事件① 池袋にて
8月9日 12時30分
加納省吾が指定してきたのは、新木場駅から徒歩数分の場所にある古い銘木倉庫をリノベーションした巨大なコンプレックス・スペースだった。
吹き抜けの広大な空間に併設されたカフェでの対面に臨むにあたり、私は「琥珀」で加納を面接した時と同じ、透け感を排した白のとろみブラウス、チャコールグレーのミモレ丈スカート、黒パンプスの隙無し完全武装に身を包んでいた。
先に到着して昼食を食べていた加納省吾は、この前の非礼などすっかり忘れているかのように私を笑顔で歓迎しようとしたが、こちらが表情を硬くしたまま、ハグは勿論、差し出された握手にすらも会釈だけを返し、パーソナルスペースをガッチリと守ってビジネスライクな姿勢を貫くと、途端にその表情を曇らせて不機嫌な様子となった。
私はそんな彼の様子を意に介さず、お水を運んできてくれた店員にチーズケーキセットをお願いしてから依頼人へと向き直り、耳に髪をかける動作を挟んでから、直ぐに報告に取り掛かる。
「加納さんはそのまま、お忙しいでしょうからお食事をとりながら聞いてください。早速ご報告に移らさせていただきます。これが昨日8月8日の、由香さんの行動調査をまとめた資料です」
私は由香さんが白金台の自宅を10時に出てからの動線を示した地図を提示し、場面場面の写真を提示しながら、文具店や、東大キャンパスでのスケッチ、古書店での様子などを交え、最後に菊坂のティーサロンで、14時半から15時半までの1時間に渡り、謎の男性と会談していた『疑惑』を伝えて、注意深く加納省吾の様子を伺う。
依頼人は妻と会っていたという疑惑の男性の写真を手に取り…暫く何かを考える間を持ってから、芝居がかった態度でその額を覆った。
「……ああ、ああ、なんてことだ。信じたくはなかったが、やはり裏切られた気分だ」
そしてその三文芝居の後に私の手を取り、握り込むように包んで来る。
「雫さん、お願いだ。私を助けてくれ。君だけが、この地獄から私を救い出せる唯一の光なんだ」
今のこの報告だけで、妻の浮気を確信して絶望するには、もっと日ごろから加納が妻の浮気に怯え、疑心暗鬼となり、その強い不安を行動でも示していないと説得力がない。大根役者をぶった切ってやりたい気持ちをグッと堪えて、冷静に説明する。
「…加納さん、これは奥様が不倫をしている証拠にはなりません。友人なのかもしれません、個人的な知り合いなのかもしれません、また今の『私達と同じ』ようなお仕事での会合かもしれません」
私はじっとりとした不快な熱気を放っていた彼の手を振り払った。
「そしてメールでも申し上げましたとおり、私達は依頼人と探偵という関係を弁えて適切な距離を守るものとする、という契約を守っていただきたいと思います。私の仕事は、8月20日まで奥さまの行動調査を行い、随時そのご報告をする事だけです。メンタルケア等はお求めにならないでください。もし若い女性と親密になりたいのでしたら、どうぞデートクラブなどをご活用なさってください」
ピシャリと言い切り、彼の目の前で手を拭いて見せる。
その動作が彼のプライドに触れたらしくて、加納省吾は肩眉を引きつらせながら唖然とした表情になった。
あのメール一つで許された気になっていたのだとしたら、コイツは相当な白痴だろう。
私は私で、過剰といえる拒絶をしてしまったかもしれないと少しだけ気に病みつつも、それでもやはり、あの執務室での出来事や設楽杏奈からの警告を考えると、これくらいは普通だろうと思えた。
『貴方は私をレイプしようとしたんですよ?』 と言わないだけ、優しいはずだと自分に言い聞かせる。
チーズケーキセットが来たので、先にお会計をしたい旨をボーイに伝えて、「いや雫さん、ここは私が…」と言いかけた加納を手で制止して、会計を済ませる。
そしてそのまま、無言で加納と会食した。
彼の視線は相も変わらず、衣装を透かしてその中を覗き込んでくるような粘っこさがあって、折角の紅茶とチーズケーキの味が全くわからない。
あの日コイツが暴走さえしなければ、クライアントとの良好な関係を築くために雑談を交えて楽しくお話する場面だったのに、本当に馬鹿な男だ。
「奥様のスケジュールを見る限り、次の行動調査は来週日曜日8月15日になります。それまでの間にもし奥様の不審な動きに気付いたら、ご連絡ください。これから私は、奥さまの会合相手の身元を洗ってみます。よいですか加納さん、くれぐれも申し上げておきますが、現状はまだ奥様の浮気は疑惑…いいえ、疑惑にもなっていない状態です。悲観なさらずに、ご家庭でも落ち着いて通常どおりの振る舞いをお願いします」
