シーン39 染矢と赤松と万智子とノエル
暮れなずむまちの光と影の中、玄関で万智子はブラックグレーの細身な三つ揃えスーツに、黒のワイシャツを合わせシルバーブラックのネクタイ姿の染矢を待ち受け、近くに立った染矢の面差しを眺めると「やつれたわね」とひとしお哀れに言った。染矢の薄い笑顔が悪鬼のようにゆがむ。その顔を見た万智子は、ゾッとする悪寒が這い上がってきた背筋を伸ばして歩き出した。無意識に両腕を摩ってもいた。万智子は、染矢を知らない男のように感じていた。初めての感情だった。青白い染矢がこれもまた不思議にも、生きている人間の感じがしなかったのもある。レストランへと先導する戸上の背に染矢が「戸上、お前の気配りのおかげでここの評判は爆上がりだ。ありがとう」と掠れがちな声を掛けると、戸上はチラリとも振り向かず「あなたの為だとは思ってませんから」とあしらうように言い、万智子はそんな戸上に「お客様にするように愛想笑いの一つでも浮かべて“とんでもありません“とか言えないの。ここのオーナーなのよ」と言って戸上の背中をグーで殴った。戸上が「すみません」と呟きながら、右手でうなじを撫でる。節々がゴツゴツとした大きな手だった。赤松の手に似ていた。万智子の好きな手だった。戸上に椅子を引かれ席についた万智子は「鯛のいいのが入ってるわ、雑炊でもどうかな?」と語尾を上げて提案する。染矢が頷いて同意すると戸上は「準備してきます。私はここにいるとお邪魔でしょうから、これで失礼させて頂きますが、勝手に紅茶にしときました。良かったらお飲みください」と素直さに欠ける言い方をし、万智子は戸上の態度をしかるように微笑み「用があるかもしれないから、近くにいて。それから染矢は固形物は久しぶりだろうから、シェフに優しい味わいにしてと伝えて」と言った。
戸上の背中を見送る万智子は幸せそうだった。尽くしてくれる男を見つけたかと思いながら「良かったな、万智子」と染矢が口にすれば、万智子は「愛することに疲れたのよ」と魅力的にウインクし、染矢は「俺たちの愛し方はお前には一方通行だったかもしれないが、俺たちにとってお前は今も特別だ」と掠れる声でつぶやいた。すると万智子はそんな染矢の顔を見つめ「何の見返りを求められず、ただ愛されるのは心地よいものよ」と言いながら発光するまばゆさを頬に浮かべる。染矢は「お前が幸せならそれでいい」と穏やかな目で言い、万智子は口元に幼女のような、カランコロンとでも澄んで響くような笑みをたたえ、真っ直ぐに染矢を見ると「叶うといいわね」と秘密を口にするかのように囁いた。意味がわからず、曖昧な笑顔でその言葉を受け流した染矢はティーポットを手に取り、カップに注いで砂糖を4杯入れて甘く、甘い、甘ったるいミントティーを口にした。
染矢の脳みそが晴れていく。砂糖の甘さにほだされ、罪深さを嘆くことも、裏切りを自覚することもなかった脳みそに、霧のようにかかっていた薄墨色が晴れていく。ホッと息をついた染矢に万智子が「5代目の様子はどう?」と尋ねると、染矢はゆっくりと視線を落として、ソーサーのふちを右手の親指と人差し指の腹でなぞりながら、あたかも朝露を受けた葉が呼吸するかのように長く、細い息を吐いた。そして「このまま意識が戻らなければ、延命するか判断をと言われた」と答え、居心地の悪さを感じながらも万智子が「…、どうするの?」と聞くと、「俺は決める立場にない」と染矢はさっそく返し、万智子は「急な貸し切りは、相談する為だったのね」と言い、落ちたままの染矢の視界に右手を伸ばして“トントン”とテーブルを叩いた。染矢がぐずぐずと万智子の顔を見上げると、万智子は視線を染矢の後ろへとそらした。振り向くとオールバックになでつけた髪に、ネイビーブルーのスーツにビシリと白ワイシャツと燻銀のネクタイを合わせた赤松が立っていた。成徳すぎて返って男の色香が匂いたつ男であった。万智子に微笑んだ赤松が「染と2人にしてくれるか」と頼み、うなずいた万智子が立ち上がると赤松は「俺にもカップをくれないか」と言った。
★
ミントティーを飲みながら「あのくそババアまだ生きてやがる」と赤松が言えば、染矢は「今回も一旦、お前の組長代行で行くのか?」と聞く。赤松はカップを置くと、微かな憔悴を匂わせた目で染矢を見た。その目の奥に青い鬼火を見た染矢は、そう言えば大河原を出た赤松と、街で偶然あった時も青い鬼火を目の奥に灯していた。あの時は憎しみの目の奥にあったがと思いつつ「なんだ?何が言いたい?」と聞く。「代行はもういい。2度も続いたら面子に関わる。あのババアには引退してもらう。お前が6代目をやれ」、「なっ」と発した染矢を、目で制した赤松が「お前を6代目にする為に、俺は今まで生きてきた」と言った。「はぁー⁉️なに寝言いってんだ!直系はお前だぞ」と染矢が反論すると、赤松は「酔うとお前の記憶が飛ぶ理由を教えてやる」と深海の静けさで口にした。その声には威厳と慈悲、そして後悔が横たわっていた。
