EP 2
『人魚姫のタローソン防衛戦と、ポポロ村の歩き方』
元海将・坂上真一の朝は早い。
五十歳という年齢になっても、自衛隊時代に培った肉体のメンテナンスは欠かさない。黒いジャージ姿でポポロ村の周囲をジョギングし、防衛線の魔導センサーに異常がないかを確認して回るのが、彼の日課であった。
吐く息が白く染まる冬の早朝。
村の中心にある広場に差し掛かった坂上は、そこから聞こえてくる妙に陽気な音楽に足を止めた。
『――はい、腕を前から上に上げて、大きく背伸びの運動から!』
拡声器から流れているのは、かつて建国者・佐藤太郎がこの世界に持ち込んだ遺産の一つ、『ラジオ体操第一』である。
村の老人や子供たちに混じって、最後尾で誰よりもキレのある動きを見せている少女がいた。
「イチ、ニー、サン、シー! アイドルたるもの、朝の基礎体力作りは欠かせませんの!」
絶世の美少女フェイスに、ワゴンセールのサツマイモ色ジャージと健康サンダル。海中国家シーランの王女であり、現在はキャルル宅の居候となっているリーザ・シーラン・リヴァイアサンだ。
彼女は体操が終わるや否や、首から下げたヒモ付きのスタンプカードを握りしめ、マッハの速度でスタンプ押し係の老人の前へ整列した。
「おじいちゃん、おはようございますの! 今日も最高にピースフルな朝ですわね! はい、スタンプお願いしますのっ!」
百点満点のアイドルの笑顔を振りまき、カードに赤いスタンプをポンと押してもらうリーザ。
「……何をしてるんだ、あいつは」
坂上が呆れ半分で近づいていくと、リーザは満足げにスタンプカードを太陽に透かして見ていた。
「サカガミ! おはようございますの! 見てください、あと三つスタンプを貯めれば、『タローマート』の図書カード百円分と交換できるんですの! ポイ活は毎日の地道な積み重ねが命ですのよ!」
「……そうか。王族の姫君が図書カード百円のためにラジオ体操の皆勤賞を狙うとは、涙ぐましい努力だな」
坂上がため息混じりに頭を掻いていると、広場のベンチに、紙袋を持った一人のおじさんが座るのが見えた。
おじさんが紙袋からパン屑を取り出し、地面にパラパラと撒き始める。
クルックゥ、と鳴きながら、どこからともなくハトの群れが集まってきた。平和な村の、のどかな朝の光景――。
だが、リーザの青い瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められた。
「……ハトポッポさんたち、今日は譲りませんの。そのパン屑は、私の血となり肉となる貴重な炭水化物ですのよ!」
リーザは健康サンダルを鳴らし、ハトの群れの中へと猛然とダッシュした。
「クルックゥゥゥッ!?」
「ハァァァッ! どきなさいの! それは私のお口に入る予定のフランスパンの端っこですのぉッ!」
驚き羽ばたくハトたちと、地べたを這いずり回ってパン屑を拾い集める絶世の美少女。
「お、おい嬢ちゃん! それはハトの餌だぞ!?」と止めるおじさんを他所に、リーザは信じられない動体視力と反射神経で、ハトが啄む寸前のパン屑を次々と奪い取っていく。
「おい、やめろ。人魚姫の尊厳が音を立てて崩れ落ちてるぞ」
坂上が思わず首根っこを掴んで引きずり戻すと、リーザは両手にいっぱいのパン屑を抱え、フンッと鼻息を荒くした。
「尊厳でご飯が食べられますかの!? このパン屑を集めて丸めてお湯でふやかせば、立派なお粥になりますの! 食費を浮かすための生存競争に、種族の壁なんて関係ありませんの!」
「……自衛隊のサバイバル訓練より過酷なことやってんな、お前」
イージス艦長として数多の修羅場を潜り抜けてきた坂上をして、彼女の『生きる執念』には一種の凄みすら感じざるを得なかった。
*
「サカガミ、次は急ぎますの! この時間のタイムロスは命取りですの!」
パン屑をジャージのポケットにねじ込んだリーザは、坂上の腕を引いて村の通りを走り出した。
到着したのは、青と白の看板が目印の万屋『タローソン・ポポロ支店』の裏口。
時刻はちょうど、朝の品出しが終わり、前日の消費期限切れの弁当が裏のゴミ箱に廃棄されるタイミングであった。
裏路地に到着したリーザは、スッと息を潜め、壁の裏に身を隠した。
坂上もそれに倣って身を隠すが、まるで敵地への潜入作戦のような緊張感が漂っている。
「……標的は、店長がたった今破棄した『ファングボアの焼肉弁当(半額シールの上から廃棄シール付き)』。だが、サカガミ、気をつけてくださいの。ここには、ポポロ村の裏社会を牛耳る『番人』がいますの」
「番人だと?」
リーザが指差した先。
裏口のゴミ箱の前に、一匹の薄汚れた巨大な野良犬が、牙を剥き出しにして低く唸り声を上げていた。魔獣の血が混ざっているのか、狼のように鋭い眼光でこちらを睨みつけている。
「グルルルルル……ッ!」
「……出ましたわね、ポチ太郎。だが、今日こそはあの焼肉弁当、私がいただきますの!」
リーザはジャージの袖をまくり上げ、野良犬の前に堂々と立ち塞がった。
少女と野良犬。弁当を巡る、荒野の決闘のような静寂が裏路地に降り下りる。
その光景を後ろから見守りながら、坂上は「……俺は休日の朝から何を見せられているんだ?」と深い疑問を抱きつつ、青い箱からハイライトを抜き出し、火をつけた。
「ワンウゥゥゥゥッ!!」
野良犬(ポチ太郎)が、鋭い牙を剥き出しにしてリーザの喉元へと飛びかかった。
並の人間なら怯んで逃げ出すほどの気迫と速度。
だが、過酷なルナミス帝国での地下アイドル生活を生き抜いてきたリーザは、一歩も退かなかった。
「……私の必殺技、とくと味わいなさいの!」
リーザはジャージのポケットから、キラリと光る真鍮の硬貨――ピカピカに磨き上げられた『五円玉』を取り出した。
そして、あろうことか、その五円玉を自分の『右の鼻の穴』にスポンッと詰めたのだ。
「……は?」
坂上の口から、ポロリとハイライトが落ちそうになる。
野良犬が空中で顎を開く、まさにその瞬間。
リーザは、左の鼻の穴を指でギュッと押さえ、腹式呼吸で腹の底から限界まで空気を吸い込んだ。
「ごえん(御縁)があって、ごめんなさいのぉぉぉぉぉッ!! ――フンッ!!」
ズパァァァァァァンッ!!
