第三章⑪
錦景市の夜の八時。
枕木邸のインターホンのボタンを押して鳴らした女の名前は引田センリ。彼女はジャパニーズ・シークレット・アフェアの元ボーカリストで、以前は枕木邸に住んでいた。二階のシノブの部屋に、春の直前まで住んでいたのがセンリだった。彼女も縁術師。縁術師で、枕木ジンロウ、フミカ、ユウ、中島シノブや踊り子たち、白拍子の三人と同じように、お姫様の松平チカリコに忠誠を誓っていた女だった。
そんなセンリは春の直前に旅に出ると言って錦景市から姿を消した。それはほとんど失踪に近かった。チカリコの命令を無視して、錦景市から旅立ったのだ。センリがどこに行ったのか誰も知らなかった。連絡も取れなくて彼女が日本にいるのか、それとも海外にいるのか、生きているのか、死んでいるのか、全く分からなかった。まあ、センリが死んだ、とは皆心配しなかったんだけど。センリはそういうキャラクタだ。例え死んでも、きっと生きているって思える女だ。とにかくセンリがそんな風に姿を消してしまったから、チカリコは新しくボーカリストを探さなくちゃならなくなったのだ。センリの部屋がシノブの部屋になったのだ。
今はあの部屋は紛れもなくシノブの部屋。
センリは今更ひょっこり姿を見せて。
なんのつもりだろう?
ユウはセンリのエキゾチックな顔立ちをじっと見つめながら考える。
帰ってきたのだろうか?
まだユウとジンロウは、センリにお帰りなさい、とは言ってない。
それより先に、言わなくちゃいけないことがある。
怒らなくちゃいけないことがある。
センリの消失は。
実質の縁切りだった。
縁切りとは、そのほとんどが悲しいもの。
上手く忘れられればいいのだけれど。
でもそのほとんどと同じように。
チカリコは悲しんで。
笑顔で、
奇妙な声を上げて泣いたんだ。
どれだけチカリコが悲しんで泣いたか、センリに教えて上げなくちゃいけない。
姫様の悲しみを。
この女に思い知らせてやらなくっちゃ。
旅立ったことを。。
僕はセンリちゃんに後悔してもらいたいんです。
僕も女なので。
そういうねちっこい部分があるんです。
「ごちそうさまぁ、」センリはユウが即席で作って上げたご飯を平らげて言った。「ああ、やっぱりユウちゃんのご飯はおいしいなぁ」
センリは腹ペコだったみたいで、失踪の理由を説明するよりも先に、ユウにご飯をねだった。「そんなことより、センリちゃん!」とユウが失踪の理由を尋ねても、ご飯を食べてから、と何も教えてくれなかった。春の手前となんら変わっていない、という風にセンリは装いご飯をねだったのだ。
ユウはセンリが。
センリだったから。
そのままだったから。
もちろん、外見に変化がまるでない、ということはなくって、髪が伸びて毛先は捻れてうねって、少し痩せて頬にうっすら陰が出来て、エキゾチックを増しているんだけれど。
とにかくセンリがセンリだったので。
嬉しかったんです。
だって。
ユウはシノブのことと同じくくらい。
センリのことを気に入っていたので。
凄く好きだったから。
凄く好きだったので。
怒るのも、可哀想だ、なんて思って。
甘やかしてしまったんです。
思えばそれが間違いだった。
会った瞬間に、チカリコの哀しみを強く握り締めた情熱的なストレートをぶち込んでやればよかった。
ユウの怒りはセンリが傍にいる時間に比例して。
消えていく。
目の前から消えて。
丸くなって足元に転がった。
爪先で押し蹴れば、もうなくなってしまいそうな怒りになった。
「珈琲淹れてくれる?」センリはユウに頼んだ。いつもユウは、食事の後はセンリに珈琲を淹れてあげていた。その調子でセンリは言ったんだ。「・・・・・・どうしたの?」
ユウは。対面でセンリのことをぼうっと眺めていた。ユウの反応が鈍かったからだろう、センリはその大きな目で顔を覗き込んできた。「なぁに、ユウちゃんってば、私に再会出来た嬉しさに言葉を失っているって感じ?」
「黙れ、」ユウは口を尖らせて言ってセンリの櫛が入っていなさそうな頭に触れて、手を乱暴に動かしてくしゃくしゃにして立ち上がる。センリの髪は油っぽくって、汗の匂いがした。センリの汗の匂いって、凄く懐かしい。「いいよ、珈琲淹れてあげる」
「へへへっ、」センリが笑って白い歯を見せる。「ありがと」
そしてセンリはキッチンに向かうために彼女の横を通過したユウのお尻を触った。
触った、というか、強く叩いた。
「ひゃん!」思わず声が出た。
叩かれたお尻を両手で押さえて。
なぜかすっごく。
顔が熱くなった。
ユウは振り返ってセンリをキッと睨みつける。「何すんだ!」
「えへへっ」
センリは笑っている。
凄く魅力的な笑顔だ。
センリはよく笑う女。
そしてとっても感情的な女なんだ。




