シーン3サイレント
シーン3 サイレント
ペラリと頭を下げてかん子の部屋に入ってきた高橋を、かん子は黒檀デスク前にある椅子から悠然と立ち上がり「急な事で、ご足労を頂きまして」とおっとりとする口調で迎え入れた。
高橋は当たり前のように3人掛けのソファ中央に座り「鬼子母神が鬼を踏み付けている像の前に座って、平然としている代行がまたまた」と意味あり気に笑う。その像にチラリ視線を配ったかん子は1人掛けソファに腰掛けながら「これくらいのもんがないと、うちの男どもはようゆう事を聞きませんのや。お恥ずかしい話です」と切り返し、改めて高橋の顔をまんじりと眺めたかん子は「1月に書いてもろた記事で先生も息を吹き返しました。ありがとうございました」と言って深々と頭を下げる。
俳優上がりのイケメン顔に万人ウケする笑みを爽やかに浮かべた高橋は「そのお下げになった深さの分だけ、今回も封筒が厚けりゃ、私は代行の信奉者になれますよ」誠実さを醸し出す口調でスルリとスマートに言う。かん子の後ろに控え立つ染矢はそんな高橋の三文芝居を観せられて、馬鹿かと笑って蹴り倒してやりたくなる。
高橋は芸能界のご意見番的な番組にMCとして抜擢され人気を博していたが、あるプロダクションの秘蔵っ子が起こした交通事故で、加害者の秘蔵っ子を庇うかのような時代遅れのコメントをし、その意見に眉を顰めた視聴者の風はおのずと秘蔵っ子に向き、火炎の如く大炎上させた。それ以来、この男は燻り続けている。もちろんプロダクションの社長に頼まれてのことだったが、きちんと収め切れると踏んでの事で、しかしながらこの男の番組進行には考えがなく、芸も味もなさすぎで笑えもせずで、ただ言いました的なニュアンスは否めず、その上、最も避けなければならない他人の金で酒を飲み過ぎましたという腐臭が、その表情から匂い立っていた。
川上から汗をかかない金を頂戴してドル箱を潰したのだ。結果が伴わなければ川下に流されるのは、どこの世界も同じだ。
「信奉者とは大胆な事を言いはりますな。わてはうちの稼業を落ちて割れたら、使い道がのおなる陶器と同じようなもんやと思っとります。いつ落とされるか、落ちるかわかりません。せやから今を必死に生きとるだけです。わてらの道をたまに覗き込みはるから、ええもんみたいに見えとるんと違いますか。高橋はん、あんさんには俗世がよう似合っておいでです」かん子がおっとり刀で返す。
高橋は目を瞬かせ「どうも私は、言葉遊びが過ぎたようです。そう尖らんでください」と取りなした。ニコリと微笑んだかん子が「染矢、2つや」と言い、この男の性質を疎ましく思っている染矢はワザと、黒檀机の上にある黒皮のアタッシュケースを高橋に中身が見える位置にずらして開け、満載の長4封筒の内から2つ取り出してかん子の前に置く。
開いたままのアタッシュケースに、高橋の喉仏がゴクリと音を立てて上下した。
「確か、週刊真実さんでしたでしょうか」とかん子が本題に入る。「ええ、先週発売の合併号巻頭4ページでした」と即答した高橋の目はアタッシュケースに釘付けのままで、かん子は世間話を始めるかのように紅茶に口を付け「長い事、療養生活を送っとった主人は死ぬとは思っていなかったんでしょうね。遺言書は残しておりませんでした」、「えっ!」と声を上げた高橋が、かん子の顔を見る。豹の目に射抜かれた高橋は慌てずにはおれず、もつれる舌を必死に回して「代行、それはないでしょう!私に飛ばし記事を書けと仰ったじゃないですか!次の定例会で弁護士立ち会いの元、遺言書を開封すると、5代目は亮治さんで決まりだと言ったのは、あなただ。そ、それを、いまさら」鯉のように口を無駄にパクつかせ、しどろもどろの目でかん子に訴える。
クソ!!先週のあの記事のニュースソースは!代行だったか!、だから!妙に確信をついていた訳だ。代行が自分を疎外した理由はなんだ⁈と染矢は考える。
かん子は幼女のように笑い飛ばし「その記事、わても読みました。よう考えてみてください。赤松んとこはいつ誰が暴発してもおかしくはない組でっせ。そんなとこに大河原の代紋を任せてどないするんですか。他に喰われて鼻先を引きずり回されるだけですわ。主人の遺書は無かったことですし、5代目は4代目代行のわてがよう考えてから、決めさしてもらいます」厳する外貌にほのかな笑みを薫らせて言う。
「しかし代行、それでは分裂が起きます」と高橋は食い下がったが、かん子は意に介さない様子で「そうなったら、そうなったで構いません。赤松は器量不足なんやから、遅いか早いかの話ですがな。わてについて来る男だけでうちは成り立ってゆきますし」と締めくくり、かん子の白魚の右手が2つの封筒に伸び「高橋はん、反証記事を書いてくださる記者さんを、ご紹介願えませんでしょうか?これは手付けとしてお受け取りください」と言いながら高橋の目先に封筒2つを押し出した。そしてその手を離し膝の上の左手に揃えると「フリーの方ではなく、他社の編集部に所属している方でお願いします」と言った。
聞いた高橋が「裏切れと仰るんですか!お恥ずかしくも今や、週刊真実は私の食い扶持です、ご存知でしょう⁈それを失えと言うんですか、私に!」と泣くように言う。「わてがいますがな」と聖母のかん子が微笑む。
染矢は思う。自分の命の重さが札束になるだけだと。21gよりは遥かに重いが、これから先はドブを攫うようにその命は削られてゆくと。
封筒をスーツの内ポケットに入れた高橋は、立ち上がると珍しくキチンと頭を下げ「連絡は代行で宜しいでしょうか?」と聞く。染矢はここは押さえておこうと「私でお願いします」とすかさず入り、かん子は染矢を見上げ「そやな。染矢、あんたが窓口になった方がええな。高橋はんに記事書いてもろてた事、黙っとってすまんかった」と言った。
目ざとく「えっ!染さんも知らなかったんですか⁈」と高橋が声を上げる。「わての独断ですわ」と笑うかん子に、高橋は「代行、どういうおつもりなんですか、遺書があると言った時のあなたの目に偽りはなかった。なのに…、反証記事をという、あっ…」と言ったきり黙り込み、「ああー、そうか」と囁くと、泣いたカラス並みにニヤリと笑い「もしかして、組を畳むおつもりですか?」と売れていた頃の冴えと閃きで切り込んだ。
「わてがそうしたくても、皆が許しまへん」とかん子が笑う。