事件① 大人の隠れ家
8月12日
朝10時
私はブラインドから漏れる光の中で無数の塵が踊る様子をぼんやりと眺め、エアコンの室外機の振動音を耳にしながら目を醒ます。
ソファベッドからむっくりと起き出し、やや乱雑にシャツとショーツを脱いで、洗面所に向かうと歯を磨いた後で洗口して、人工大理石の床の上をペタペタと歩いて冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを飲む。
TVを付けると、明日からのお盆休みを見据えて行楽地での水難事故を取り扱う番組が65インチの画面に写し出された。
「…お盆休みには海斗くん、やっぱり栃木に帰っちゃうのかな」
13,14,15,16の4日間に渡って彼の姿がない喫茶店の風景を想像しながら窓辺に寄り、ブラインドをシャッと引き上げる。
今日も目が眩む青い空だった。
16メートル向こうのビル2Fのコーヒーショップには、3名ほどのスーツ姿のサラリーマンが熱さを嫌うようにして気怠そうに座っていた。
眼下を見下ろせば、いつもよりやや少なめな人通りで、今ちょうど一人、オタク風の男性がビル入り口へと入って来るのが見えた。6Fの美少女トレカショップ「ヴァルキリー」に行くのだろうか。
窓を開け放ってから浴室に向かい、シャワーを浴びながらドローイングやボイトレ等のルーチンをこなして、身体と心のスイッチを入れる。
今日は19時からの決戦に備えて、それまでは「琥珀」でゆったりと過ごして英気を養おうとしよう。
のんびりとメイクをしてから、ノーブラなまま白のコットンシャーリングブラウスをフワリと着て、深めのスリットが入ったハイウエストな黒のタイトスカートにお尻をぎゅっと詰め込んだ。
気に入っているロベルタの黒トートバッグを手にして一階に降りる。
「いらっしゃいませー」
今日も元気な海斗くんの右手の様子を窺ってから、そのまま最奥の定位置に付き、ノートPCを広げて昨日は書けなかった探偵日誌を打ち込んでいく。
朝の一杯を持ってきてくれた九条さんに『メニューから海斗くんに完全にお任せしたお昼の一品』とプリンをお願いした。
カウンターの向こう側からは、もう素っ頓狂な声は聞こえてこない。「わかりました」というハキハキとした返事が、ビル・エヴァンスのB Minor Waltzが流れている店内に響く。
探偵日誌を付け終えた後は、『如月るな』として、リスナーさんに返信メッセージを送る作業に入る。これは本腰を入れたら時間をどれだけかけてもキリがない作業だけど、手を抜く訳にはいかなかった。作業に熱中している間に、海斗くんが料理を運んできてくれた。
「おまたせしました。たまごサンドプレートとプリン・ア・ラ・モードです」
丁寧な所作でそれらをテーブルに並べていく彼の様子に、ほんの1週間前だった面接の時の姿を対比させて、「変わったなぁ」としみじみ感じるのだった。
「今日の夜に日比谷公園で神代さんと会ってくるけど、心配ないからね? あ、でももしもの時にはメッセージしちゃうかも」
笑顔で彼に告げると、男子高校生はどこか照れくさそうにしながら頷いた。
続いてお盆の予定を聞こうかと思ったけど、それは胸に留める。
その後は予定通りに静かな時間が流れて、私は16時に席を立ち、そっとお辞儀をしながら退店して事務所に戻った。
さて、ここからだ。
今日の相手は神代連と加納由香。
日比谷公園で待ち合わせて、どんな所で会談を持つのか…想定するべきは会員制のレストラン。次点で帝国ホテルあたり。
姿見の前に立ってアレコレと悩み、最終候補を二つに絞った。
一つはイブニングドレス。
ハマれば最強。それは私の本気度を相手に示すと共に、完璧な私を演出し、強く印象付けて、会話でイニシアチブを取る力にもなる。
ただし…外した時には最高に恥ずかしい。
あまりに場違いだった場合は、いっその事その場で裸になって「え? 私がイブニングドレスを着ていた? 何かの見間違えじゃないですか?」なんてしらばっくれた方がダメージが少ない場合もあるかもしれないレベルで恥ずかしいのだ。
私服登校の学校行事で、一人だけ盛大に浮いてしまった記憶が脳裏を掠めて、思わず顔を覆ってしまう。ゔぅ…頭が…。
そしてもう一つはカクテルドレス。
イブニングドレスと同じような効果を狙いつつも、外してしまった時の為に最低限度の保険を掛けた策だ。『私はゲストです』との大人しい立場で会合に臨むことにはなるものの、場を乱す心配はない。
「行くべきか行かざるべきか…」
全裸の女は二つの衣装を前に、シリアスな顔してハムレットを気取った。
18時50分
日比谷公園は東京都千代田区にある日本初の近代的洋風公園だ。
大音楽堂、小音楽堂、図書館、テニスコートなどの文化・スポーツ施設を備えたその敷地の広さは約16.2ヘクタール(東京ドーム約4個分)にも及ぶ。
ちなみに、世界最小の独立国であるバチカン市国の国土は、日比谷公園3個分なのだとか。
そんな緑豊かな都会のオアシスで、私はオフショルダーでバックリボンのついたアイスブルーのシフォン・イブニングドレスに身を包み、剥き出しの肩を白のレース・ボレロで隠しながら、厚生労働省の庁舎の真向かいに当たる「霞門」に立っていた。
正直やりすぎたかもしれない…めっちゃくちゃ見られてる。
私もここまで電車で来る勇気がなくてタクシーで来ちゃいましたけどね!
