EP 3
ポポロ村の星の王子様(ただし安全靴着用)
森を抜けた先に広がっていたのは、緑豊かな農地と、木造やレンガ造りの家屋が立ち並ぶのどかな集落だった。
ポポロ村。アナステシア世界における大国間の『緩衝地帯』に位置するこの村は、一見すると中世ヨーロッパの農村のような牧歌的な風景をしている。
――しかし、五十歳の元海将・坂上真一の「観察眼(見の目)」は、その風景の中に潜む異質な要素を次々と捉えていた。
「……おい、マンミア殿。あそこの畑で、土から足を生やして猛烈な勢いで逃げ回っている赤い根菜は何だ?」
「あれは当村の特産品『人参マンドラ』です。非常に栄養価が高いのですが、捕獲しようとすると時速六十キロで逃走するため、収穫には熟練の技が要ります」
「時速六十キロ。なるほど、原付より速いわけだ」
それだけではない。村の広場の奥には、周囲の景観から完全に浮いている、青と黄色の派手な看板を掲げた巨大な平屋の建物があった。看板にはデカデカと『ホームセンター・タローマン』と書かれている。
さらには、その向かいにある謎の飲食店の看板には『ルナキン』の文字。どう見ても地球のファミリーレストランだ。
(……狂っとる。いや、異世界転移などという時点で俺の常識など通用しないのは分かっていたが、この村のカルチャーは少々カオスが過ぎるな)
脳内でこっそりと広島弁でツッコミを入れながらも、坂上の表情は至って冷静だった。
未知の状況下において、指揮官が動揺を見せることは組織の崩壊に直結する。『失敗の本質』を熟読する坂上は、どんな理不尽な光景を前にしても、ただ「そういうものか」と事実として受け入れる完璧なメンタルコントロールを身につけていた。
「坂上様。こちらが当村の役場です。まずは村長にお引き合わせいたします」
マンミアに案内され、村で一番大きなレンガ造りの建物へと足を踏み入れる。
通された村長室は、書類が山積みにされたデスクと、年季の入った革張りのソファが置かれた、いかにも実務的な空間だった。
そのソファに、村の最高責任者は「寝転がって」いた。
「あー、マンミアお疲れー。見回りの報告ならそこの机に置いといてー」
だらけきった声。
坂上は目を細めた。そこにいたのは、年齢二十歳前後に見える、小柄で可愛らしい少女だった。
頭には銀色のウサギの耳が生えており、口には棒付きの飴玉を咥えている。そこまでは、いかにもファンタジー世界の「獣人の少女」といった風情だ。
だが、彼女の服装は上下とも真紅のジャージ(二本線入り)。そして足元には、工事現場の作業員が履くような、つま先に鉄板の入った厳つい『安全靴』を履きっぱなしにしていた。
「村長! お客様の前で行儀が悪いですよ! シャキッとしてください!」
「んえー? 客ぅ?」
マンミアの生真面目な叱責を受け、ジャージの少女――ポポロ村村長キャルルは、面倒くさそうに上半身を起こした。
ウサギの耳がピクンと動き、気怠げな赤い瞳が、スーツ姿の坂上を捉える。
「……誰、そのおじさん。帝国の役人? それとも商会の回し者?」
「違います! こちらの坂上様は、森でファングボアの群れに襲われていた私を、一太刀で救ってくださった大恩人です!」
「へぇ……。ファングボアの群れを、一太刀でねぇ」
キャルルの瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が宿った。
次の瞬間。
――ドンッ!!
凄まじい踏み込みの音が室内に響いた。
安全靴が床のフローリングを粉砕し、キャルルの姿がブレる。彼女はマッハに迫る異常な速度でソファから跳躍し、瞬きする間に坂上の眼前、わずか十センチの距離まで肉薄していた。
「ッ!? 村長、何を!」
マンミアが慌てて声を上げるが、坂上は一歩も退かなかった。
いや、動体視力で彼女の動きを完璧に捉えた上で、「攻撃の意思なし」と判断し、あえて動かなかったのだ。
キャルルは無表情のまま、坂上の厚い胸板にペタリとウサギの耳を押し当てた。
『月兎族』の特異能力――心音の聴取。
彼らは対象の心臓の鼓動から、感情、野心、そして「嘘」を完璧に見抜くことができる。緩衝地帯という危険な立地で、この若さで村長を務め上げているのは、彼女のこの能力と、先ほどの理不尽な身体能力(安全靴キック)による圧倒的な政治力・防衛力があるからだ。
(……どうせ、下心まみれの薄汚い鼓動が聞こえるんでしょ)
キャルルは内心で冷たく毒づいていた。
帝国の貴族も、他国の商人も、皆同じだった。外面を取り繕っていても、心音を聞けば「この村をどう利用してやろうか」という醜い欲望や、獣人である自分への軽蔑、あるいは劣情がドクドクと響いてくる。
このスーツの男も、マンミアを恩に着せて村に入り込み、何かを企んでいるに決まっている。
しかし。
キャルルの耳に届いた坂上の心音は――彼女の予想を完全に裏切るものだった。
『…………トクン…………トクン…………』
(な……に、これ?)