机の上に置いたボイスレコーダーを回収して席を立ち、ゆっくりとお辞儀をして報告を終える。
「ああ、雫さん。これを」
加納は慌てて懐に手を突っ込み、1回の報告につき支払うと約束した報酬を差し出してくる。
手にした封筒にしっかりとした厚みがあったので、ため息をついて中身を確認すると、そこには10万円を大幅に超えた金額が入っていた。
慰謝料…という事なのだろう。しかし私にとってはこれを受け取らない事こそが自衛の道だった。
「加納さん、ダメですよ…」
謝罪メールを送り、今日は私よりも早く来て待ち、そして慰謝料を支払う…この頭の足りない男なりに真剣に考えた復縁プランなのかもしれないと思うと、なんだか可哀想にも思えてくる。
仕方ないので着座した彼の脇に親身な距離感で立ち、秘書の様に彼の隣で身を屈め、封筒のから10万円のみを丁寧に取り出しながら二人で「1枚2枚…」と確認して、調査報告代としての受領証を作成する。
私はそのまま加納省吾と視線を合わすことなく、背後からのチリチリとした視線を感じながらコンプレックス・スペースを後にした。
帰りの電車の中で会合を振り返る…。
今日の加納の様子は、彼の最初の設定どおりに私に縋り、そこから親密になろうとするようなものだったように思う。
妻に裏切られた男の演技こそ絶望的に下手だったが…あの男との繋がりは完璧に隠せていたと言っていい。
謎が深まったのか…それとも謎なんて最初からないのか…そんな2択から抜けられないまま事務所に戻り、調査報告書類やノートPCを置いた後で、加納省吾の為に着ていた衣装を脱ぎ、あの男を探しに行くための行動調査用衣装をどれにしようかと考えた。
彼を探すにしても、今ある手掛かりはあの日彼が春日駅から西高島平駅方面への地下鉄に乗っていたこと…ただそれだけ。
帰って行ったのかも、職場へ向かったのかも、次の約束に出かけたのかも、何もわからない。
都営三田線の路線図を見ながら巣鴨よりは、板橋かなぁ? なんて漠然と考えている程度の、ノーヒントといっていい状態だった。
人間考え事をする時は自然と視線が上向くという。
私もシーリングファンを見上げながら、アレコレと考えつつぺたぺたと人工大理石の床を歩き、不意に脚の小指を書棚の角にぶつけた。
「いっ!!!!」
折れたかも! 小指折れたかも! と蹲り、ズキンズキンと拍動する痛みに藻掻いていた最中に、ふと閃いた。
もし彼が『別れさせ屋』なら、つまり『どこかの探偵事務所』に所属しているんじゃない? と。
巣鴨が属する豊島区(特に池袋エリア)は、新宿や渋谷と並び都内でも屈指の探偵事務所激戦区だ。
あの男は、春日から巣鴨で乗り換えて池袋に向かったのでは…?
実際、あの辺りには別れさせ屋を専門としている探偵事務所が複数件ある。
「探しに行くなら池袋…」
五里霧中の中で僅かに晴れ間がさしたような感覚に背中をおされて、衣装の選定を進めると、もしかしたら運よく『彼』を見つけることができるかもしれないとの思いから自然と少し浮かれたコーデになっていた。
今日のおっぱいはシームレスブラに任せてから、スクエアネックでリボン付きのニットフレアスカートのワンピースを選択する。地雷系にならない様に色調はパウダーブルー。そこに赤橙色の紐ベルトで腰を細く見せる。
5センチのヌーディーベージュのヒールを履いて、ブラウンにブルーリボンのストローハットを被る。
耳元にはパールのイヤリング。
小物として白くて小さめなショルダーバッグをパイスラ。
「よし❤」
私は意気揚々と事務所を出て、彼の足取りを辿るために千駄木から大手町で乗り換えて一旦春日駅へ。そこから巣鴨駅で乗り換えて池袋までのルートを計40分弱かけて移動した。
池袋は、言わずと知れた新宿・渋谷と並ぶ東京3大副都心の一つ。ショッピング、エンターテインメント、カルチャーが凝縮された、「何でも揃う利便性と、独自のオタク・芸術文化が共存する多面的な街」だ。
そんな池袋駅の東口を出ると、私の脚は自然とサンシャイン通りへと向かう。
千駄木や昨日の本郷とは全然違う人出の多さに辟易としながら街路樹の下に避難して、帰りには乙女ロード(女性向けアニメ・漫画グッズの専門店が密集するエリア)に寄って帰ろう…なんてワクワクしつつ、改めて探偵事務所をスマホで検索して、それらをそれとなく巡るようなルートを考えていた。
