シーン23 呼び水
シーン23 呼び水
かん子がカウンターでひとり、機嫌良く飲んでいると隣に立った目白の妻・佐知子が「姐さん、あっ、すみません」と話し掛けておいてうつむき、身体を佐知子に向けつつのかん子が「なんや、どないした?呼び名なんて今まで通りでかまへんのやで」と言うと、佐知子は「自分の不器用さがイヤになります。どうしてこうも…、私は人とのお付き合いがうまくないのか…、あっ、すみません、お祝いの席なのに…」と言って首を深く垂れた。その姿を見たかん子は幼いのだ、あどけなさが残る女なのだ、誰かのことではなく、まずは自分を先にしてしまうお人なのだと思う。
それでもかん子は「ええか、目白は今が正念場や。執行部から外れたとはいえ、最年少で直参になった男や。もう一回這い上がって来てもらわな困る。目白にそう伝えてんか、佐知子はん」と降格させておいて口にする。かん子がフッと己を笑う。その微笑みを見た佐知子が「目白、5代目のお叱りを受けてから一日中、飲んでばかりで……、眠りません」と言って下を向き、頬を朱に染め「愚痴ばかりこぼしています」と呟いた。
「今日も私が支度をしていると、なんなんだ!お前も俺を捨てるのか!と掴みかかられました。咄嗟に若い衆が間に入ってくれて…殴られませんでしたが…、あの人…、もうダメです」と言った佐知子の胸元の絹生地が数箇所のびていた。かん子はそこに右手をあて「可哀想に、晴れの日の着物やったのにな…」と言いながら撫でつけてやりつつ、「男っちゅうのはいつもこんなことをする。なんでやろな。虚栄心を手懐けられん半端っもんが」と密やかな声で口にする。だが、その語気は微かに荒れていた。かん子が俯いたままの佐知子を覗き込む。目に涙を溜めていた。今にもこぼれ落ちそうだった。かん子はそっと「今日はわてと飲み明かそうか。本家に泊まって2、3日羽伸ばしたらええ」と言った。
いつの間にかにかん子の後ろに立っていた十和子が、「はい…」と頷いた佐知子に歩み寄りながら「あなたしかいないって顔してないで、今夜は飲みましょう。いつもの罰ゲームも用意してあるんだから」と明るく声をかけ、引き寄せた佐知子の右手に十和子はハンカチを握らせ、涙を拭く佐知子の肩を優しく抱き寄せて歩き出した。かん子は二人の背から振り返って椎田を見る。
カウンターに置いてあったブランデーを、グラスを煽るようにして飲み干したかん子の隣に影の如く立った椎田が、バーテンダーを呼び寄せた「席を外してくれないか」と頼んだ。「はい」と応えたバーテンダーが去るまで二人は無言を通す、そのあいだにかん子の豹の目に闇が落ちてくる。その目を見た椎田の喉仏がかすかに震え、椎田はかん子から目を逸らした。かん子が告げる「目白を四課の内藤に逮捕させてくれるか」と。
見開いた椎田の目を正面から見据えたかん子は「また食い始めたようや、大河原に半端もんはいらん。執行猶予中やから4キロほど持たしたら確実に実刑くらうやろ。他に背負わせるもんがあったら証拠と一緒に内藤に渡して、保釈なしで出来るだけ刑期を長くするんや」と普通に言った。「承知しました」と言った椎田が、「染さんに伝えてもいいでしょうか?」と聞く。かん子は佐知子を眺めつつ「ええで。前々回、前回と目白を監禁して体からシャブを抜いてやったんは染矢や。世間様では仏の顔も三度までと言うらしいが、極道にはほんまは二度目もない。染矢も了承するやろ」ゆっくりと長閑な春風のような口調でそう話し、「なぁ、椎田。あんたも知っての通り、前回佐知子はんは顔が曲がるほど殴られて、肋骨を3本折られた。あんたらの到着が遅れとったら死んどった。もうええやろう」と続け、かすかに頷いた椎田は「逮捕の時期はどうしますか?」