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事件① 別れさせ屋

8月8日 日曜日


朝5時。

けたたましく鳴った目覚ましのベルに起こされ、私はまだ外も暗い間にソファベットから這い出した。

昨晩、鮫島さんと『副業』についてのとある計画を話し合った後で、私はそのためにも本業の決着を急ぐべきだと判断して、僅かにやる気を取り戻していた。

依頼人の加納省吾に、明日の日曜日に由香さんの行動調査を行うので、可能であれば彼女の様子を教えて欲しい旨をメールして、その返答として『明日は朝8時からゴルフに行くので、役に立てない』との返信を受け取っていた。

ええい、どこまでも使えない奴め。

シャワーを浴びた後で姿見の前に立って悩み、行動調査用の変装戦闘服のテーマを『都内の美大生』と定めてコーデを組む。

オーバーサイズの白いリプロコットンシャツ、マキシ丈のボリュームデニムスカート、頭にはチャコールグレーのキャスケットを被り、大きな黒縁度なし眼鏡をかける。

大きなキャンバス地のトートバッグには、望遠カメラやスケッチブックなどを入れて、今日の足元は黒のスニーカー君に任せることにした。


6時台の電車に乗って白金台駅にやってきた私は、加納省吾の自宅マンションへと向かい、外苑西通り(通称「プラチナ通り」)の銀杏並木を眼下に見下ろす高層レジデンスの向かいにある街路樹の陰に身を潜める。

早朝の爽やかな空気を吸った街が青く輝き出す中で、駅構内のコンビニで買った菓子パンと牛乳を朝食にしながら様子を伺い続けた。

7時前にはもう暑くなり始めてアブラゼミやミンミンゼミが鳴き出し、すっかり気温が上がった朝8時10分頃に加納省吾が手配したハイヤーで出て行く。

アナタは別にどうでもいい。なんならそのまま事故って帰ってこなくても別に構わない。

それからは日陰に入って、不自然にならない様にスケッチしている美大生を装いながら、汗を拭う辛抱の時間が続いた。


「来た。今日はよろしくね…」


10時になってエントランスに姿を現した由香さんは、仕事用の漆黒のスーツこそ脱いでいたけど、ダーク系なのはそのまま上質なサマーニットに、センタープレスの効いた細身のパンツ姿で、その装いには浮き足立った女の気配は微塵も感じられない。

隙のない凛とした佇まいの由香さんは白金台駅へと向かい、飯田橋駅で大江戸線に乗り換えて本郷三丁目駅で下車して、そこから少し歩いた場所にある、歴史ある文房具専門店に立ち寄る。

彼女がそこで驚くほどの時間をかけて仕事用の冷徹な万年筆ではなく、温かみのある木軸のシャープペンシルを購入する様子を、私は大きな眼鏡の奥から観察する。

次に彼女が向かったのは、日曜日の静かな東京大学構内だった。

観光客もまばらな三四郎池のほとりのベンチに腰を下ろし、先ほど買ったばかりのペンを取り出しスケッチブックを開いて、池に浮かぶ睡蓮や、生い茂る木々を、無心になぞり続けていた。

彼女の趣味が「写生」だなんて、依頼人からの情報には無くて、あの男は本当に自分の妻には興味が無いのだなと心底呆れた。

由香さんはそれから一時間以上そこに留まる。

鉄の女の静謐な時間。それは徹底的に管理された日常の中で、唯一彼女が「自分自身の呼吸」を確認するための、切実な息抜きのように見えた。

太陽が真上に昇って暫くの後、キャンパスを出た彼女は、今度は古書店街に足を踏み入れて、背表紙が焼けた古い詩集や、手に取るのも憚られるような歴史書等を扱っている店を覗き始めた。

