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持ってる女

8月13日 15時


僕は今、東京ドームの一塁側内野席にいる。

手にしたオペラグラスでハラハラしながら見ているのは試合ではなく、外野席にいる一組の男女だった。

耳に装着しているイヤホンからは、雫さんが身に着けているイヤリングが収音する音声が流れている。

昨日この作戦への参加が決まってから、気が張ってしまって、一睡もしていなかった。脳はずっと緊張状態を保っていた。


今朝は8時に、いつもアルバイトをしている純喫茶「琥珀」には入らず、その2階にある探偵事務所のドアを叩いた。惚け眼の探偵事務所主である女探偵がかなりラフな格好で出て来てしまい、朝一から大量のアドレナリンを無駄に消費することになったが、「海斗くんが来きてくれなかったら寝坊するところだった」と感謝されて応接セットに通され、彼女の準備が終わるのを待つ事になった。

一人の女性が身支度をしている姿を眺めながら、これって普通の知人友人には見せない姿だよな…? なんて考える。

突然デートコーデへのアドバイスを求められて、数パターンの衣装を見せられたが、加納省吾のために着飾って欲しくなかったのもあり、「雫さんならどんな格好をしていても大丈夫ですよ」と言って押し切って出来るだけ肌を隠させた。

8時55分に彼女のスマホが鳴動して、神代とかいうやつから『9時に車をつける』と連絡が入ったので、9時丁度にビルを出る。

やってきたリムジンの車内には、神代とその部下2名が居て、雫さんに「『助手』の橘海斗さんです。今日は私の身に危険があるかもしれないとの事で、お願いして作戦に参加してもらうことになりました」と紹介してもらって、彼らに頭を下げた。

雫さんのお願いで参加したというのは、プロの探偵業者から俺が軽んじられないようにする配慮に違いなかった。

女探偵はイヤリングを装着してその機能をオンにし、男性陣はレシーバーを身に着けてその性能をチェックして正常な動作を確認してから、全員で作戦の詳細を最終確認する。


「常にイレギュラーな事態が起こることを想定して欲しい」

「身体張ってる私としては、イレギュラーの一言で済まされても困るんだけどね」


そんな探偵同士の気の置けない会話を聞きながら、ここぞとばかりに斬り込む。


「皆さんにはすいませんが、加納省吾が常識はずれな行為に出た場合、俺は雫さんの身の安全を最優先に動きますよ」


淡々とした態度の男性探偵の姿が、雫さんを巻き込んでいるにも関わらずどこか他人事として見ているかのように映り、彼を見る目に力が入る。


「わかっている。確かにこちらは作戦の成功を第一に動いてしまうからね。タオルを投げるのが遅れる可能性がある。その役目は君に任せるよ」


神代は僕の目を真っすぐに見返しながら、静かに頷いた。

悔しいが、実にスマートな返しだった。

何となく男としての格の違いを感じてしまい、隣に座っている女性が池袋の公園で襲われていたあの日の事…神代が暴漢の1人を殴ろうとした僕の拳を易々と受け止めたあの場面が頭をよぎった。

気を取り直して作戦の成功率を雫さんに尋ねると、「私の方は、海斗くんのアイディアのお陰でだいたい9割くらい成功すると思う。神代の方も、5時間かからずなんとかしてくれるんじゃないかな?」と笑いながら答えていたが、その琥珀色の瞳には僅かに緊張の色が宿っていた。


11時に作戦は開始され、男性陣はカノウ・エコロジクスの地下駐車場に待機して事の成り行きを見守ることとなる。

神代の部下が広げたノートPCの画面には、なんとイヤリングから送信された画像までもが表示され、お洒落なイヤリングにしか見えなかったのに、GPSと盗聴機能だけでなく、カメラ機能までもが搭載されている事に驚く。