これは数日ここに通い詰めないと網羅できそうもない、根気強くいこう。
「ねぇお姉さん! ちょっといいかな? スタイル良すぎでしょ。モデルとか興味ない? 雑誌とかじゃなくて、もっとガッツリ稼げるやつもあるよ!」
突然の声掛けと同時に目の前に立ち塞がったのは、ミルクティー色の髪を派手に遊ばせた若い男だった。
そう言えば駅からなーんとなく視線を感じていたけど…コイツか。
「お姉さん、ちょっとだけ、30秒だけでいいからさ!」
彼は不自然なほど整った白い歯を見せて笑いかけてくるが、その瞳は私の顔ではなく、スクエアネックから覗く鎖骨のあたりにべったりと張り付いている。
その斜め後ろ、黒いセットアップを着たもう一人の男が、無言で私の進行方向に身体を寄せながら口を開いた。
「俺ら怪しいもんじゃないから。これ、名刺ね。お姉さんみたいな、『格が違う』人を探してたんだよ。今の服も素敵だけどさ、そんな服を脱ぎ捨てるくらい自由になれる場所に興味ない? お金に困ってるなら、色々相談にも乗れるよ」
安っぽい香水の匂いと、馴れ馴れしい語り口調。
受け取った名刺には、株式会社 Brilliant Promotions とあり、彼の名前は HIRO / 廣瀬尊 とある。
殺し文句として『君の“価値”を、世界が認めるステージへ。最短で最高のシンデレラストーリーをプロデュース』なんて一文が金ラメで刻まれていた。
彼らは所謂池袋の日常的なノイズである「スカウト」だ。
スカウトとはキャバクラ、風俗、AV、モデルなどの業界へ、適した人材を勧誘・仲介する仕事だ。街頭での声掛けやSNSを通じて女性に接触し、褒め言葉で自尊心をくすぐる、悩みを聞いて信頼を得る、借金や生活苦に付け入るなど、心理的な揺さぶりを用いて話を取り付け、提携先店舗へ紹介する。そして入店や契約が決まった際に、店舗側から紹介料を受け取るのだ。
「芸能事務所」や「モデル事務所」を自称しているが、裏では反社会的勢力との繋がりがあるケースも少なくない。
この名刺の住所も検索すれば、おそらくバーチャルオフィスに辿りつくのだろう。
「悪いけど、私は魔法を信じないタイプなの。この『チケット』、他のお姫様に譲ってあげて」
HIROなる男に名刺を返そうとするも、彼はそれを私のバッグへと勝手にねじ込んできた。
まあいいけどね、帰ったら速攻捨てるだけだし。
「……」
ストローハットの縁を指先で少し下げ、彼らを視界の端で切り捨てて、無視して歩き出す。
最初に私に声をかけてきた男が、回り込んで壁の様に立ち塞がった。
なにコイツ必死か?
「おいおい、無視すんなよ。話聞いてる時くらい、その帽子取ったらどうだ?」
「……興味ありません。どいて」
「そのバッグの紐、食い込みすぎでしょ。わざとやってんの? デカパイのお姉さんよぅ……なぁ、いくらならヤらせてくれるわけ? そのプライドの値段、教えてよ」
後ろからHIROが耳の元に口を寄せてねっとりとした声を投げかけてくるのを、振り返ってジロリと睨む。
「警察を呼びますよ?」
「ハッ、警察? ……行こうぜケン。こんなブスのくせして可愛げもない女、商品価値ゼロだわ」
私は『ブス』っていう悪口にムっと来てしまい、バッグから彼がねじ込んだ名刺を取り出した。
「あ、ねぇヒロくんさん?」
彼が振り向くのに合わせて、その名刺をポイっと投げ捨てる。
「次は美人で可愛げのある子に声をかけることね」
予想外の反撃に、二人組は顔色をサッと変えて目を見開く。
やり過ぎたかとちょっと怯みそうになったけど、やはり警察沙汰はご法度なのだろう。スカウト達はこちらを睨んだ後で逃げるように立ち去っていった。
「まったくもぅ。脅かさないでよね…」
ほっと胸を撫で下ろす。
それにしてもあんだけ必死に声掛けしといて、最後はブスって、負け惜しみもいいとこでしょ。ばーかばーか。
私の身体が商品になると思って、そのおこぼれに預かろうとしたくせに、態度デカイっての。あーほあーほ。
まあともあれ、私はこの戦いに勝利した。
少しだけ清々しい気分に浸ってから、当初の目的だった探偵所巡りを開始して、池袋駅東口を背に明治通りを北へ歩き出した。
視線を上げるたびに、視界には「探偵」「調査」「不倫」の二文字が躍る看板が飛び込んでくる。ビックカメラの喧騒を抜けてハレザ池袋の方へ。 古びた雑居ビルの集合ポストを確認し、入居している事務所の名前を一つずつ、記憶の隅にある「業界リスト」と照らし合わせていく。
