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EP 6

月兎の狂気と、命を救うという事

 ポポロ村の広場に、悲痛な叫び声が響き渡った。

 午後三時。完成したばかりの防衛線を視察し終え、坂上真一がハイライトに火をつけようとした矢先のことだった。

「誰か! 誰か来てくれ! 旦那様が、旦那様が魔獣に……!」

 土煙を上げて村に転がり込んできたのは、ひどく損傷した一台の馬車だった。

 御者台から転げ落ちるように叫ぶ若者の背後、荷台には血まみれになった恰幅の良い初老の商人が横たわっていた。緩衝地帯の森を抜ける際、運悪くはぐれ魔獣の強襲を受けたらしい。

 坂上が即座に駆け寄ると、商人の腹部には巨大な爪でえぐられたような致命的な裂傷があった。

 既に顔面は蒼白で、呼吸は浅く、虚ろな目をしている。出血量が致死ラインを超えかけていた。

 駆けつけた村の医師が回復薬ポーションを傷口に振りかけるが、傷が深すぎて全く塞がらない。

「だ、駄目だ……! 魔獣の瘴気が傷口から入り込んでいる。これでは回復薬が効かん……!」

「そんな、旦那様! しっかりしてください!」

 絶望的な空気が広場を包み込んだ。

 坂上は自身の腕の【Sinn】に目をやり、残り時間を計算する。五分。もって五分でこの商人は失血死する。自身の持つ【PX】システムで現代医療の止血キットを取り出せば延命は可能だが、それすら間に合うかどうかの瀬戸際だった。

 坂上がジャケットを脱ぎ、介入しようと前に出た、その時だった。

「――どきなさい。そこ、私の特等席よ」

 低く、しかし絶対的な冷たさを伴った声が響いた。

 振り返ると、そこにはいつもの赤ジャージに安全靴を履いた、ポポロ村村長キャルルの姿があった。

 しかし、普段の気怠げな雰囲気は一切ない。口に咥えていたはずのロリポップキャンディもなく、その赤い瞳は、獲物を前にした肉食獣のように鋭く研ぎ澄まされていた。

「村長……!」

「キャルル様、ですが傷が深すぎます! 貴女の負担が――」

 村人たちの制止を無視し、キャルルは無造作に商人の血の海の中に膝をついた。

 彼女は両手を商人の腹部の傷口に翳す。

 瞬間、彼女の銀色のウサギ耳が淡い光を放ち、周囲の空間から文字通り「光の粒子」が彼女の手元へと集束し始めた。

「『月光創生げっこうそうせい』」

 キャルルが静かに紡いだその言葉と共に、眩い銀色の光が商人の傷口を包み込んだ。

 坂上は目を見張った。現代医療の常識を完全に無視した現象。引き裂かれた内臓が繋がり、肉が盛り上がり、失われた血液すらも光の粒子が補填していく。

 ものの十秒で、致命傷だったはずの傷は完全に塞がり、商人の顔に赤みが戻った。

「おおぉ……! 旦那様の呼吸が……!」

「奇跡だ……! キャルル様、ありがとうございます!」

 歓喜に沸く御者の若者と村人たち。

 しかし、坂上だけは見ていた。

「がはッ……!!」

 治療を終えた瞬間、キャルルが口を抑え、指の隙間からどす黒い血を吐き出したのを。

 彼女はひどく顔をしかめ、小刻みに震える身体を必死に支えながら、ジャージの袖で口元の血を乱暴に拭い取った。そして、何事もなかったかのように立ち上がる。

「……治療費、金貨十枚。あとでうちの役場に請求書回しとくから、きっちり払いなさいよ」

 普段の気怠げな声を取り繕って言い捨てると、キャルルは足元をふらつかせながら、逃げるように役場の方へと歩き去っていった。

 誰も、彼女が血を吐いたことに気づいていない。いや、気づかないふりをしているのか。

「……マンミア殿」

「はい、坂上様」

「あれは、どういう原理だ」

 隣に立っていたマンミアに問うと、彼女は悲痛な表情で目を伏せた。

「月兎族の治癒魔法は……正確には『回復』ではありません。患者の負った損傷と失われた生命力を、一時的に『自身の身体に肩代わり』させているのです。魔獣の瘴気ごと、彼女はあの傷を飲み込みました」

「……なるほどな」

 坂上は深く息を吐いた。

 なぜ彼女がいつもジャージ姿で、一日中寝転がって飴を舐めているのか。その理由が、完全に腑に落ちた。

 彼女は怠惰なのではない。いつ運び込まれるか分からない重傷者の命を「肩代わり」するため、常に極限まで自身の体力と魔力を温存し続けているのだ。

 ヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』。極限状態の強制収容所において、最後まで人間の尊厳を失わなかった者は、自らのなけなしのパンを他者に分け与えた者だったという。