狭い店内の棚に並ぶその一冊一冊を慈しむように目で追っていく彼女の姿を、私は道路を隔てた反対側の古本屋からそれとなく観察する。

そろそろ時間はお昼時…なんだかここで時間を潰しているようにも見える。

尾行開始から3時間。 私のオーバーサイズのシャツは、汗でぐっしょりと肌に張り付いていて、シャツの胸元をパタパタと引っ張って肌から引きはがし、風を通す。

14時。

古書店を出た彼女の足取りが、どこか力強い物へと変化する。

それまでは自分の世界にその身を沈めていた彼女が、外向きに気を張り詰めだした証だ。つまり、誰かと会うのだ。

私は80メートルの間隔…1分遅れで同じ地点を通過するくらいの距離感で彼女を追う。

由香さんが向かったのは、長くゆるい坂道──『菊坂』の奥にひっそりと佇む、国民的アニメ映画に出てきそうな大正ロマン感が漂うティーサロンだった。

彼女はその深い緑の蔦に覆われている門を潜って姿を消す。

間違いない、彼女はここで誰かと会うつもりなのだ。

もしやと思って急いで距離をつめて入り口を確認すると、門は閉まっていて、『本日予約のお客様のみ』と書かれた小さな木製のサインを口に咥えている陶磁器製の犬が置かれていた。


(やられたっ!)


何とかお店に入れないか、それがダメでも中の様子を覗けないかと垣根前をうろついていると、後ろで「フフっ」と笑い声がする。

ビックリして振り返ると、そこには眩しいほどの白いTシャツを完璧に着こなした20代後半くらいの男性が立っていた。


「残念だったね、お嬢さん。ここは完全予約制だよ」


今どき流行の中性的な顔立ちではなく、男臭さを完全に排しながらも、男性としての自信に満ち溢れている容姿。

すらりと伸びた肢体は鍛え抜かれた豹のようにしなやかで、纏うシャツの一枚でさえ彼の肌を飾るために誂えられた皮膚の一部のよう。

私は男性の美しさがこれほどまでに暴力的な威圧感を持つものだとは知らなかった。

振り返った瞬間、視界が「彼」という存在に焼き尽くされる程の美貌に、思わず息をのむ。

一流の仕立てですら彼の肉体を引き立てるための付属品に過ぎない。加納省吾のように『ブランドに着られている』男とは、住む世界が違っていた。


「絶品だと評判のスコーンが欲しかったのかな? ここで待っていてくれるなら、買ってきてあげるけど、どうする?」


ガラスのような鋭さのある声が私に向けられて、膝から力が抜けて危うくへたり込みそうになる。

私には彼の突然の善意を突っぱねる選択肢なんてなくて、こくこくと頷き、お願いしますと顔を赤らめた。


「少し待ってな」


彼はフワリとしたオードトワレの香り──心地の良いダージリンティーの香りにも似た、クリアな清潔感のもの──を私の鼻腔に届けながら門をくぐり、そして直ぐに、飾り気のないシンプルで上品な紙を手に戻ってきてくれた。


「はい。じゃあこれ」

「あ、ありがとうございます…」


彼は、トートバッグからお財布を掴みだした私の手の甲にそっとその掌を被せる。

お金は受け取らないよ、いちいちそんな事を言わせないでくれとその目が訴えかけている。

心臓がドキンと跳ねた。


「いい店だろ? 今度は是非とも予約して、ティータイムを愉しんでくれ」


彼はそう言い残して、門の向こうへと消えて行った。

余韻に浸り、そして唖然とする。

あれはヤバい…。

あんなに完璧な人が居るはずがない。

プロとしての作られた振る舞いだ。

彼こそ、私が危惧していた『別れさせ屋』なのではないだろうか。

狂言依頼かもしれないと思って一度は投げ出そうとした行動調査が、私の最初の想定通りになろうとしていた。

いくら由香さんでも、あの男性になら…私の中に焦りにも似た感情が湧き上がる。

垣根の間から中を覗いても、和洋折衷の店の中の様子は一切分からない。

辺りを見回し、周囲の高層建築を確認する。その中の一つに客室の窓をこちらに向けて建っているホテルを見つけて、急ぎそこに駆け込んだ。

5階以上の客室の空きがないかを尋ねて、ちょうど5階の部屋が取れるというのでチェックインして部屋に入り、冷房を最大にしてから望遠カメラを構えて距離を合わせながら窓下を覗く。