と静寂の声で囁いた。「襲名を眺めてるしかなかった先方さんへの手向けやから、今日中やな」と言ったかん子に、「性急すぎませんか」と椎田は思わず言ってしまい、「すみません」と言って頭を下げる。そんな椎田を見やったかん子は「男の考え方やな。きっちりせんでええんや、緩急つけてごった煮にしてケムに巻く。執行部にいた男の逮捕は先手を打ってきた先方さんにはええ人参や。いてまいたれ」と笑う。「では、今日の5代目の警備は目白組・若頭補佐の刀根見に引き継ぎます。よろしいですか?」と言った椎田に、かん子は「あんた賢いな。染矢がそばにおくだけのことはあるわ。目白組若頭補佐の刀根見か、目白が染矢と四分六の兄弟盃を交わさせたいと言っとったな。わかった、そうしい」スルリとする新緑香る声で感心しながらそう言った。
「頼んだで」と言い残したかん子は歩き出し、姐たちは席を開けてかん子を迎入れ、姐たちの顔を見回したかん子が「なんや、みんなして額に紙なんぞ貼って」と言い、佐知子が「“私は誰?“っていうゲームです」と答え、十和子が「姐さん、見ててくらさい。簡単なルールですから」とすでに呂律の怪しくなった口調で言い、「私は聖母マリア」と言った。取り囲んでいた女たちから「違います」、「ブブッーー」と言われた十和子は、並々とブランデーが注がれているバカラのガラスボールに手をかけた。その様を冷めた目で見ていた椎田が歩き出す。
段取りをつけようと小部屋に入った椎田の携帯が鳴る。画面表示を見た椎田はすぐさま通話をonにして「染さんに何かあったんですか⁈」と言うと、「ふふふ」と低く笑った赤松が、「染が海が見たいと言い出した。湘南の海岸公園に明日の朝、6時に迎えに来い」と言った。言うだけ言った赤松は電話を切る。すぐさま椎田の携帯に染矢の運転手・小松から着信が入り、出るなり「どういう事だ!!染さんは!!」と怒鳴った椎田に、小松は「すみません!!染さん、岡田総裁にブランデーをがぶ飲みさせられたそうです。車内で話す様子は普段と変わりませんでしたが、心配です。赤坂の“こはく“を出てから、総裁と友里絵さんを友里絵さんのマンションにお送りしました。このまま総裁の警備に着くといった染さんを、赤松さんが話があると言って自分の車に乗せたんです。嫌な感じがしたんで、助手席に乗ろうとしたら、運転席の水沢に蹴り出されました。今、タクシーを捕まえて、染さんの位置情報であとを追ってます。総裁の警備には西村さんと内田さんがついてます」と聞いた椎田は舌打ちする。
「くそ!!染さん迎えに行く前にやることができた。お前、本家に戻ってナンバー細工してあるヴェルファイアを取ってこい。そんでもって俺を拾ってくれ」と椎田は唸るような、潰れた声で言った。くそ、悪い予感しかない。飲んだ染さんは記憶が飛んでいるはずだ。そう思いつつ椎田は頭に刻んである内藤の携帯番号を押し始める。
「なんか用か?」と電話に出た内藤が眠たげに聞く。椎田はスーッと開いた襖を見ながら「今どこにいらっしゃいますか?」と尋ね、「裏口正面の車の中で一人お留守番してる。なんだ?酒の差し入れか?寿司も持ってこいよ」と呑気な内藤の声を聞きながら、椎田は刀根見に“待て“と口だけ動かして言い、頷く刀根見を見ながら「少々急ぎです。今からお時間頂けないでしょうか」と言った。わざと椎田はヒリヒリと焦燥感あふれる声で話していたが、事情を知らない刀根見はその声に目を見張った。
椎田の声を聞いた内藤はほくそ笑んだ。そして「なんか、面白そうだな、乗ってやる。お互い人に見られたら厄介だ。会う場所が決まったら連絡しろ」と言いながらジョーカーの笑みを大きくした。