 二十歳そこそこの少女が、この過酷な緩衝地帯で、血を吐きながらその究極の利他精神パンを分け与え続けている。

「……大人が、子供に背負わせすぎだ」

 坂上は静かに呟くと、村の歓喜の輪を離れ、役場へと向かった。

 歩きながら、脳内の【PX】スクリーンを操作する。ポイントを大量に消費し、ある二つのアイテムを虚空から取り出した。

 役場の村長室。

 扉をノックせずに開けると、キャルルはソファの上で丸まり、激しい悪寒に震えながら荒い息を吐いていた。ジャージの胸元には、先ほど吐いた血の染みが広がっている。

「……アンタ、ノックくらい……しなさいよ……」

 顔面蒼白のキャルルが、虚勢を張って坂上を睨みつける。

「すまん。だが、部下の体調管理は上に立つ者の義務でな」

 坂上はソファの傍らに片膝をつき、彼女の身体を優しく抱き起こした。

 そして、手の中に実体化させた小さなガラス瓶の封を切る。自衛隊の特殊作戦群が用いる、最高純度の医療用総合栄養アンプルだ。

「これを飲め。魔力は回復しないかもしれんが、細胞の修復と造血には劇的に効くはずだ」

「いらな……っ、んぐッ!?」

 拒絶しようとしたキャルルの口に、坂上は強引にアンプルを押し当て、中身を流し込んだ。

 直後、キャルルの身体を内側からカッと熱い奔流が駆け巡った。肩代わりした傷の痛みが急速に和らぎ、失われた血液が恐ろしい速度で生成されていくのが分かる。

「な……これ、すんごい、ポーション……」

「まだあるぞ。口を開けなさい」

 驚くキャルルの口に、坂上は続いて「黒い四角い塊」を放り込んだ。

 地球のベルギー産、最高級のビターチョコレート。

「んっ……あ、あま……い……」

 口の中を満たしていた鉄の血の味が、芳醇なカカオの香りと濃厚な甘みに塗り替えられていく。

 その優しすぎる味に、キャルルの瞳から、ふいにポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

「よくやった。立派な村長だよ、お前は」

 坂上は、自身のスーツが血で汚れることも厭わず、震えるキャルルの背中を大きな手でゆっくりと撫でた。

「でもな。上に立つからといって、全てを一人で背負って血を流す必要はない。頼れるものは頼れ。……俺がここにいる間は、もうお前に一人で泥も血も被らせたりはしない。大人の男の背中ってのは、子供が寄りかかるために広くできとるんじゃ」

 ぽん、ぽんと。

 背中を叩く規則的なリズムと、胸から聞こえるあの絶対的な「安心感」の心音。

『嘘偽りなく、私を護ると言っている』

 キャルルの月兎の耳が、その真実を正確に拾い上げていた。

 今まで、誰も彼女を「子供」として扱ってくれなかった。

 村を守るための「道具」。奇跡を起こす「聖女」。皆が彼女を頼り、彼女の犠牲の上に胡座をかいていた。

 なのに、この見知らぬ異世界の男だけは、自分が血を吐いた痛みを理解し、甘いお菓子を与え、ただの弱い女の子として抱きしめてくれている。

「……ずるい」

 キャルルは、坂上のスーツの胸ぐらを、小さな両手でギリギリと強く握りしめた。

「そんなこと言って……どうせアンタも、いつか勝手にいなくなるんでしょ? 私を置いて、どっかに行っちゃうんでしょ……?」

「俺は逃げんよ。金曜日に、美味いカレーを食わせる約束が残っているからな」

「……ほんと?」

「ああ。嘘はない」

 坂上が優しく微笑むと、キャルルは真っ赤な瞳を濡らしたまま、彼を見上げた。

 その瞬間、彼女の瞳の奥に、ただの感謝や甘えを超えた、ひどく暗くて甘い「執着ヤンデレ」の炎が灯ったことに、坂上は気づいていなかった。

「……約束、したからね」

 キャルルは、坂上の胸に顔を擦り付けるようにして密着した。

「私、もうアンタの言うことしか聞かない。アンタが私のために血を流させないって言うなら、私はもう、アンタ以外のためには絶対無理しない。……だから、ずっと私のそばで、私だけを甘やかしてね……?」

 逃がさない。この絶対的な安心感を持つ男を、絶対に自分の手元から離さない。

 ウサギの習性である強烈な「寂しがり屋」の性質が、坂上という完璧な精神的支柱を得たことで、狂気的な依存へと変貌を遂げた瞬間だった。

「……やれやれ。随分と甘えん坊の村長さんだ」

 坂上は苦笑しながらも、彼女の頭を優しく撫で続けた。

 彼の脳内では、【PX】のシステム音が『極めて重大な救済と庇護の完了。善行ポイントを大幅に加算します』と、どこか嬉しそうに鳴り響いていた。

読んでいただきありがとうございます。

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