事件① ペルソナ
8月10日
私の精神状態はめちゃくちゃだった。
身体は疲れ切っているのに眠れない。
路地裏で受けた暴力が何度もフラッシュバックして汗びっしょりになって起き上がり、目を瞑っても耳を塞いでも振り払う事は出来ず、鮮明に思い出されるそれに胃液を吐きながら、その度に浴室に駆け込んで頭からシャワーを浴びて全身を洗った。
そんな状態で過ごしていたお昼時に、ふとスマホで『エゴサ』してしまい、あのサンシャイン60通りでの出来事が拡散されているのを知ってしまった。
公衆の面前で裸にされた私の画像が、今夜のおかずと題したネットの掲示板にアップロードされ、それを『お宝画像』として複数のエロ系サイトがピックアップしていた。
その反響は凄まじく、『可哀想なのは抜けな…いやこれは抜けるwww』『これAV女優のゲリラパフォーマンスじゃ?』『流石にAIだろ』『コイツ濡らしてるwwww』『よく見ればブスw』『たまらんwww』『詳細求』『すげー臭そうwww』『尋常じゃないエロ画像w』『乳輪デカい女は萎える』『尻デッッツツツカ』『この子のスカトロ画像下さい』『正直好み』『え?この子だめなの?すっげえ可愛いじゃん』『特定班マダ?』等々のコメントが無限に増殖していく有様だった。
他人の声とは、たとえ100人が心からの好意を示してくれ、褒めてくれていたとしても、悪意を持った1人が発する心の無い一言を聞くだけで、ずっしりと心が重くなるもの。
頭では警察に電話して画像の削除をお願いしようと考えるけど、身体が震えて動かないまま、視界が狭まり、目の前がふっと暗くなる感覚を覚えた。
「……あ」
それで数時間意識を失っていて、失神から目覚めた後は、あの事件がどれ程大きくなっているのか、『特定班』が本当に私に辿り着いてしまうのかと恐怖と期待が綯い交ぜになって胸が高鳴る中また掲示板を覗くと、画像が削除されていて、削除前に閲覧保存した者達が『凄かったから消されると思ってたwww』なんて論調で魚拓を求める声を煽りながら勝ち誇る場となっていた。
そのまま脱力して、事務所は裸でうろつくゾンビがいるかのような状況になる。
ボロボロなのにお腹が空き始めて、海斗くんと一緒に買ったお菓子を全部食べて、またうろついて…。
冷蔵庫を開けてエナドリを飲んでいる最中に、その名の通りの『怪物の力』が身に宿ったかのような怒りがふつふつと沸いてきた。
「ゆ・る・せ・な・い」
暴力に屈した自分への怒り──はとりあえず今回は取り扱わない。
あの臭くて汚い男達への純粋な怒り。
助けようともせずスマホを向けて来た通行人達への怒り。
私をブスと罵ったHIROとあとなんかケンとか呼ばれてた奴への怒り。
ネットの掲示板にあの写真を載せた馬鹿と、それを見て人の容姿を嗤っていた阿呆への怒り。
「許せな~い!!」
その場でドンっ! と震脚を踏んで、キッ! と事務所のドアを睨む。
そのままズカズカ歩いて、ドアノブを掴む。
心臓の拍がドキドキと乱れだす。
目を瞑ってドアを開く。
汗が出てきて足が震える。
そー…っと目を開いて、廊下を見る。
心拍数が跳ね上がる。
ここはまだ私の所有する雑居ビルの中だ。
目の前の廊下は、構造上は壁と天井に囲まれているけど、ウチの事務所に来る人はそのままビルの入り口から階段を上って普通にここまで来れる外廊下でもある。
「えい!!!」
裸足のまま一歩を踏み出し、内と外の曖昧な境界線を乗り越えた。
「お嬢。何やってるんです?」
「あ」
そこには鮫島さんが立っていた。
私は全裸だった。
23時─。
オーバーサイズのTシャツを着ただけの超ずぼらスタイルで、私はビル4Fライブチャットスタジオ「ディープ・ブルー」の支配人、鮫島龍一(42)を招き入れた。
元黒服男性の頬は赤々と腫れていて、私は反射的に繰り出してしまったビンタについて誠心誠意の謝罪をしながら、使い捨ての瞬間冷却パックを応接セットに腰掛けている彼の頬に当てていた。
「まあいいですがね。相談していた例の衣装が届いたものでお見せしに来たんですよ」
彼はそう言って衣装ケースをテーブルに乗せて開く。
中には…サブカル界では人気急上昇中で今年も大量の薄い本が同人界隈に出回っているという、クールな見た目に反して真面目でおっとりしたキャラクターのコスチュームが綺麗に折りたたまれていた。
取り出し広げてみると、それはオリエンタルな伝統美とエージェントとしてのスタイリッシュさが融合したデザインの、ホルターネック様式でスリットの深いチャイナドレスだった。
