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EP 3

『美しき駿馬と、極上のブラッシング』

 ポポロ村に冬の足音が本格的に近づき、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた頃。

 自警団の兵舎の裏手にある、藁が敷き詰められたマンミアの私室から、深刻なため息が漏れていた。

「はぁ……。また、抜けてる……」

 生真面目なケンタウロスの騎士、マンミアは、手にした粗末な木製のブラシを見つめて肩を落とした。

 人間と馬のハイブリッドであるケンタウロス種にとって、季節の変わり目は深刻な『換毛期(毛の生え変わり)』を意味する。厳しい冬を越すために、下半身の馬体には密度の高い冬毛がびっしりと生え始めるのだが、その過程で古い毛が大量に抜け落ち、猛烈な痒みとフケを伴うのだ。

 彼女は毎朝、ブラッシングをして毛並みを整えようとするのだが、大きな馬体の背中やお尻のあたりには手が届きにくい。

 結果として、今の彼女の下半身は、古い毛がまばらに浮き上がった「ボサボサの毛玉」のような、極めて無様な状態になってしまっていた。

村長キャルルのように、小さくてフワフワした可愛らしいウサギならともかく……。二十五歳にもなって、こんな巨大でボサボサの軍馬なんて。……これじゃあ、殿方から女性として見てもらえる日など、一生来ないのでは……」

『赤と黒』をバイブルとする彼女の乙女心とコンプレックスは、換毛期のせいで現在最悪の数値を叩き出していた。

 届かない背中をブラシで無理やり掻こうとして、関節を痛めそうになった、その時。

「――おっと。そんな荒いブラシで力任せに擦ったら、皮膚が傷ついて余計に痒くなるぞ」

 ビクッ! と、マンミアの栗毛の耳が跳ね上がった。

 振り返ると、兵舎の入り口に、黒いロングコートを羽織った坂上真一が腕を組んで立っていた。彼の手には、日課のパトロール報告書が握られている。

「さ、坂上様!? い、いつからそこに……っ!」

「今来たところだ。今日のシフトの確認にな。……どうした、ひどく落ち込んでいるようだが」

 坂上が一歩踏み込んできた瞬間、マンミアはパニックを起こし、近くにあった大きな毛布をガバッと下半身に被せた。

「く、来ないでください! 見ないで……っ! 今の私、すごく見苦しいんです! 毛は抜けるし、ボサボサだし……とても、貴方様にお見せできるような姿では……っ」

 顔を真っ赤にして、涙目で懇願するマンミア。

 普段の勇ましい騎士の姿からは想像もつかないほど、その態度は『恋する乙女』のそれだった。

 だが。

 五十歳の元海将であり、練馬の元族総長でもある坂上真一は、そんなことで狼狽える男ではない。

 彼は小さくため息をつくと、静かに歩み寄り、マンミアが被っていた毛布をスッと取り払った。

「あっ……!」

「隠す必要はない。……なるほど、冬支度の換毛期か。手が届かなくて苦労していたんだな」

「うぅ……。こんな大きくて可愛げのない身体、幻滅しましたよね……」

 恥ずかしさで顔を覆うマンミアの頭に、ポンと、大きく温かい手が置かれた。

「馬鹿を言え。誇り高き戦士が、己の身体の変調を恥じるな」

 坂上は、普段の威厳ある声から、父親のような柔らかい広島弁へと口調を変えた。

「ええか、マンミア。武器の手入れと同じで、身体のメンテナンスも立派な任務(仕事)のうちじゃ。お前は俺の自慢の部下だ。部下の装備を最高の状態に保つのは、指揮官の当然の義務だろうが」

 そう言うと、坂上は空いた左手で虚空を操作した。

 脳内の【PX】スクリーンが展開し、善行ポイントが消費される。

 光と共に坂上の手に現れたのは、地球の最高級乗馬クラブや、競走馬の厩舎で使用されている『プロ仕様・馬用グルーミングセット』だった。

「後ろを向け。俺が手入れをしてやる」

「えっ!? そ、そんな! 総司令である坂上様に、私のブラッシングだなんて、畏れ多くて……!」

「いいから、黙って任せろ。俺は昔、愛車バイクをピカピカに磨き上げるのが生き甲斐でな。こういうメンテナンス作業は嫌いじゃない」

 強引だが、決して乱暴ではない。有無を言わせぬ大人のリーダーシップに気圧され、マンミアは大人しく後ろを向いた。

 坂上はコートを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げると、まず手にはめた『ラバーブラシ(ゴム製の櫛)』で、マンミアの馬体のマッサージを始めた。

「ひゃうっ……!?」

 円を描くように、適度な圧をかけて擦られる感覚。

 マンミアの口から、自分でも聞いたことのないような甘い声が漏れた。

 ゴムの摩擦が、自分では届かなかった背中や腰の強烈な痒みを的確に捉え、さらに浮き上がっていた古い冬毛をゴッソリと絡め取っていく。

「どうだ、痛くないか?」

「は、はいっ……。痛く、ありません。むしろ、すごく……その、気持ち、いい……です」

 背中を駆け抜ける未体験の快感に、マンミアの栗毛の尻尾が、意思とは無関係にブンブンと左右に振れ始めた。

(な、なんて的確で、優しい手つき……っ! 坂上様の手が、私の身体の隅々まで……ああっ、ダメ、変な声が出ちゃいそう……っ!)

