新しい靴 -透-
送ってしまった文字を、長押しする。
『でも、そのぶんだけ怖い』
取り消すか悩んでいる間に、既読がついた。
指を離す。
楽しみ、とだけ伝えておけばよかった。
誘ってくれた人に、何を言わせたいのだろう。
画面の上に、新しい文字が増えた。
『駅まで迎えに行く』
『何時がいい?』
怖い理由は、聞かれなかった。
『二時でもいい?』
『わかった』
短い返事の下で、入力欄が空いたままになっている。
理由を聞かれていたら、きっと困った。
それなのに、会話がそこで終わると、少しだけ物足りなかった。
何か書こうとして、やめる。
迎えに来てくれるという一文を、もう一度読んだ。
◆◆◆◆◆
土曜日の朝。
目を覚まして、食事を済ませる。
それが終わると、ベッドに座ったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
白くて、何もない。
いつも通りの、私の部屋の天井。
スマートフォンを手に取る。
待ち合わせの時間までは、まだずいぶん余裕があった。
氷室君の家に行く。
学校でも、駅でも、神社でもなくて。
氷室君が朝起きて、ご飯を食べて、ゲームをして、眠る場所。
そこに、私が行く。
画面を消して、膝の上に置く。
すぐに、もう一度時間を確かめた。
「……準備しよう」
声に出して、立ち上がる。
シャワーを浴びて、髪を乾かす。
ドライヤーの音が止まると、部屋に静けさが戻ってきた。
服を選ぶ。
派手すぎないもの。
地味すぎないもの。
失礼にならないもの。
でも、頑張りすぎていると思われないもの。
そんな条件を並べていくと、着られる服がどんどん減っていく。
一度選んだブラウスを、身体の前に当てる。
おかしくはない。
誰かの家へ行く服として、困るところもないはずだった。
それでも、氷室君がこれを見たらどう思うだろうと考えると、決められなくなる。
いつもと違うと、気づくだろうか。
そこまで考えて、ブラウスを少し下ろした。
気づいてほしいのかもしれない。
でも、気づかれたら、どんな顔をすればいいのだろう。
どちらを望まれているのか、確かめる方法がない。
確かめられないまま選ぶのは、初めてだった。
結局、最初に選んだ薄いブラウスにした。
スカートは落ち着いた色にする。
鏡の前に立ち、髪を梳かす。
肩から背中へ、まっすぐ落ちる黒髪。
櫛を通して、毛先を整える。
結ぼうかと迷って、やめた。
髪まで変えてしまうと、落ち着かない気がした。
玄関へ向かう。
並んだ靴の前で、足を止めた。
ローファー。
スニーカー。
それから、買ったばかりのパンプス。
制服には合わせにくいけれど、今日の服にはたぶん合う。
新しい靴を履いていく必要は、きっとない。
途中で靴擦れして、歩き方がおかしくなるかもしれない。
それでも、今日はこれを履きたかった。
理由は、わからない。
わからないまま決めることを、普通、と呼ぶのかもしれない。
足を入れると、甲のあたりが慣れない形に包まれる。
玄関で何度か足を動かしてから、鍵を手に取った。
「……行ってきます」
返ってこない挨拶を呟いて、扉を開いた。
◆◆◆◆◆
駅には、予定より早く着いた。
電車のドアが開き、人の流れがホームへ出ていく。
それを見送ってから、私も一歩遅れて降りた。
≪うわ、めっちゃ美人≫
≪大学生かな≫
≪足細っ。いいなぁ≫
視線を足元へ落とし、階段を上がる。
改札を抜けて時計を見ると、一時四十分だった。
待ち合わせには、まだ早い。
人の少ない場所を探しながら、鞄に触れる。
スマートフォンを取り出そうとした。
見ているふりをしようとした。
けれど、その前に声がかかった。
「こんにちは、蓮見さん」
顔を上げる。
柱のそばから、氷室君がこちらへ歩いてくるところだった。
「……氷室君?」
もう一度、時計を見る。
時間は、やっぱりまだ先だった。
「今日は、早いんだね」
「まぁね」
その姿は、いつもの氷室君とは違って見えた。
寝癖がない。
服もきちんとしている。
目元も、学校で見る朝より眠たげではない。
見ていたことに気づかれそうで、鞄の持ち手へ目を落とした。
「……今日はよろしくね。氷室君」
「ああ」
短い挨拶に、口元が緩む。
「行くか」
「うん」
隣から聞こえる足音。
休日の駅のざわめきの中で、その音を追いながら歩き出した。
◆◆◆◆◆
大通りを離れると、人の声が減った。
途中で、氷室君の視線が私の足元に落ちる。
「新しい靴?」
「……わかる?」
「なんとなく」
私はパンプスのつま先を見た。
「変かな」
「いや」
氷室君は、一拍置いてから言った。
「似合ってる」
つま先から、顔を上げられなくなる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
隣の足音は、そのまま続いた。
そっと横を見る。
氷室君はもう、前を向いていた。
何か返したかった。
寝癖がないね、では違う気がして、口を閉じる。
「……ここから、どれくらいかかるの?」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。
「歩いて五分くらいかな。そんな遠くない」
パンプスの底が、舗装された道を軽く叩く。