途中何度かまたスカウトされたり、ナンパされたりとしながら、それらにはもう会釈もせずに完全無視で突き進んだ。
今日の狙いはあの男、それ以外は眼中になし。
これを8月20日まで続けたなら、もしかしたら…。
乙女ロードまで足を伸ばす前に、南池袋の方も回っておきたい。 ジュンク堂のあたりなら、落ち着いた雰囲気の事務所も多いかも…などとプランを練っている間に、いつの間にか一人の大男が私の右隣りを並走していた。
それに気付いたのは、最悪な事にその男の臭い臭い体臭のせいだった。
齢は50歳前後だろうか。脂ぎった頭皮に、数日間洗っていないようなフケの混じった短髪。首元がヨレた黄ばんだTシャツに、ドカジャンのような作業用ジャンパー。
まるで若い女と隔絶された檻の中で生活していた類人猿が脱走してきたのかと思うくらい、食い入るように私を見ている。
さらに左側、そして背後にもピタリと男が付いていた。
彼らは30代〜40代のどこか似た雰囲気を持った男達。Tシャツとスウェットパンツに踵の潰れたサンダル。揃いも揃って小汚い。
さっきのスカウトたちがツーマンセルなら、こちらはスリーマンセル。
私は逃げ場のない三方向からの「肉の壁」に囲まれているのだ。
勿論無視するけど、背筋がヒヤリとした。少しだけ歩く速度を速める。走り出すと彼らの手が伸びてきそうで怖い。
ヒールなんて履いてくるんじゃなかった!
今まで気にしてなかったけど、ここが汚い裏路地であることが、余計に私を不安にさせた。
「お姉さん。さっきのガキどもの話より、俺たちの話の方が『刺激的』だぜ?」
私と並走していた50歳くらいの3人の中ではリーダー格と思える男が、私の前に出て直進を妨げてから話しかけてくる。
さっきのガキ共? 話をしたのは最初のスカウト達とだけだった。
もしかして1時間近く前の駅前の騒動を知っている…?
つまり、コイツ等はあのHIRO達の兄貴分って事?
それなら。
「……どきなさい。さっきも言ったはずよ。警察を──」
毅然と言い放とうとした脅し文句は、彼の毛深くて太い指が私の二の腕を掴んだ瞬間に、喉から漏れ出るひゅっとした息吹に代わってしまう。
「警察? 呼べるもんなら呼んでみろよ。……それよりお前、そのバッグ。そんなに食い込ませて、見せびらかしたいんだろ? お前みたいな男を舐め切ったしょーもない女に、『エロい身体で出歩くな』って教えてやってくれと頼まれちまったからよ」
身じろぎさえできなくなるような万力のような力が腕に込められて、私の思考は真っ白になる。
彼らの絡み方はあまりにも不自然だった。
頼まれた? 誰に?
隣を歩く通行人たちは、これが強引なナンパやスカウトに見えるのか、あるいは関わりたくないのか、視線を逸らして通り過ぎていく。
「ふ…ふざけないでよ。わ、私がどんな身体してようと、そんなのアンタ達には関係ないでしょ!!」
「いいから来いよ。お前によく似合う、最高の『スタジオ』を見つけてあんだわ」
スタジオとの言葉にギクりとして後ろに逃げようとした途端、私の背後左右にいた男達が、ガッチリと肩を掴んできた。
「ちょ…! 放して! あの、誰か!! コイツら痴漢です! 警察を呼んで!!!」
尋常じゃない恐怖に身が竦む。
でもそれを危機感が上回り、震えた声だけど空気を切るような大声を出すことに成功する。
しかし男達はビビった様子も怯んだ様子もなく、そのまま私は路地裏の更に薄暗いビルの隙間へと引きずり込まれていく。
「臭い…! 放して!」
彼らを罵り必死に暴れる。そんな抵抗も空しく不格好に太腿から持ち上げるようにがっちりと抱え上げられ、足が宙に浮き、ヌーディーベージュのヒールが一足、無残にアスファルトに落下した。
「ひ!」
親が小さな子供におしっこさせるやり手水のポーズみたいに足を広げさせられて悲鳴を上げ、両手でスカートの裾を抑えて股を隠す。
自分の心に渦巻いているのが、不安なのか恐怖なのか羞恥なのか絶望なのか、何が何だかわからない極限の緊張状態になって、その場でオエッオエッと連続でしゃくりあげるように咽て涙目になった。
「おうおう、悦んじまって声もでねぇかぁ? 楽しい撮影会はこれからだぜ姉ちゃん!」
身体がビル間に引き込まれる。
ストローハットが隙間風に煽られて飛び、私の視界から、池袋の眩しい青空が消えていった。