 古い毛を取り除いた後、坂上は次に『天然豚毛のソフトブラシ』に持ち替えた。

 今度は、毛並みに沿って、シャッ、シャッとリズミカルに汚れを落としていく。坂上の動きは一切の無駄がなく、まるで『五輪の書』の剣筋のように洗練されていた。

 そして仕上げに、PXで取り寄せた『高級ボタニカル・トリートメントスプレー』を吹きかけ、柔らかい布で全体を磨き上げ始めた。

 ふわりと、地球のラベンダーとハーブの極上の香りが兵舎に広がる。

「すごい……。こんなに良い香り、嗅いだことがありません……」

 マンミアは、あまりの心地よさに膝の力が抜けそうになりながら、うっとりと呟いた。

「俺の故郷の、特別なオイルだ。保湿効果もあって、これで冬の乾燥も防げる。……それにしても、見事な毛並みだな」

 坂上は、トリートメントを塗り込みながら、マンミアの強靭な後ろ脚の筋肉の隆起をポンと軽く叩いた。

「村長のキャルルみたいな小動物も悪くないが、俺はこういう、機能美を極めた重厚な身体も好きだぜ」

「……っ!?」

 マンミアの心臓が、ドキンッと大きく跳ねた。

「でも……私、二十五歳にもなって、こんな戦馬のような身体で……。可愛げなんて、欠片も……」

「まだそんなことを言っているのか」

 坂上は苦笑し、マンミアの耳元で、低く、熱を帯びたバリトンボイスで囁いた。

「あの機装狂竜キメラ・ドラゴンとの戦い。この強靭な脚と、お前の圧倒的な馬力がなければ、村は火の海になっていた。……俺から見れば、誰かを護るために鍛え上げられたお前のその身体は、世界中のどんな宝石よりも、美しく、誇り高い」

 ――ドゴォォォォンッ!!

 マンミアの脳内で、致死量のロマンチック・エクスプロージョンが爆発した。

 自分にとって最大のコンプレックスであった『大きな馬体』と『二十五歳という年齢』。それを、愛する男が真正面から肯定し、「世界で一番美しい」と断言してくれたのだ。

 最高級のブラッシングによる物理的な快感と、雄のフェロモン全開の甘い言葉。

 そのダブルパンチを受け、生真面目な騎士の思考回路は完全にメルトダウンを起こした。

「さか……がみ……さま……っ」

 マンミアは顔を茹でダコのように真っ赤にし、瞳をグルグルと回しながら、前脚をカクンと折ってその場にへたり込んでしまった。

「私の、背中……坂上様なら……いつでも、ずっと、乗って……ひゃんっ」

 口から魂が抜けかけたような顔で、完全に『メス』の表情になって荒い息を吐いている。

「ん? どうしたマンミア、貧血か? まだ尻尾のブラッシングが残っているぞ」

 坂上が不思議そうに首を傾げた、その時だった。

「――サァァカァァガァァミィィィ!!?」

 バンッ! と兵舎の扉が吹き飛び、朝のパトロールから戻ってきたキャルルが飛び込んできた。

 彼女の視線の先には、シャツの袖をまくり上げて色気を垂れ流す坂上と、ツヤツヤのピカピカに磨き上げられ、匂い立つようなハーブの香りを漂わせながら、だらしなくへたり込んでいるマンミアの姿。

「な、ななな、何してんのよあんたら! サカガミ! あんた、なんでマンミアの下半身撫で回してんのよ!」

 キャルルのウサギの耳が、怒りと嫉妬でピンと垂直に逆立っている。

「ん? ああ、キャルルか。なに、ただの装備のメンテナンスだ。このPXのトリートメント、なかなか優秀だぞ。マンミアの毛並みが、まるで高級車の塗装みたいに仕上がったからな」

 坂上は、至極真面目な顔でスプレーボトルを掲げてみせた。

 事実、マンミアの栗毛の馬体は、窓から差し込む朝日に照らされ、まるで鏡面のように美しく輝いている。

「メンテナンスって……っ! ちょっとマンミア! あんた、顔真っ赤にして何トロけた顔してんのよ! サカガミは私のなんだからね! 抜け駆けは許さないわよッ!」

「あぁん……坂上様……私の、手綱を……」

「こいつ完全にイッちゃってるじゃないの! サカガミの馬鹿タラシ! 私の耳もブラッシングしなさいよぉぉッ!」

 キャルルがポカポカと坂上の胸を叩き、マンミアは幸せそうに床を転げ回っている。

 そんな騒がしい朝の兵舎で、坂上真一はやれやれと肩をすくめ、青い箱からハイライトを一本抜き出した。

 カチャリ、と銀のライターで火をつける。

(……まあ、部下の士気が上がったのなら、良しとするか)

 紫煙を燻らせながら、どこまでもマイペースな五十歳は、今日も無自覚に異世界の少女たちの心を狂わせていくのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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