「15の時から俺が北陸に行くまで、あの川に2人で出かけていただろう。覚えているか?」と問いかけ、染矢がうなずくと「14の頃からお前と俺で万智子を抱いていたが、そんな時の俺にとって万智子はどうでもいい存在だった。俺はお前が欲しかった」とどこかあどけなく、角が丸いふっくらとした声でそう言った。
下っ腹から上へ上へと、泥水が湧き上がってるような焦燥感が芽生えたが、染矢は赤松の暗い目をぼんやりと見返していた。だが、突然に、ジリジリと落ち着かない気分を掻きたてられ「な…、お前は何が…、言いたいんだ?」と影を鋳込んだような濃い声で口にする。と、赤松も影を折り畳んだような暗い目の色をいっそう濃密にしながら「お前も同じ気持ちだった。2人であの川に出かけてキャンプするようになったんだ。そのうち、お前の道徳心が罪だと押し付けたのか、恩との板挟みのジレンマに苛まれたのか、お前はベロベロになるまで酒を呑んで、俺は前後不覚になったお前を抱いた。お前を失いたくなかった俺は、お前が浴びるほど酒を呑むのを止めもせず、、お前をなすがままにしておいた」と神の前にひざまずきながら“不条理です“となじるかのようにひそめた声で告げる。眉間に剣を立てて聞いていた染矢の脳裏に赤松が蘇る。15歳の赤松が微笑んでいた。地が裂け、赤い溶岩が流れ出し、脳みそを焦がすような熱い激痛が右こめかみをズキリと走り、すかさず額に右手を当てがい、こめかみを親指で押さえて血流を遮断しようとしたが、間に合わず、染矢の視界が朱に染まる。「くそ…」と発した染矢の脳みそが悲鳴を上げる。猛禽類の爪で鷲掴みされるような苦痛を歯を食いしばって耐えたが、口の端から涎が垂れた。右手を上着の内ポケットに突っ込んだ赤松が、取り出したパッケージを差し出すが、染矢は「そんなもんいらねーーよっ!!こんな、、こんな、、頭痛なんて…、どうでもいい!!聞かせろ、話を…、なんで…、俺は!!それを、、忘れてしまったんだ?」とチグハグとする音程で聞いた。目を細めた赤松が「これを飲め、じゃなかったら話さない」と断固たる態度を示し、染矢は左手で赤松の右手からひったくる様にパッケージをはぎ取り、乱雑な両手で錠剤を取り出して、赤松の目を見ながら口に放り込んで噛み砕いた。「いい子だ」と健やかに言った赤松はゆっくりと虎の忍び足で話し始める。
「17歳の夏、お前は俺との関係を終わらせようとして川に入った。死のうとしたんだ。お前は俺の顔をみながら沈んでいった。俺は何も言わずただ突っ立って見てた。だれかがお前の無念を見届けてやんなきゃ寂しすぎるだろう。お前がいないこの世になんの未練も無くなった俺は、後追いして川底に沈んだおまえを抱きしめた。なのに…、あのくそババアが俺たちの監視役に、今井のおっさんを送り込んでた。2人して助けられて、俺らのこと、心中しようとしたことを今井から聞いたあのババアは、お前を入院させ、俺を北陸へ飛ばした。入院中、あのくそババアはお前の頭を金にものをいわせていじくりまわした。俺がそれを知った時にはもう、お前の心のなかの俺はただの組長の息子になってた。あの日々も、あの時間も、交わしたあの約束も…、お前は忘れてた。お前の左手の薬指と小指の間にあるホクロは、俺が入れた刺青だ」と聞いた染矢は左手に視線を落として愕然と眺め、ゆるりと指を広げて群青色のホクロを見た。「お前は俺のものだ」と言った赤松が、その視線で染矢をとらえたままスマホを取り出し「万智子、ノエルをここへ連れてきてくれないか」と電話した。
呆然とした染矢に、赤松が「大丈夫か?」と聞くほどに、染矢の青い額と首筋からいく筋もの針のような細い汗が流れ落ち、ワイシャツの首元を濡らしていた。染矢の頭の中で赤松の言葉が、その数だけ生っ白い剛玉となって跳ねまわっていた。頭蓋骨に当たってヒステリカルにあちこちで共鳴してうるさい。染矢は自然と首を振り「お前に…、こだわっていた俺の…この感情は、今まで組のため、大河原のためと考えていた…、俺のこの気持ちは…」と物悲しくもトボリとこぼし、後を引き取った赤松が「俺への愛だよ」と言った。そして「振りかえれ」とうながす。振り向いた染矢は雷に打たれたかのように硬直し、景色が紙に印刷された写真のように現実が厚みをなくしてゆく。膝に力が入らなかった。折れそうになりながら、ガクガクと立ち上がる。ノエルを見つめた染矢が「あ…き…こ…」とつぶやく。事情を知る万智子が鳥のように目を見開いて、隣に立つノエルを凝視する。張り詰めていた糸が切れ、息を殺してむせび泣く染矢に、赤松が「お前の死んだ妹に、そっくりだろう」と言った。