なんだかスパイ映画の世界に入り込んだ気分だった。

雫さんが守衛さんとやり取りをして、その後すぐに加納省吾がやって来る。

彼は手を広げて彼女を歓迎し、女探偵はそのハグを許す。

「お盆期間中は交代制の勤務となっていて、通常より職員数が少ないが、俺には休みがないんだ」なんて心底どうでもいいトークを交えながら、彼は執務室に向かい始める。

道中に神代の部下がカメラを操作して、一時的に加納省吾を自動で追う様に設定すると、中年男が好色そうな顔をしてチラリチラリと隣の女性を見ているのが分かり、改めて「女の人は胸などを見てくる男の視線に気付いている」という風説が本当なのだと実感して、いつもの自分がこんな感じになってはいないかと不安になった。

執務室に入ると、女探偵は彼の仕事場を見渡して「そう言えばこの前…ゴルフに行かれたっておっしゃっていたけど、コレ凄いですね」などと褒めながら、部屋の隅に置かれたゴルフセットを見つめ、加納省吾がスコア自慢をしながら実際にスイングし始めたその姿を「カッコいい」と重ねて褒める。

「やってみるかい?」なんて言われてグラブを持たされた彼女が、後ろに立った加納省吾にお尻を触られながら二度三度とそれを振るって、「私には無理」だと息を弾ませた。

その後で今度はデスクに寄って、「これも凄いですね。お車好きなんですか?」と言いながら問題の『黄金の車』をイヤリングのカメラに映す。

その流れがあまりにも自然で、霊能者だと信じ込まされそうになった面接を思い出してしまった。

この人やっぱりスゲェな…。

探られているなんて夢にも思っていなさそうな加納省吾はまた得意な顔になり、これは限定100台の品だとか、24Kでヘッドライトはダイヤになっているとか、最初に買った車がブルーバード SSSクーペだったとか、なんやかんやと語り出す。


「確かにこれは発売30周年記念で造られた、100台限定の純金トミカですね。助手席にゴールドに外装されたmicroSDカードを入れているようです」


こちらでは映像と彼の発言とのすり合わせが行われていた。

microSDカードも社名やモデルが判明して、それがドローン空撮で4K画質の映像を記憶する用途等でメジャーな商品だと分かり、神代らはそのゴールドの外装がカスタムである事を考慮に入れて、予想されるセキュリティの解除方法を話し始めた。

僕はただハラハラしながらノートPCの画面を見守り、イヤホンに手を当て続ける。

加納省吾が十分に気持ち良くなったタイミングで、突然加納由香が夫婦二人で出席するロータリークラブの例会についての資料を持って登場し、加納省吾が盛大にビビり散らかす。その妻は雫さんを睨みつけてから出て行き、威嚇を受けた女探偵が「今日は行動調査で大事なお話があるんですが…ここでは奥様が居て危険なので…」と常務取締役を外に誘い、「じゃあ僕の車で移動しよう」と提案した男に驚いて、「ダメですよ! もし私達が姿を消した後で、加納さんのお車が無い事がばれたら、また私が疑われてビンタされちゃいます!」なんて返してタクシーでの移動に持ち込んで、過去にも会合に使ったという新木場駅近くのカフェへと向かった。

ここでチームは二手に分かれ、神代連は部下一名を引き連れてデータコピーの為に加納由香の執務室に向かい、もう一人の部下が僕を乗せたまま車を運転して雫さんらを追い、イヤホンには、イヤリングからの音声と、神代チームからの連絡事項の二つが届くようになった。


『まず謝らないといけません。私は加納さんに、奥さまの浮気はまだ確定じゃないから、気落ちしない様に言いました…。でもごめんなさい。もしかしたら奥様はやはり、この前お見せした写真の男性と、お付き合いをしているかもしれません…。こちらの資料をご覧ください…』

『記憶媒体を回収した。11:41。これから解析とコピーに取り掛かる』

『ああ、やはりそうだったのか…彼女は社長の娘、俺は叩き上げの常務取締役。実力を社長に認められ、請われて夫婦となったが、由香からは常々軽んじられているとは思っていた…』

