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第一章 ポポロ村での金曜日カレー

状況適応完了。これより単独での生存戦略を立案する

 鋼鉄の床から伝わるはずの、巨大なディーゼルエンジンの微振動が消えていた。

 潮の香りも、CIC(戦闘指揮所)を飛び交う電子音と怒号も、今はもうない。

「……なるほど。これが『最悪の想定』というやつか」

 深い森の中。鬱蒼と生い茂る、地球上の植物とは明らかに異なる巨大なシダ類や、紫色の葉をつける未知の樹木を見上げながら、坂上真一さかがみ しんいちは低く呟いた。

 年齢五十歳。海上自衛隊・海将にして、出雲艦隊打撃軍の総司令官たる男は、自身の置かれた絶望的な状況を前にしても、その顔に一切の焦燥を浮かべていなかった。

 数時間前、坂上は旗艦であるイージス艦の艦橋で指揮を執っていた。

 突如として海上に発生した正体不明の空間異常。レーダーが狂い、空間そのものがねじ曲がるような異常事態の中、坂上は部下たちに的確な退避指示を出し続けていた。だが、次の瞬間に視界が白く染まり――気がつけば、この名も知らぬ森の中で、一本の巨大な樹の根元に寄りかかって倒れていたのだ。

 坂上はゆっくりと立ち上がり、スーツの土を払う。統合幕僚監部での会議の帰りに合流したため、軍服ではなく仕立ての良いスーツ姿だった。

 左腕に視線を落とす。愛用のダイバーズウォッチ【Sinnジン UX.SDR (GSG9)】。ドイツ連邦警察の対テロ特殊部隊も採用する、5,000メートルの水圧にも耐えうる特殊ハイドロ仕様の文字盤は、傷一つなく現在時刻『15:30』を刻んでいる。

 しかし、木漏れ日として差し込む太陽の光は、地球のそれよりも赤みが強く、空には見慣れぬ二つの月がうっすらと浮かんでいた。

『失敗の本質』――坂上が座右の銘とする日本軍の組織論的分析書には、こうある。

 組織も個人も、客観的な事実を直視せず、自らの願望に依存した希望的観測を抱いた時に破滅する、と。

「第一に、ここは地球ではない。第二に、通信網は完全にダウン。第三に……俺は完全に孤立している、か」

 坂上は状況を極めて冷徹に整理した。パニックを起こすなど、指揮官としては三流のやることだ。

 自身の持ち物を確認する。

 内ポケットには愛用の煙草『ハイライト』と銀製のオイルライター、そして家族の写真。

 そして右手には、艦への持ち込みが特別に許可されていた一本の長い包みがあった。虎徹一族が鍛え上げた最上大業物の日本刀、『白雪しらゆき』。この名刀が無事であったことは、彼にとって最大の幸運と言えた。

 その時だった。

『――個体情報のスキャンを完了。実績【アナステシア世界への到達】を解除しました』

 脳内に、機械的な音声が直接響いた。

 坂上が眉をひそめた瞬間、目の前の空間に半透明のホログラムスクリーンが展開される。

『ユニークスキル【PX】がアクティブになりました。初期ポイントとして5,000ptが付与されています』

「……PX? 自衛隊の駐屯地にある、あの売店ポスト・エクスチェンジのことか」

 坂上がスクリーンに触れると、そこには見慣れた駐屯地売店の光景と、膨大な商品リストが並んでいた。

 缶コーヒー、コーヒーキャンディ、迷彩服、さらには最新の携行食糧や、スコップ、果ては5.56ミリ小銃弾や魔導装甲の補修部品らしき物までが、ポイントを消費することで「購入」できる仕様になっているらしい。説明書きによれば、「善行」や「理不尽の解決」によってポイントはさらに蓄積されるという。