「待たせていたようだね。イブニングドレスとは恐れ入ったな。素敵だよ」
この広い公園で私を探し回ったそぶりを見せず、まるで最初からここで待ち合わせだったかのように悠々とやって来た神代のスタイルは、シングル2つボタンで Vゾーンがやや深めネイビーのスーツ。
流麗な所作で張られた彼の肘を見て、私は「おじゃまします」と言ってからその腕に手をかけた。
ここで経産省で打ち合わせを終えた加納由香さんとも合流するのかと思っていたけど、彼はそのまま歩き出す。私のヒールを計算にいれた、ゆったりとした歩調だ。
なんとか場を持たせようと会話のネタを探し、まだあの美味しかったスコーンのお礼をしてなかった事を思い出した。
「スコーンありがとうございました。凄く美味しかったです」
「それは良かった。あそこは知り合いの店でね、ぜひ懇意にしてやってくれ」
彼と並んでからはより一層周囲の視線に晒されている気がする。
それでもイブニングドレス姿の私とスーツ姿の神代で、なんだか奇妙なバランスが取れているような気がした。
後は会合場所がファミレスとかファーストフード店じゃない事を祈るばかりだ。
「君があの剛三さんのお孫さんだったとはね。正直驚いたよ」
「おじいちゃ…祖父を知っているの?」
ぶっちゃけ私は祖父の事を殆ど知らない。
「やり手」だったんだろうな…と思う程度だ。どちらかと言うと悪い意味で。
「まだ駆け出しの頃に、少しね…」
彼が駆け出しの頃、10年前くらいだろうか…?
神代はそう言っただけでその会話を区切り、二人は信号を渡って各省庁を左に見ながら銀座方面へと爪先を向ける。
行き交う人がめっちゃ見てくるぅう。
神代に目を奪われた後で、その相手がどんな女なのかと見ている…そんな感じがして、「ねぇ。あれ…」みたいなヒソヒソ声に耳をそばだてた。
「俺にもまだ分からない事があるから、教えて欲しいんだが」
感度10倍にした耳に、不意に神代がその鋭い刃物のようなイケメンヴォイスを被せてきて腰が砕けそうになる。
「おっと、大丈夫かい」
「だ、大丈夫です…答えられることなら、お答えしますけど」
「では…加納省吾の依頼内容は?」
彼は私が加納由香の行動調査をしていた事はもう理解しているはずだ。
「何のための行動調査だ?」という問いかけだった。
「また直球ね。それは簡単には言えません」
「なるほど…ではこちらから一つ君の知らない情報を提供する。君はなぜか依頼人の不興を買ったようだ」
「え?」
私が加納省吾を怒らせた?
なんだか動揺してしまい、髪を耳にかけながら平静を装う。
…どうしてそんな事がこの男には分かるのか。
加納省吾と繋がっているから?
今更ながら、私の中ではほぼ完全に風化していた『神代別れさせ屋説』が息を吹き返してくる。
じゃあこのイブニングドレスで向かった先にいるのは…加納省吾ってコトぉ?!