『加納さん…』


女探偵は依頼人を慰め、縋りつくようにして伸びて来た男の手を握り返す。

傷心を演じる加納省吾の演技に心底からの嫌悪感を覚えて、ノートPCの画面を叩き壊したい衝動がマグマのように湧き上がってくるが、このPCは80万円とかする物凄い高い奴なんだろうな…と考えてなんとか堪えることができた。


『本当にお仕事が大変そうなので、こんな事を言うのも何ですが…よろしかったら、今日これから少し私と一緒に気晴らししませんか? 実はそのために用意したものがあるんです』


十分に場が温まったと判断した女探偵がデートへの誘いを切り出した。

ここがこの作戦最大の急所だ。もしここで加納がこの申し出を拒否したら、作戦は中止となる。

加納省吾の返事を、固唾を飲んで待つ。

きっとイヤホンを装着している全員が同じ気持ちだろう。

ん? でもよく考えたらこんな作戦は中止のほうがいいか…? そう思った瞬間だった。


『……え?』


イヤホン越しに聞こえた加納省吾の声は、明らかに上擦っていた。それまでの「妻に軽んじられている哀れな夫」の被害者ヅラは一瞬で消え失せ、あからさまに動揺し、そして次の瞬間には、下卑た歓喜がその声を一気に支配していくのがハッキリと分かった。


『き、気晴らし……? 雫さん、それって……ど、どういうことかな~』


加納は体温を上げてしまったようで、ネクタイを緩めながらお冷を飲む。


『ふふ、どういうことでしょう? 加納さん、今日はお盆休みで会社に来られていない方もいらっしゃるんだし、責任ある常務取締役でも、彼らと同じくしっかり休養を取るべきですよ。たまには肩の力を抜いて、私と……ね? どうですか?』


彼女の男を骨抜きにするような甘く含みを持たせた声を聴きながら、もし俺が今雫さんの前に居たら、何とは言わないが、少なくとも野球観戦以外の何かを連想しただろうと思った。

彼女はバッグからチケットを入れた封筒を取り出して、それを思わせぶりに見せていて、加納省吾の顔が、餌につられる魚のように動く。


『い、いや、もちろん! もちろん時間は作れるとも! むしろ、君がそんな風に僕のことを心配してくれていたなんて……。ああ、嬉しいな。由香のことで心が張り裂けそうだったが、君がいてくれて本当に救われたよ!』


まんまと罠にハマった男は、悲しいくらいに余裕のない申し出の受け方をしたのだった。

そこから雫さんは、男を焦らすようにしてケーキセットを食べた後で立ち上がり、彼の手を引き再びタクシーに乗り、運転手さんに「水道橋までお願いします」と伝える。

加納省吾はタクシーの中で一度彼女に抱き着き、「あんっ。ダメですよぉ」なんて怒られて「そっか。ダメかぁw」なんて笑いながら、東京ドーム前へと導かれた。

恐らくそこは彼が妄想上位にあげていた立地ではなかっただろう。

それでも彼はめげずに、東京ドームシティ内にある都市型天然温泉リゾート施設の『スパ ラクーア』へ向かおうとする。そこに行けば水着姿止まりながらも、より際どい関係に向けた前進が期待できるからだ。

だがそこで雫さんは「じゃーん」と言いながら巨人戦のチケットを見せて、「加納さんって、スポーツマンじゃないですか。だからきっと楽しんでもらえると思ったんです。私は野球分からないので、解説してもらっちゃおうかな…なんてズルい事も考えていて」と笑った。

スポーツマンと持ち上げられてしまった加納は野球観戦を拒否れずに、「まあ僕は観戦ならサッカー派なんだけど、野球では都市対抗の選手にならないかと誘われた事があるんだよ」なんて言いながら素直にドーム球場のエントランスへと吸い込まれていく。

