EP 2
誇り高き人馬の騎士と、銀色のオイルライター
鬱蒼とした未知の森を歩きながら、坂上真一は脳内の【PX】スクリーンを操作し、ポイントを消費して数点の物資を購入した。
迷彩柄のミリタリー水筒(中身は真水)、高カロリーの携行ゼリー飲料、そして方位磁針。神が与えたこのシステムは、注文した瞬間に虚空からアイテムが実体化するという、兵站の常識を覆すデタラメな仕様だった。
「……とはいえ、磁北が地球と同じとは限らんか」
狂ったように針が回転する方位磁針をジャケットのポケットにしまい、坂上は太陽(らしき恒星)の位置と樹木の苔の生え方から方角を推測する。
孤立無援のサバイバルにおいて最も恐れるべきは、体力ではなく「精神の消耗」だ。『失敗の本質』においても、状況の不確実性が組織の士気を崩壊させる最大の要因であると記されている。
だが、五十歳にして修羅場を潜り抜け続けてきたこの男に、焦りは微塵もなかった。携行ゼリーで最低限の糖分を補給し、一定のペースを保ったまま、軍隊式の歩法で音もなく森を進んでいく。
小一時間ほど歩いた時だった。
前方の茂みの奥から、金属が激しくぶつかり合う音と、獣の咆哮、そして――高く澄んだ女性の短い掛け声が聞こえた。
坂上は即座に気配を殺し、大樹の陰へと身を隠す。
『孫子』曰く、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」。無闇に飛び出すのは愚か者のやることだ。まずは状況の把握に努める。
視線の先、開けた獣道で激しい戦闘が繰り広げられていた。
群がっているのは、体長三メートルに迫る巨大な猪の魔獣『ファングボア』が五頭。
そして、それらをたった一人で迎え撃っているのは――上半身は美しい女性の騎士、下半身は屈強な栗毛の馬という、ファンタジーの象徴とも言える『ケンタウロス』であった。
「……ケンタウロス。なるほど、やはり異世界というわけか」
坂上は冷静に観察を続ける。
驚くべきは、彼女の「戦い方」だった。長い栗色の髪を揺らしながら、彼女は決して力任せに武器を振り回さない。
四本足による圧倒的な機動力を活かして魔獣の突進を躱し、手にした重厚なクロスボウで正確に敵の脚を射抜く。さらに、腰に備え付けた「分銅付きの鎖」を巧みに操り、突進してくるボアの牙に巻き付けては、その勢いを利用して大木へ激突させていた。
個人の武勇に頼るのではなく、距離と地形を利用した理にかなった制圧戦術。
自衛隊の指揮官として、坂上はその生真面目な戦いぶりに感心した。
(見事な立ち回りだ。自身の特性を完璧に理解し、冷静に戦局をコントロールしている。……だが、多勢に無勢。疲労が見え始めているな)
坂上の見立て通り、彼女の息は上がり、栗毛の馬体は汗で光っていた。
一頭を鎖で拘束し、もう一頭にクロスボウの狙いを定めた、まさにその瞬間。
彼女の完全な死角である背後の茂みから、隠れていた「六頭目」のファングボアが、凶悪な牙を剥き出しにして突進してきた。
「ッ……しまっ――!」
ケンタウロスの騎士が気づいた時には、既に回避不能な距離だった。彼女が絶望に目を見開いた、次の瞬間。
――ヒュンッ!!
森の静寂を切り裂くような、鋭利な風切り音。
いつの間にか彼女の背後に音もなく立っていた「スーツ姿の初老の男」が、手にした白刃を一閃させていた。
名刀『白雪』の神速の刃が、六頭目のボアの硬い頭蓋を、豆腐でも切るかのように両断する。ズザザザッ、と巨大な肉塊が勢い余って騎士の足元へ滑り込み、完全に沈黙した。
「右翼の死角は潰した。前方の敵に集中しろ、お嬢ちゃん」
低く、よく通るバリトンボイス。
ケンタウロスの騎士は一瞬呆然としたが、背中から伝わる男の「絶対的な指揮官の覇気」に当てられ、無意識のうちに身体が動いていた。
「は、はいッ!」
彼女が鎖を思い切り引き絞り、拘束していたボアの体勢を崩す。
その完璧なタイミング(拍子)を見計らい、坂上が縮地の歩法で一気に間合いを詰めた。
一対多数の戦闘において、一人で無双する必要はない。味方が作った隙を、確実な一撃で刈り取ればいい。それこそが、最も消耗を防ぐ合理的なチームワークだ。
白雪が三度閃く。
騎士が体勢を崩したボアたちの頸動脈を、坂上の刃が正確無比に斬り裂いていく。
ものの十秒。残っていたボアたちは全て血の海に沈み、森には再び静寂が戻った。
チャキッ。
坂上が懐紙で血を拭い、刀を鞘に納める音が響く。
「……怪我はないか? 立派な戦いぶりだった。地の利と自身の機動力を活かした、理にかなった見事な戦術だ。称賛に値する」
振り返った坂上は、穏やかな大人の笑みを浮かべて騎士を労った。
ケンタウロスの騎士は、スーツ姿に日本刀という奇妙な出で立ちの男に警戒心を抱くよりも先に、その温かくも威厳のある言葉に心を打たれていた。
彼女は慌てて姿勢を正し、右手を左胸に当てる騎士の敬礼を行う。
「た、助太刀に感謝いたします! 私はポポロ村自警団リーダー、マンミアと申します。貴方様のような凄腕の剣士に助けていただけるとは……」
「俺は坂上真一。今はただの迷子のようなもんだ。マンミア殿と言ったな、自警団ということは、この先に村があるのか?」
「はい! この獣道を抜けた先に、我々のポポロ村がございます。もしよろしければ、命の恩人である坂上様を村へご案内させてくだ――」
言いかけたマンミアの言葉が止まった。
坂上が、内ポケットから見慣れぬ小さな箱を取り出し、細い筒状のものを口に咥えたからだ。
そして彼は、純銀製のオイルライターを取り出すと、親指で弾くように蓋を開けた。
――カチリ。
澄んだ金属音が森に響き、オレンジ色の小さな炎が揺れる。
坂上は目を細めて火を点けると、ふぅ、と紫色の煙を吐き出した。煙草のほろ苦い香りが、戦闘後の張り詰めた空気を緩やかに溶かしていく。
「あ……」
マンミアは、その一連の動作から目を離せなかった。
銀色のライターに反射する光。整った短い白髪混じりの髪。余裕を感じさせる広い背中と、落ち着き払った横顔。
自警団リーダーとして、「村を守らなければならない」という重圧を一人で背負い続けてきた二十五歳のマンミアにとって、それはあまりにも強烈な『大人の男の頼もしさ』であった。
「どうかしたか?」
「い、いえッ! な、なんでもありません!」
ボッ、と顔を赤らめたマンミアは、自身の馬体の尻尾をバタバタと揺らしながら視線を逸らした。
「そうか。ではマンミア殿、案内を頼めるか。できれば、美味いコーヒーが飲めるとありがたいんだがな」
「コ、コーヒー……ですか? 存じ上げない飲み物ですが、村長にお願いすれば何か用意できるかと!」
「ははっ、そりゃ楽しみだ」
五十歳の元海将と、二十五歳の生真面目な人馬の騎士。
奇妙な二人の足音が、木漏れ日の落ちる獣道に並んで響き始めた。
坂上の脳内システム【PX】には、先ほどの共闘による『理不尽の解決・他者への援護』の善行ポイントが、チャリンと小気味よい音を立てて加算されていた。
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