白のサテン生地に金色の縁取りや刺繍が施され、肩から独立したアームカバー状のフリル袖はシースルー素材でドレス全体の印象をよりエレガントに引き立てている。
布地は身体の前面のほぼ6割を覆う程度で、それを5本のブラストラップのような紐で身体に固定する仕組み。側面も背中も素肌が完全に露出しているけど、背面腰からはウェディングドレスを思わせるような、レースの純白スカートが揺れていた。
それらに乙女心をくすぐる小物として、リボンや髪飾りが付属している。
ごく簡単に説明すると、前から見たらエレガントで際どいチャイナドレス、後ろから見たら背中が大きく開いたロマンチックなウェディングドレス。横から見たらストラップだけでほぼ裸というコスチュームだった。
何しろアニメ調のキャラクターが身に着けている衣装だから、リアル体型の人間が着たら大火傷しかねないし、この衣装に限っていえば、これ着て外に出たら軽犯罪法違反で捕まるようなもの。
そんな通常では着るチャンスの無い特別なものを、公然かつ安全に身に着けることができるのが『配信』だった。
「お嬢に合わせて作られた、一点ものです。そこで何ですがね…これから早速、『如月るな』になってみませんか」
私の事務所は禁煙という事で、鮫島はミントタブレットを口に放り込みながらしゃべっている。
今私がこの衣装を目にして怯んでいる理由が、羞恥心だけでない事を知っている様子の彼は、次のように話をつづけた。
「まあ大体の事は九条さんからも聞きましたよ。池袋で大変な目にあったと。お嬢も相当キツかったでしょう。でも俺はだからこそ今のタイミングだと思うんですよ。この衣装…前から計画していたのが今日偶然届いたものですが、俺には良く出来過ぎた必然のような気がしますがね」
ライバーとしての芸名『如月るな』は、私が持つペルソナ(内側に潜む自分)だ。
私であって、私(泉美雫)ではない。
自分の中にもう一人の自分を作り出すという手法は、心理学やメンタルトレーニングの世界では「客観視」として知られ、非常に有効なメンタルコントロールの一つと考えられているという事実がある。
鮫島が言っている事は、そんな話と合致するのだろう。
私が受けた屈辱は、私が晴らさねばならないが、今は『如月るな』として身体を動かすことが、PTSDを克服する大きな力になるかもしれない。
手に持つ衣装をじっと見つめる…。
「準備してから上がります。0時開始でお願いします」
ライブチャットスタジオの支配人はニヤリと笑い時計を見ると、短く刈り込んだフェードカットを撫でつけながら応接セットから立ち上がった。
「45分前告知ですか…まあいいでしょう。ではお嬢、スタジオでお待ちしていますよ」
彼が事務所を去った後で、私はシャツを脱ぎ捨てて姿見の前に立つ。
今日の戦闘服はコスプレ衣装のチャイナドレス。普段とは勝手の違うソレを身に着け、『如月るな』としてメンタルをコントロールした。
今ここに居るのは、池袋の裏路地のビル間をスタジオとして辱めを受けた女ではない、4Fのちゃんとしたスタジオで、綺麗な衣装を身に纏い、支えてくれるファンの前に立って声援を受ける女だ。
そうやって自分に言い聞かせながらメイクを整える。ノリは悪くない。
「よっし!!」
無理やり自分の気分をブチ上げながら、事務所の外に踏み出した。
「……」
緊張はあるけど、それだけだ。
ちょっとばかりドキドキしているし汗ばみもするけど、身体は震えてない。
この衣装を見せて沢山の賛美を受ける事への期待感が、私の地べただった自己肯定感から出てくるマイナス思考を上書きしてくれている。
そのまま階段を駆け上がり、4FのCスタジオに飛び込んだ。
厚手の遮音材が張り巡らされた室内は外の喧騒を一切通さない静寂に包まれ、天井にはプロ仕様の調光可能なLEDパネルがグリッド状に並び、中央には巨大なリングライトと、ハイエンドなデジタルシネマカメラが鎮座している。
複数のモニターには、リスナーのコメントが滝のように流れる「チャット欄」と、配信中の自分の姿をリアルタイムで監視する「返し」の画面が映し出され、これだけの機材を収めた部屋は強めの冷房で冷やされていた。
油断したら風邪ひきそうだけど、これは汗っかきの私の事も考えての温度設定だろう。
「よろしくおねがいします」
鮫島さんはもう機材のスタンバイを終えていて、配信チャンネルも開いており、返しのモニター画面には『如月るな準備中』の文字が陽気に踊っている状態だった。