案外そこまで悪い奴じゃないのかもしれない…。いや、そんなことはないか。

それにしても雫さん…凄いと言うか…なんか怖いな…。

俺も…玩ばれたりしてない…だろうか…。

加納省吾は雫さんを従えて、男としての優越感を周囲の座席に振りまきながら、気前よくビールの売り子にチップを払い、野球や選手に纏わるうんちくを垂れる。


『やっぱり巨人は原監督の『原イズム』が浸透してるから強いな。あの人、俺の現場管理の仕方とちょっと似てるんだよなあ…』

『現監督は阿部慎之助だがな』


俺が心の中で思うよりも早く神代連が口に出してツッコむ。

たぶん、コピーの待ち時間は結構暇なのだろう。

思わず笑ってしまうと同時に、少しだけ彼に親近感を覚えた。

その後、ビールを何杯も呷った加納省吾は雫さんの腰に手を回して自撮りをしてSNSに投稿し、おっぱいを揉んで「あ、揉んじゃったw」とか言って笑うスケベ中年モードに入る。雫さんは顔を引きつらせながら笑っていて、限界が近いのが手に取るように分かった。

試合は緊迫した投手戦のまま、速やかに8回まで進み、時刻は15時となっていた。


『コピーは完了した。そちらもタイミングを見て撤収を始めてくれ』


その言葉を聞いた僕が猛然と立ち上がった、まさにその時。カキィィン! と木製バットの芯がボールを完璧に捉えた音が響いて、歓声が沸き上がった。

立ち上がった俺につられて他の客も立ち上がる。

打球が上がったのはライト方向。

俺はハッとなってまたオペラグラスを覗き込んだ。

試合は1点ビハインドの8回裏。巨人の6番打者が放った勝ち越しとなる逆転2ランホームランは…そのまま雫さんの胸を直撃した。

イヤホンに結構強烈な感じの鈍い音が響き、身を丸めた彼女が抱くようにボールをキャッチして、「うぅ~」と呻いている。

ちなみに隣の中年男性はまったく頼りにならず、手を出してそれを阻止する素振りすら見せなかった。オイオイマジかよこのおっさん運動神経切れてねーか?

僕は急ぎ外野席に向かいながら、球場係員が大急ぎでやってきて、雫さんの様子を窺っている様子を見守る。

彼女は痛みに顔をしかめながらも、ホームランボールを捕球しようとグラブを手にして傍にまで来ていた野球少年に笑顔を見せ、そのホームランボールを渡してから医務室へと誘導されていった。

診察を受け、応急処置を施されて、「骨には異常なさそうだけれども、念のために整形外科を受診してください」と言われた雫さんは近くの病院に行くことになる。

彼女は座席に戻ると加納省吾に「ごめんなさい。加納さんは試合を楽しんでくださいね」なんて伝えて、僕らが介入をするまでもなく、本当に自然な形でデートを切り上げることができた。

やはり彼女はある意味で「持ってる女」なのだろう。

もし今日、チケットを購入した当初の予定通りに彼女と野球観戦に来ていたのなら、あのボールをキャッチして彼女を守り、ずっと記憶に残るような完璧な野デートになっていただろう。

そう考えると、こちらは「持ってない男」に違いなかった。

僕は神代連の部下にイヤホンを返却して別れ、雫さんに付き添って病院に行った後、彼女が配車アプリで呼んだタクシーで事務所に戻る。

流石の女探偵も相当に消耗していたみたいで、車が動き出して1分もしない間にその身体がゆっくりと泳ぎ、僕の肩に寄り掛かる。見れば彼女はスースーと寝息を立てていて、その身体からはいつもより甘い匂いが…。

抱き寄せてしまおうかと腕が動くが、今日一日ベタベタと触り続けた加納省吾と同じ男になるわけにはいかないと、腹筋にグッと力を入れて我慢した。

到着までは10分15分だけど、ゆっくり休んでもらおうと思い、そしてなんだかようやく自分にも眠気が込み上げて来て、「着きましたよ」と知らされるまで、一緒に眠りに落ちてしまっていたのだった。


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