのを確認しながら最奥のテーブルに向かう。
「なんだか変な感じですね」
「もしかして…働きたくなってたりする?」
「ええ、まあ。混んでいたら間違いなく手伝いに入ったと思いますし」
その姿が目に浮かぶようだ。
でも彼は、今日は泉美雫探偵事務所で預かっている身。
九条さんにも話を通して、アルバイトはきちんとお休みさせているのだ。
「あ、そうそう。今日のバイト代なんだけど、本当はこういった話を聞かずに仕事しちゃダメ。で、時給は危険手当込みで2000円。額面上は朝8時から21時までのお昼休憩1時間。12時間ってコトでも大丈夫?」
私は元々、彼に助手を提示した時に尋ねられたら提示するつもりだった金額を伝える。
「そんなに貰っていいんですか…? 俺、結果的に何もしてないんですが」
とんでもない。その心強さはお金では買えない価値があった。
これが海斗くんと私の、最初の共同作戦だったんだなぁ…なんてしみじみ思いながら、私は「探偵業ってそーゆーものよ」とだけ答えた。
実際、不測の事態が起きてドタバタしてしまったら「こんなの時給2000円でも割に合わない!」と泣き言をいう人もいるだろう。
21時ちょっと前に神代が入店して九条さんと親しげに挨拶を交わし、カウンター席で一杯のコーヒーを嗜む。
彼が入店しただけで空気が変わる程の存在感に見惚れている間に、男性探偵はそのまま静かに退店していった。
その後しばらくして、お皿を下げにやってきた九条さんがトレーに乗せた封筒を私に差し出す。
海斗くんが感心しながら、そうやって荷物を渡すんですね…と呟いた。
確かに裏稼業っぽいと言えば、そうかもしれない。
今回に限っては、普通にここに来て直接手渡ししてくれても全然問題ないとは思うけどね。
さてこのデータ、見せることはできないけど、海斗くんが居てこそ成功した作戦だからと、その中身を彼に伝える。
「えーとね。この中には…加納省吾が設楽杏奈にした酷いDV映像が入っているの。まあそれ以外にも、彼が不法投棄を直接指示してる証拠となるものとか、多分、私が8月9日に、五味達から暴行を受けた際の写真とか、色々と…ね」
彼は表情を引き締めて頷きながら、私の話を聞いていた。
それから21時半になり、二人で閉店作業を手伝って、三人で一緒に外に出る。
今日は海斗くんも疲れているだろうからと事務所には誘わずに別れた。
一人事務所に戻り、PCの前に座ると、神代から貰ったデータを確認する。
その目録はやはり、設楽杏奈に関わる画像・映像、不法投棄に係る音声データや書類、そして…泉美雫と名前の付いたフォルダ。
私は設楽さんがどんなに酷い目に遭ったのか見る気が起きず、さりとて加納やあの暴漢達の声を聴きたいとも思わず、深呼吸した後で私の名前のフォルダをダブルクリックした。
カチカチ。
事務所の空気を震わせながら古いパソコンが頑張り、少しの待ち時間を経て、30枚の画像が開く。
改めて、自分の身に降りかかった凶行の記録を見るも、それを見続ける事が出来ずに途中で切り上げた。
「あ、やばい」
感情がぐちゃぐちゃになりそうになり、一旦コンビニにお菓子を買いに行く。
カウンターにはいつものあの不愛想な男が居て、その日に限り私を見て「ア」と声を出した。
ギクッとする。
え? なんだろう…?
モヤモヤしながら籠を持って店内を練り歩き、お菓子やスイーツをポイポイポイと投げ込んで、他の客はいないけどセルフレジの方に行く。
カウンターからの視線を臀部に感じ、彼の方にお尻を少し突き出して可愛くフリフリしながら、ピッ、ピッと品物をスキャンして、13点の品物をエコバッグに詰めていく。
最後に交通系マネーでお会計。
「…あれ?」
反応しない。
もう一度スマホを翳す。
やはり反応しない。
そう言えばこのセルフレジ、ちょっと前にも壊れていたような気がする。
「あの、交通系で清算できないんですけど…。読み取りエラー出ちゃいます」
仕方なく店員さんを振り返ると、男は巨体を丸めて目を反らしていてカウンターから動かない。なにそれ。
「んもー」って言いながら、エコバッグから商品を籠に戻して、カウンターに運ぶ。
すると彼はすかさずレジ作業を始め、私は今度こそ交通系での清算を済ませて、パンパンに膨れたエコバッグを手に持った。
前々から思っていたけど、この人少しだけ発達障害とかあるのかもしれない。
私が正面から見ているときは、その目を泳がせているけど、一度背中を見せれば視線が突き刺さってくる。
扉のガラスに反射している店内の様子を見れば、それが私の自意識過剰な勘違いではない事が分かるくらい、食い入ると言っていい程にこちらを見ているレジ男の姿が映し出されていた。
超感じ悪い。
他のお客もいないし、我慢できなくなってレジ前に戻り、また目を泳がせだした彼に少しきつい口調で尋ねる。
「あの、私が入店したとき、なんか「ア」って言いましたよね?」
「…言ってない」
「いいえ、聞きました。気になっちゃったから理由を教えてくれない?」
「言ってないって、言ってるだろぉ!」
突如彼がキレて大声を出し、私はビビって身体を硬直させながら、顔を引きつらせる。おしっこ漏れるかと思った。
「あ、そうですか…」
やっぱり男子に大声出されると超怖い。
私は芯から震え出しちゃってる身体を庇い、出来るだけ平静を装ってお店を出た。
本当に何だったんだろう?
やっぱりあれかな、ホームランキャッチの影響かな…?
明日から、さっきみたいにいろんな人から「ア」とか言われちゃうのかな?
事務所に戻りしっかりと鍵を掛けてから、お菓子を2つ取り出してガラステーブルの上に置き、残りを冷蔵庫にしまう。
ソファベッドに腰を下ろして寛ぎの姿勢を確保してから、お菓子に手を付けつつ再びエゴサをかけてみる。
どうも『勝利の女神』騒動は掲示板からテキスト系SNSに拡散の場が移ったみたいで、まだまだ普通に燃え上がっていた。
「勝利の女神、か…」
またいつか、今度は海斗くんと一緒に野球を見に行こう。
私はお菓子を頬張り、シャツを引っ張り胸元を大きく開けて、赤くなった着弾点を露にさせてから、スマホを掲げて自撮りを決めたのだった。