恐るべき肺活量と、鼻腔の圧縮圧力を利用した、超音速のコイン射出。
鼻の穴から弾き出された五円玉は、文字通り『黄金の弾丸』となって空気を切り裂き、飛びかかってきた野良犬の眉間にクリーンヒットした。
「キャイィィィィィィィィィンッ!?」
急所に謎の金属弾を撃ち込まれた野良犬は、空中で悲鳴を上げ、クルクルと錐揉み回転しながらゴミ箱の奥へと逃げ去っていった。
完全なる、一撃必殺の暗器術。
「ふんすっ! 勝者、リーザ・シーラン・リヴァイアサン! 焼肉弁当は私のものですの!」
リーザは得意げに鼻をこすりながら、ゴミ箱から廃棄弁当を拾い上げ、高々と掲げた。
「……お前、今の技なんだ。人間として色々と終わってないか?」
一部始終を目撃していた坂上が、呆れを通り越して感心したような顔で近づいてきた。
「『五円玉スナイプ』ですの! 路上ライブをしていて酔っ払いに絡まれた時、これで何人も撃退してきましたのよ! ちなみに、十円玉だと重すぎて飛距離が出ませんの」
「……投擲技術と流体力学の応用としてはAクラスだが、アイドルのやることじゃないな。鼻の穴が広がるぞ」
坂上は、埃まみれになった廃棄の焼肉弁当を嬉しそうに抱きしめているリーザを見て、小さくため息をついた。
そして、空いた左手で【PX】を操作し、自身の善行ポイントを消費した。
ポンッ、と。
坂上の左手に、湯気を立てるコンビニ袋が現れる。中には、地球の技術で作られた『特製幕の内弁当』と、『温かいお茶』のペットボトルが入っている。
「……えっ?」
リーザが不思議そうに首を傾げる。
坂上は、リーザの持っていた廃棄弁当を「腹を壊すからやめとけ」とヒョイと取り上げ、代わりにそのホカホカのコンビニ袋を彼女の胸に押し付けた。
「俺からの差し入れだ。朝飯のパンの耳じゃ、腹の足しにもならんかっただろう」
「あ、あの……! サカガミ、私は……っ」
「施しじゃない。これは、これからポポロ村の顔として働く未来のトップアイドルへの『パトロンの初期投資』だ」
坂上は、大人の余裕たっぷりにニヤリと笑った。
「パトロンの……初期投資……っ」
ホカホカの幕の内弁当の温もりが、リーザの手から全身へと伝わっていく。
これまでルナミス帝国で、誰からも見向きもされず、冷たいみかん箱の上でたった一人で強がってきた彼女にとって、その言葉と温もりは、何よりも心に染み渡るものだった。
「うぅぅっ……! サカガミィィィ! 貴方は神様ですのぉぉっ!」
リーザは幕の内弁当を抱きしめたまま、ボロ泣きしながら坂上の腰にギュッと抱きついた。
「私、絶対に絶対にトップアイドルになって、サカガミの投資を何百倍にもして返しますの! だから、これからもずっと私の一番のパトロンでいてくださいのぉぉっ!」
「はいはい。鼻水をつけるな。クリーニング代を天引きするぞ」
坂上は苦笑しながら、絶世の美少女(芋ジャージ)の青い髪をポンポンと無骨な手で撫でた。
逞しさと強欲さ、そして底抜けの生命力。
ポポロ村愚連隊に加わった新たな仲間は、五十歳の元海将の胃袋を掴む……のではなく、胃袋を掴まれるという形で、完全に彼に手懐けられようとしていた。
今日もポポロ村の朝は、騒がしくも温かく更けていくのであった。