キャルルは息を呑んだ。
それは、底知れぬ深海のように静かで、大樹のように穏やかな鼓動だった。
打算も、野心も、怯えも、一滴の嘘すらもない。
ただそこにあったのは、『己の欲せざる所、人に施すこと勿れ』――他者を慈しみ、理不尽を憎み、見返りを求めずにただ己の信じる正しさを貫こうとする、途方もなく澄み切った精神の調べ(『論語』の精神)。
五十年間、国家と部下を背負い、泥水をすすりながらも誠実に生き抜いてきた男だけが持つ、絶対的な「安心感」。
その温かすぎる音に触れた瞬間、キャルルの目からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「……あ、れ?」
キャルルは慌てて坂上の胸から離れ、自分の目元を乱暴にジャージの袖で拭った。
自身がなぜ泣いているのか、彼女にも分からなかった。ただ、ずっと張り詰めていた心の糸が、この男の前にいると一瞬で解けてしまいそうになる恐怖と、強烈な安堵感が入り混じっていた。
「……アンタ、何者? ただの凄腕の剣士って心音じゃない。国の一つや二つ、背負ったことがあるような……」
「大層なもんじゃない。俺は坂上真一。ただの、迷子の五十歳だよ」
坂上は、警戒するように身構えるキャルルを見て、フッと相好を崩した。
彼から見れば、二十歳の村長など、今年二十五歳になる息子の信長よりも年下の「子供」である。重圧に耐えながら虚勢を張るその姿は、かつて部下として育ててきた不器用な若者たちと重なって見えた。
坂上は、スーツのポケットに手を入れるフリをして、脳内の【PX】スクリーンを操作した。
保有ポイントを数ポイント消費し、ある嗜好品を購入。手の中に実体化させる。
「村長さん。突然の来訪で驚かせた詫びだ。よければ、これを受け取ってくれないか」
そう言って坂上が差し出したのは、金色の個包装に包まれた一粒の『コーヒーキャンディ』だった。
自衛隊の演習中、疲労した頭を叩き起こすために坂上が愛用している、濃厚な苦味と甘味が特徴の逸品である。
「……何これ。毒でも入ってんじゃないの?」
「ははっ。こんなに可愛い村長を毒殺して、俺になんの得がある? 騙されたと思って舐めてみなさい。あんたが咥えてるその苺味の飴より、少しだけ『大人』の味がするはずだ」
坂上の、一切の裏表がない穏やかな笑顔。
キャルルは躊躇いながらも、包みを受け取り、中身の黒褐色の飴玉を口に放り込んだ。
「ッ……!?」
瞬間、キャルルの銀色のウサギ耳が、バッサバッサとプロペラのように激しく羽ばたいた。
口いっぱいに広がる、未知の焙煎された芳醇な香りと、脳の疲労を溶かすような深いコクと甘み。ポポロ村にはコーヒーという概念がない。彼女にとって、それはまさに雷に打たれるような衝撃の美味さだった。
「な、なにこれ! 苦いのに甘い! すんごい美味しい! はわわ、頭の芯がシャキッとするぅ!」
「気に入ってもらえて何よりだ」
両手で頬を押さえ、安全靴を履いた足をバタバタとさせて喜ぶキャルル。
その姿は、五歳になる愛娘の千姫が『苺ミルク飴』をもらって喜ぶ姿と完全に一致しており、坂上の目尻は限界まで下がっていた。
「……ごほんッ」
キャルルはハッとして我に返り、わざとらしく咳払いをすると、ジャージの襟を正して再びソファに座り直した。だが、ウサギの耳は未だにピコピコと嬉しそうに動いているし、口の中のキャンディを転がす音も響いている。
「ま、まあ……アンタが悪い奴じゃないってことは、心音とこの『こーひーきゃんでぃ』で分かってあげたわ。ポポロ村村長、キャルルよ。命の恩人だし、好きなだけこの村に滞在するといいわ!」
ふんす、と胸を張るキャルル。
「ありがたい。では、少しばかり厄介になるとしよう」
こうして、五十歳の元海将・坂上真一は、生真面目なケンタウロスの騎士と、ヤンデレの素質を秘めたジャージ姿の月兎族村長がいる、奇妙なポポロ村での生活をスタートさせることになった。
彼の脳内では、キャルルの警戒を解いたことによる『外交的勝利・善行』として、再び【PXポイント】がチャリンと加算されていた。
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