「まあまあいい感じに集まっているみたいですね。お嬢が最近サボってましたから、リスナーさんも心配してたようですよ」
ヘアメイクスタイリストとしてもライバーのサポートを行う彼は、一人では補正しきれなかった、ストラップのズレや僅かな偏りやヨレ等を直してくれる。
メイクを含めた最終チェックをして貰いながら、私はいつものように彼に尋ねた。
「変じゃないかな?」
「バッチリですよ。まあ、変と言えば…ココですかね」
彼はすまし顔で、前面の布地から零れてサイドにはみ出している私の横乳を指さした。ストラップが食い込んでいる横腹を指摘されたら、危うく死ぬところだった。
支配人とのやり取りをするための小型レシーバーを受け取り耳に付けて、支配人がスタジオを出る。
私はカメラに向かって深呼吸を繰り返して、ヘッドセットを被った。
配信開始時間となり、OPスタートから30秒後に、カメラがオンされる。
「皆お待たせ! 少しお休みしてる間、元気だった? 如月るなです~!」
いつもの私よりも明るい声をだして、笑顔を作って手を振った。
『るなちゃんお帰り!』『お待ちしてました姫!』『今日も可愛い!』『おおその衣装は!』と、そんなリスナーさんのコメントに囲まれながら最近の猛暑の話題から雑談に入り、皆の近況報告コメントを読み上げてお返事したり、悩み事を聞いたり、リクエストに応えてチェアを離れてポーズを決める疑似的なコスプレ撮影会をした後で、配信を折り返して晩酌タイムに入り、私は鮫島が用意したスタジオ案件の缶チューハイを皆に見せる。
「皆はお手元にアルコール用意してる? もしお医者様に止められてる人がいたら、お酒じゃないものを飲んでね! そうそう、るなのチャンネルに未成年は居ないと思いますが、もし居たら今日は大人しくベッドに潜ってください❤」
なんてアナウンスをしてから、皆で乾杯してそれを飲み、リスナーの今日のお酒の銘柄やそれに合うアテなんかを聞きながら、ほろ酔い気分に浸って、昨日の池袋について少し話した。
「昨日さ、『るなの友達』が池袋で虐められたみたいでさ。怖い所だね池袋。乙女ロード行きたいのに、なんだか私も嫌になっちゃった。なんか池袋のいい所とか、お得情報みたいなのなーい?」
配信を続けたこの3年の間に、リスナーは『るなの友達』が、『リアルでの私』であることを公然の秘密として共有してくれていて、結構本気で怒ってくれたり、労わってくれるコメントが嵐の様に流れて、配信中に思わず涙ぐんでしまった。
空気が重くなる前に、池袋の良い所について訊くと、美味しいスイーツの情報や、乙女ロードの各店舗の限定コラボ商品なんかの情報が多数寄せられて、私はそれにガッツリと食いつく。
「え。それ絶対行かないとダメなやつじゃん!?」
なんて言いながら、これを再び池袋に向かうためのモチベーションへと昇華する。
「いつも配信始める時間が遅くてごめんなさい。 皆は明日の朝は大丈夫? るなは皆のおかげで明日もがんばれそうです…本当にありがとう。おやすみなさい~!」
私もしっかり楽しんだ配信は、1人の脱落者もなく予定していた枠の3時間で終了した。
ヘッドセットとレシーバーを外して、チェアに背中を預けて深呼吸しながらスタジオの天井を仰ぐ。高いテンションで3時間お話するのは、私自身がノリノリだったとしてもやっぱり疲れるのだ。
「よかったですよ、お嬢」
「……今日はありがとう、鮫島さん」
私は衣装を持ってきて今日の配信へと誘ってくれた支配人にお礼を言う。
私のペルソナ『如月るな』は男性受けのためのピュアなキャラクターだ。難しい事は考えない。それが良かったのだろう。
本当にリスナーの皆からパワーをもらった感覚があり、それが独りでは絶対に乗り越えられなかった壁を打ち破る力となるのが分かった。
「それはどうも。投げ銭も相当なものでしてね、お嬢は大事な金ずるですから」
元黒服の、女を食い物にする仕事のプロがニヤリと笑う。
それは照れ隠しではなく、本心なのは私も知ってる事。
彼は九条さんとは違う、ビジネスパートナーに過ぎない…言うなれば互いに利用し合う関係なのだ。
「はいはい。売り上げの40%と、衣装にかかった経費、どうぞ差っ引いてくださいな」
そのうちの一部はテナント代として私の所に帰って来るんですけどね!
Cスタジオを出て、事務所へと戻る。
明日はリベンジだ。再び池袋へ───。
私は窓の先に広がる夜闇を厳しく睨みつけたのだった。