確認した通り、あのティーサロン店へと奇麗に視線が通っている。変な反射物もない。

勿論建物の中は見えないけど、この位置なら二人が出てくるところを安全に見ていられるし、サロンを出たのを確認してから走ればまた捉えることができる。

時計を確認すると14時41分だった。

完全予約制のティーカフェに入って、10分や20分で出てくる事は無いと考えて、

トイレで用を足し、汗でびっちょびちょだった衣服を全て脱ぎ、朝に買っておいた塩分チャージタブレットを噛んで、ミネラルウォーターを飲む。


「あ、そうだ」


買ってもらったばかりのスコーンの存在を思い出して、ちょっとワクワクしながら紙袋を広げると、私の手の平には少し大きいサイズのスコーンが3つと、ポーションカップに入ったクロテッドクリームにジャムのセットが丁寧に封入されていた。おしぼりもついてる。

お手拭き後にその1つを掴みだし、クリームとジャムを贅沢に盛り付けて口に運んだ。

外はサックリ、中はふんわり。


「おいひ!」


口いっぱいに広がった芳醇なバターの香りに仕事を忘れてしまい、追いのメープルシロップが欲しいなどと思いながら一気に完食して、その後は心を入れ替えて冷ボディシートで全身を拭きながらの監視を続けた。

15時20分。私は脱いでいた衣装を身に着け始める。

15時30分──由香さんがでてきた!

その様子を連続で撮影する。

二人が並んで出てくる事は無かったが、殆ど同じタイミングであの男も出てきた。

彼が支払いを済ませてから出て来た、そんな時間差だ。

最大望遠では同じフレームに収まらなかったけど、顔が分かる範囲で拡大率を調節して、なんとか1枚の写真の中に二人を収めることができた。

由香さんは男性を待つことなく、そのままゆったりとした足取りで本郷三丁目方面──このホテル側に向かって菊坂を下り出し、相手の男性はこちらに背を向けて坂を上っていく。

どちらを追うか迷い…そして私は、由香さんを追う為にホテルの外に出た。

明確な目的があった。

本郷通りで由香さんを捉えて信号待ちをしていた彼女に並ぶ。

もし彼女が私に気付いたのなら話しかけようと思っていたが、変装のおかげか、それとも二日前に頬をビンタした小娘の顔など最初から覚えてもいないのか、特に何の反応もない。

私は更に加納由香に身を近づけて──彼女の身体から、あの男性が身に着けていたダージリンティーに似たフレグランスの香りを、確かに嗅ぎ取った。

由香さんの清廉な肌に、あの男の影が張り付いている。

信号が変わり、彼女が歩き出すと同時に、私は身を翻して菊坂を駆け上った。

今ならまだ…!

坂を上り切った先で、道は大きくT字に開けている。

白山通り方面か、本郷通り方面か。

ここは女の勘とばかりに、白山通り方向の春日駅を目指して走り出した。

直ぐに息が弾み、ホテルで散々クールダウンしたのに、今また滝のように汗をかく。

地下鉄出入口の階段を駆け下り、広くて複雑な地下空間を走る。

そのままホームに飛び込んだけど一歩間に合わず…。今まさに降車乗車を終えて閉まるドアの向こうに、あの男性の後姿を見つけた。

私は痛み出した脇腹を押さえ、胸を大きく上下させ肩で息をしながら、それを見送ったまま立ち尽くす。

彼を乗せた地下鉄は、ホームに風を残して西高島平方面へと走り去っていったのだった。


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