第三章⑫
ユウが淹れた珈琲を飲んだ後、センリはお風呂に入った。途中で響く声でジンロウを呼んで背中を洗わせた。ジンロウはセンリの背中を洗って顔を真っ赤にして出て来た。ジンロウは以前は、センリの背中を流す役目があった。そういえば、いつも顔を真っ赤にして風呂場から出て来たっけ。別にいやらしいことはしていないんだと思うんだけど、なんだか疲れた風になって、顔を真っ赤にして戻ってくるんだ。
ああ、
でも、
背中を流すのっていやらしいことかもしれないってユウは思った。
ジンロウはユウと距離を開けてソファの端に座った。
そして大きく溜息を吐いた。「……はあ、一体何なんだよ」
ユウは首だけ捻ってジンロウの方をじーっと見た。「背中を流すっていやらしいこと?」
「……これって、何のキャラクタ?」ジンロウはユウの質問を無視して、テーブルの上に忽然とおかれた三毛猫のぬいぐるみを手にして言った。
背中にかざぐるまが突き刺さっている、謎の三毛猫のぬいぐるみ。
それはセンリのお土産だった。それはユウに、ではなくてジンロウへのお土産だった。センリの巨大なヴィトンのボストンバッグの奥で荷物に押し潰れていた、かざぐるまが背中に刺さった三毛猫のぬいぐるみの名前をユウは知らない。
「知らないよ、かざぐるま猫とか? 中国のキャラクタなんだから、多分、名前なんてないんじゃない?」
センリからユウへのお土産は、中国製の花火のセットだった。それはソファの横に置いてある。透明のビニール製の袋の中にいろんな花火がギュウギュウに詰め込まれていた。中国製の花火なのできっとクレイジィな破裂をするだろうから、ユウはこれで遊ぶ気はないんだけれど、花火の外装に施された中国的な毒々しい原色満載のデザインは見ていて楽しいものだ。
とにかく、このお土産から察するにセンリは中国に行っていたようなのだ。
どうして中国に行ったのか、その理由はまだ聞いていないけれど、絶対に聞かなくちゃいけないと思う。聞かなきゃ気が済まない、というものだ。
「結構可愛いよな」
「え?」
「いや、」ジンロウは猫のぬいぐるみと見つめ合っている。「これ、可愛いよな」
「微妙、」ユウは即答した。「キティちゃんの方が可愛い」
「人間と猫を比べちゃ、こいつが可哀想だぜ」
「違うよ、キティじゃなくって、キティ・ローリングじゃなくって、猫のキティちゃんのことだよ、キティ・ローリングとその猫は比べないって」
「ああ、そっか」
「そうだよ、のぼせてんじゃないよ」
「でもこいつには素朴な可愛さがあるよな」
「素朴ってなんなのさ?」
「大陸の方の、乾燥した風土の、ホライゾン、みたいな?」
「何言ってんの?」
「戯言だ、」ジンロウは鼻を擦って言う。「気にするな」
そして不思議なことが起こった。
それに気付いた。
いつから?
今からだった?