聞き慣れない自分の足音に、氷室君の足音が重なる。
一歩。
また一歩。
氷室君の歩幅は、いつもより短かった。
私が道の継ぎ目を避けて少し遅れても、次の一歩でまた隣に並べる。
何も言わず、その速さで歩いてくれた。
道を折れて、住宅街に入る。
風が通るたび、庭木の葉が揺れた。
六月の日差しは明るく、空気には少し湿り気があった。
首筋にかかった髪を、指で払う。
「緊張してる?」
不意に聞かれて、私は瞬きをした。
「……してる、かな」
大丈夫、と付け足しかけてやめる。
氷室君は小さく頷いた。
「別に、ただ来て、帰るだけだ」
「本当に?」
「たぶん大丈夫」
「そこは言い切ってほしかったかも」
「じゃあ、たぶん」
「そっちじゃないよ」
思わず笑ってしまった。
氷室君の口元も、少し上がる。
いつの間にか、足元を確かめずに歩いていた。
◆◆◆◆◆
氷室君の家は、通りから少し入ったところにあった。
玄関先に並んだ鉢植え。
窓の内側で、少しだけ開いたカーテン。
二階の窓を見上げる。
あの向こうで、本を読んだのだろうか。
眠いと送ってきた時も、最後まで読んだ時も。
「ここ?」
「そう」
門を通り、玄関へ向かう。
氷室君が鍵を取り出して、回した。
かちゃり、と音がする。
同時に、扉の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
「ようこそいらっしゃいました。妹の早希です」
扉が開くと、玄関の真ん中に女の子が立っていた。
肩のあたりで揺れる髪。
大きな目。
明るい色の部屋着。
「いや、俺だけど」
「なんだ、お兄ちゃんか。邪魔だから早くどいて」
「いや、お前が邪魔なんだけど。入れないじゃん」
「いいから! ほら、初めが肝心でしょ?」
氷室君が半分呆れた顔で横にずれる。
その後ろから、私が一歩前に出た。
ひんやりした空気が頬に触れる。
洗剤の匂いが、かすかにした。
早希ちゃんは、私を見るなり目を見開いた。
「ようこそいらっしゃ……えっ!? すごい綺麗っ!! え? お兄ちゃん、どうやって知り合ったの!?」
私と氷室君を、交互に見る。
≪すごい綺麗っ! どうしようっ。聞いてないっ≫
静かではない。
むしろ、近い。
大きくて、勢いがあって、思わず身体が一歩引きそうになる。
それでも、向けられた笑顔から目を逸らさずにいられた。
「あの……氷室君のクラスメイトの蓮見透です。よろしくね」
「うわっ、声も綺麗!」
「え、えっと……」
言い終わるより早く、早希ちゃんが両手で私の手を包んだ。
温かい手だった。
そのまま固まっていると、氷室君が早希ちゃんの肩を掴んで、私から少し引き離した。
「距離が近い」
「あ、ごめん。びっくりしすぎた」
私の手から、早希ちゃんの指が離れる。
氷室君は肩に手を置いたまま、こちらを見た。
「大丈夫か?」
「うん。少し、びっくりしただけ」
私が頷くのを確かめてから、氷室君は手を離した。
早希ちゃんが、改めて背筋を伸ばす。
「氷室早希です。中二です。お兄ちゃんの妹です。末永くよろしくお願いします」
深々と頭を下げる。
顔を上げる前に、弾むような声が届いた。
≪末永く! これ大事! お姉ちゃん候補っ!≫
お姉ちゃん候補。
隣の氷室君を見そうになって、慌てて早希ちゃんへ目を戻す。
「……こちらこそ。末永く? よろしくね」
「やった! ついにお姉ちゃんが我が家に来た!」
「来てない」
「来たよ」
「来てない」
「来たの」
早希ちゃんは、氷室君の言葉など聞いていないみたいに、私を見上げた。
「ねぇ、透ちゃんって呼んでもいい?」
「……いいよ。私も早希ちゃんって呼ぶね」
「えへへ。やったね」
声が聞こえるたびに身構えていた肩から、少しずつ力が抜けていく。
「悪いな、蓮見さん。うちの妹がうるさくて」
「うるさくないもん」
「うるさいだろ」
「うるさくないよね。透ちゃん? ね?」
返事を待つ顔が、また少し近づいた。
「ふふっ。少し、賑やかかも」
「ほらな」
「まだ、少しだもん」
早希ちゃんが唇を尖らせる。
その顔に、今度は声を出して笑ってしまった。
氷室君は小さくため息をつき、玄関へ上がった。
「とりあえず、上がって」
早希ちゃんも横へ寄る。
空いた場所には、スリッパが並んでいた。
廊下の奥で、食器の触れ合う音がする。
この先には、まだ会ったことのない人がいる。
鞄の持ち手を、一度握り直した。
「……お邪魔します」
パンプスを脱ぐ。
振り返って、二つのつま先を揃える。
顔を上げると、二人が話しながら待っていた。
「綺麗系だったね」
「どっちでもいいだろ。そんなこと」
「えー、大事でしょ。心臓止まるかと思った」
早希ちゃんが、氷室君の腕を肘でつつく。
≪雑には扱いたくないとか、お兄ちゃんってほんと言葉のセンスないよね≫
スリッパへ足を入れかけて、止まった。
氷室君の顔を見る。
私の視線に気づいて、少しだけ首が傾いた。
「どうした?」
「……ううん」
足元へ目を戻す。
揃っていたスリッパの片方が、少し斜めになっていた。
履き直して、二人の隣へ上がる。
私が知らない会話。
雑には、扱いたくない。
先に歩き出した氷室君を、もう一度見た。
どんな顔で、私のことをそう言ったのだろう。