もしや罠に嵌められたのかと焦り、彼の肘から腕を抜いて立ち止まり、頬に汗を滲ませながら、直ぐそこに凛然と立つ眉目秀麗な男を見上げる。
しかし彼は私が突如臨戦態勢になった意味が分からない様子で、「どうしたんだい?」とばかりにその歩みを止めてこちらを見た。
そして「ああそうか」と一人で納得し、その疑いを晴らす為に説明を付け加えた。
「君を襲っていたあの連中はね、加納省吾の『子飼い』なのさ」
「!!」
あの暴漢達を私にけしかけていたのが…加納省吾だった??
想像もしていなかった新事実に思考が乱され、深呼吸をして自分を落ち着ける。
まずは神代連を警戒する理由がない事を改めて脳内整理した。
もし彼が加納省吾と繋がっているなら、私に「加納の依頼内容は?」なんて聞くはずもない。ちゃんと考えれば分かる事。
きっと神代も、そう前置きしたつもりだったのだろう。
あーびっくりした…。
私は再び彼の腕に手を回す。
そこから二人は無言になり、花椿通りをゆっくりと歩く彼の後を追う様にして連れてこられたのは、一件の洋館だった。
蔦が優雅に絡みついている黒鉄の門扉の前に立つ。
その門柱には小さな真鍮のプレートが埋め込まれているだけで、何も記載がない。
ふと見れば門の脇で控えめな数字入力パネルが光を放っている。
神代がパネルを操作すると、重厚な黒門がカシャン…と横にスライドして私達を招き入れた。
石畳の小道が、白漆喰で仕上げられた外壁に大きなアーチ型の窓が並んでいる洋館へと続いている。
その窓全てに遮光カーテンがかけられていて、中からの灯は漏れてこない。
濃いブルーモーメントに染まる空の下で、ブラケットライトが柔らかなオレンジ色の光を落としていた。
玄関のダブルドアにはライオンの首が円形の叩き金を咥えているドアノッカーがあり、神代がそれを四回打ち鳴らすと、カチッという音と共にドアがゆっくりと開く。
レディーファーストとばかりに促されて入り、そこで目にしたのは、高い天井に輝くシャンデリアとクラシカルな調度品に囲まれたエントランスホールだった。
床は磨き上げられた大理石で、壁にはどこかで見たことがあるような名画が飾られている。
奥からは、ピアノとヴァイオリンの生演奏、わずかな食器の音と、抑えた笑い声、そしてグラスの触れ合う澄んだ音が聞こえてくる。
外から見れば銀座の外れにある古めかしい洋館にしか見えないが、門をくぐり、庭を歩き、ドアを開けたその先に、これほど優雅で落ち着いた大人の空間が広がっているなんて夢にも思わなかった。……まるで映画やドラマの世界のようだ。
今ようやく思ったわ、このドレスを着て来て正解だったと。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
黒いタキシードを着たスタッフが、微笑みながら頭を下げる。
彼は私達を二階奥の個室の前へと案内してから、扉を開けることなく一礼して去っていった。
彼の姿が見えなくなった後で、神代がコツコツコツと軽快にノックして返事を待たずに扉を開く。僅かに風が流れて、私の髪がそよいだ。
それは20畳ほどの空間。
床には深紅のペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁面はマホガニーのパネルで覆われ、その深みのある色合いが、天井から吊り下げられた小ぶりのクリスタル・シャンデリアの光を柔らかく反射させている。
部屋の中央には、磨き抜かれた円形のテーブルが鎮座し、その周囲を囲むのは革張りのアームチェア。壁際の一角には、アンティークのサイドボードがあり、そこには琥珀色の液体を湛えたデキャンタと、クリスタルグラスが静かに並ぶ。
大きなアーチ型の窓にはベルベットの遮光カーテンが重々しく引かれていて、その傍らにいつものダークスーツに身を包んだ鉄の女──加納由香が立っていた。
彼女は私を見て、ハッと表情を引き締める。
「おや、既に面識がありましたか」
神代が意外そうな声を出す。
ええそうなんです。ビンタされてるんですよ、私。
流石にあのビンタの痛みは忘れたけど、受けた屈辱は魚の小骨のように喉の奥に引っ掛かったままだった。
「加納由香です」
彼女が頭を下げて自己紹介をしてくれたので、こちらも頭を下げつつ、改めて名乗り返した。
「泉美雫です」
「では始めましょうか」
黒一点の男性に促されて、私達はそれぞれ、円形のテーブルを囲んで12時、4時、8時の席に着く。
神代連が加納由香に頷き、それを受けたカノウ・エコロジクスの副社長は私に対して重要な機密を話し始めたのだった。