猫のぬいぐるみの背中に刺さったかざぐるまがゆっくりと回転していたのだ。
風もないのに、回っているんだ。
扇風機はさっきからどうでもいい方向の空気を掻き混ぜていた。
この世に説明出来ないことはないのだけれど。
不思議なことだとユウは思った。
「……それ、どうして回ってんの?」
「さあ、」ジンロウは僅かに首を傾げただけ。「何かあるんだろう、仕掛けが」
「ああ、その猫の中にモータみたいなものがあるんだ、でも、中国製にしては凝ってるね」
「どうだろう? もしくは、センリの縁術か」
言ってジンロウは猫を片手で持って耳の近くで小さく揺らした。
そして。
何かが分かった目をして。
しばらく考え込む素振りを見せて。
回転するかざぐるまのセロファンの羽をぐしゃりと掴んで猫の背中からかざぐるまを引き抜いた。
一瞬の出来事。
「何してんの!」
ユウはジンロウの行動に驚いて声を上げた。いくらぬいぐるみだとはいえ、乱暴すぎると思ったんだ。「抜いちゃった!」
「痛そうだったから」
ジンロウは唇の端を持ち上げて冗談を言って、小さく笑い、かざぐるまを捨てた。
「抜いたほうが痛いでしょ!」ユウは言ってから、訳の分からないことを言ってしまったと気付く。でもなんだろう、それって多分、心の声だ。「僕は抜いたほうが痛いと思います!」
そのタイミングでセンリがお風呂場から戻って来た。濡れた髪を白いバスタオルで拭きながら、風雅にハミングなんてしながらキッチンに入り、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出して一気に飲んで口元を白くしてリビングに戻って来た。
「センリちゃん、」ユウは振り返ってセンリに訴える。「ジンロウってば、抜いちゃったんだよぉ、酷いよね」
「え、抜いたって?」センリはユウとジンロウの間に座った。センリからシャンプのいい匂いがする。「私で?」
「ちげーよ、」ジンロウは向こうを向いて、何かを否定した。「センリでなんて、抜かねーよ、ちげーよ」
「ホントかよ」センリはニッと笑ってジンロウの背中を軽く叩いた。
「違うよ、猫のぬいぐるみのかざぐるまだよ、」ユウはセンリを振り向かせて言う。「ほら、猫の背中にかざぐるまがないでしょ? 今さっき、ぎゅっと掴んで抜いたんだよ、酷いよね」
「ああ、なんだ、」センリはどうでもよさそうに頷いた。「かざぐるまのことか、かざぐるまのことね」
「酷いでしょ」
「酷いかな?」
「酷いよ」
「もう帰るよ」
「ふえ?」ユウの口から掠れた声が漏れた。「帰っちゃうの? どこに?」
センリは無言でニッとユウに笑いかけて頭を触って立ち上がる。
「どこに帰るの?」ユウは強く、聞いた。
「そろそろ錦景市は夜の九時、フーミンもそろそろ帰ってくるんでない? ライブに行っているんだっけ? 帰ってくるならそれぐらいの時間だよね、それにライブの後ならチカリコも一緒に帰ってくる可能性が高い、一人だとライブで高まった熱を吐き出すのに不自由だからきっとフミカの部屋に来る、だから私は帰る」
「帰らないでよ、ちーちゃんが来るまで待って、」ユウはセンリのTシャツの裾をぎゅっと掴んで言った。「ちーちゃんに謝って、急にいなくなってことを謝ってよ!」
「殴られるのは嫌なんだ、」センリは困った顔を作って見せる。「チカリコはきっと、私のことを殴る、私はまだ、とってもバイオレンスなお姫様のバイオレンスを受け止められるだけの女になってない、今はまだね、受け止められるようになったらちゃんとチカリコに会うよ、でも今はまだ駄目なんだ、その時期じゃない、今日帰って来たのは、そのぬいぐるみをジンロウに渡すため、それだけ」
「ありがとな、」ジンロウはぬいぐるみの猫を膝の上に乗せて撫でている。「有難く貰っておく」
「おう」センリは軽く返事をする。
「そんなに気に入ったの?」ユウはジンロウを睨む。「っていうか、センリちゃん、帰っちゃうんだよ、それでいいの?」
「ああ」ジンロウは即答する。
「なんで!?」ユウは声を張り上げる。「なんでだよ!」
「それじゃあ、バイバイ」センリはジンロウに向かって手を振る。
「ああ、」ジンロウはセンリを見て手を持ち上げた。「さよなら」
「ユウちゃんも、バイバイ、ご飯おいしかったよ、ごちそうさまでした、」センリはユウをそっと軽く抱きしめて、そして横に押し退けて、ヴィトンのボストンバッグを持って玄関に向かった。「さようなら」
「莫迦」ユウはセンリの背中に言った。
扉を開けて外に出て行くまで言い続けた。「センリちゃんの莫迦! くそったれ! 地獄に堕ちろ! 最低! 変態! ロリコン! くそ女! ああ、もぉ、莫迦、莫迦、莫迦、莫迦っ!」