「……はっ。どうやら神サマとやらは、俺に兵站サプライチェーンの心配だけはさせないつもりらしいな」

 坂上の口元に、微かな笑みが浮かぶ。

 どれほど優秀な将であっても、補給の途絶えた軍隊は三日で崩壊する。逆に言えば、補給さえ続くのであれば、坂上真一という男は決して敗北しない。

「……ぶち面倒なことになったが、腹を括るしかないのう」

 誰もいない森の中で、ふと素の広島弁が漏れる。

 妻の恵と、目の中に入れても痛くない五歳の愛娘、千姫の顔が脳裏をよぎった。彼女たちの待つ家に帰り、金曜日に手作りのカレーを食わせてやるためにも、こんな所で朽ち果てるわけにはいかない。

 その時、周囲の空気が露骨に変わった。

 ガサリ、とシダの葉が揺れる。風ではない。明確な「殺意」を持った何かが、坂上を包囲するように動いている。

『五輪の書』――水の巻。「観見の二つのこと、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり」。

 坂上は動かない。心拍数すら一定に保ったまま、視線を動かさずに気配を探る。

 木々の影から姿を現したのは、三頭の異形の獣だった。

 狼に似ているが、体長は優に二メートルを超え、額には禍々しい三つ目の眼球がぎょろりと動いている。その口からは、酸性のよだれが滴り落ち、地面の草をジュウッと溶かしていた。

 この世界における低級魔獣『アシッド・ウルフ』。一般人であれば、遭遇した瞬間に絶望して腰を抜かす捕食者である。

「グルルルルッ……!」

 三頭の魔獣が、一斉に坂上の喉笛を目指して跳躍した。

 鋭い爪と牙が迫る。しかし、坂上から見れば、獣たちの攻撃はあまりにも直線的で、力任せな「単調な突進」に過ぎなかった。

「……拍子が遅い」

 静かな呟きと共に、坂上の右手が動いた。

 暴走族総長として荒れ狂っていた若き日の膨大なエネルギーを、極限まで研ぎ澄まされた理合いへと昇華させた技術。

 北辰一刀流、免許皆伝。

 ――ヒュンッ!!

 抜刀の軌跡は、まさに白雪が舞うような美しさだった。

 最上大業物『白雪』の刃が閃いた瞬間、先頭を飛んでいた魔獣の巨体が、空中で綺麗な二つの肉塊に分断された。

 血飛沫が舞う前に、坂上は流れるような踏み込みで二頭目の懐へと入り込む。一切の無駄を省いた袈裟懸けの一撃。魔獣の強靭な骨と筋肉を、白雪は紙を裂くように抵抗なく両断した。

「ギャンッ!?」

 瞬きする間に仲間を二頭も屠られた三頭目が、空中で恐怖に目を見開き、無理やり軌道を変えて逃げ出そうとする。

 しかし、坂上はそれを許さない。剣を上段に構え直すことすらなく、手首の返しだけで放たれた鋭い刺突が、三頭目の脳天を正確に貫いた。

 ドサリ、ドサリと、三つの巨大な死体が地面に転がる。

 戦闘時間、わずか三秒。

 坂上はスーツに一滴の血も浴びることなく、静かに残心をとった。

「……刃筋は鈍っとらんか。まあ、休日の竹割りよりは骨が折れたがな」

 懐紙を取り出し、白雪の刀身についた魔獣の脂を丁寧に拭き取る。カチン、と鍔鳴りを響かせて刀を鞘に納めると、坂上は内ポケットからハイライトを取り出し、咥えた。

 銀製のオイルライターを取り出す。

 カチリ。

 澄んだ開閉音に続いて、オレンジ色の炎が揺れた。煙草に火をつけ、紫色の煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

「さて」

 ニコチンが脳を冷静に巡るのを感じながら、五十歳の司令官は眼前に広がる未知の森を見据えた。

「これより単独での生存戦略を立案する。まずは水場の確保と、周辺地理の偵察だ。……さっさと仕事を終わらせて、帰還の糸口を探すとしよう」

 男の背中には、服の下に隠された仁王の刺青が、まるでこれからの戦いを歓迎するかのように、静かに熱を帯びていた。

読んでいただきありがとうございます。

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