第5話 「秋」という字
夕暮れの路地に、煙草の匂いが混じっていた。日中の熱がまだ砂利道に残っていた。
帰り道、ハルはほとんど喋らなかった。秋幸も喋らなかった。橋を渡ってから二人の間に言葉はなく、ただ並んで歩いた。路地の奥でどこかの扉が閉まる音が聞こえる。着流しの男がすれ違い、秋幸の顔を一度見て、通り過ぎていく。猫が塀の上から二人を見下ろして、そのまま消えていく。
「わかりました」という言葉の意味を、秋幸はまだ整理できていなかった。
信じてもらえた、と思っていいのか。「続きを聞く覚悟が、まだない」とハルは言い、それから「わかりました」と言った。何がわかったのか。何を受け取ったのか。
ハルの背中は何も言わない。ただ足取りが行きより僅かに緩い。
角を折れたとき、灯りが見えた。
ハルの家の格子戸の隙間から、細く光が漏れている。
「兄が戻っているようです」
ハルそれだけ言って、格子戸を引いた。
土間に草履が一足あった。男物で、底が厚く、泥がついていた。秋幸は靴を脱いで、草履の横に並べた。ハルは先に上がって奥に消えた。
部屋に入ると、行灯が二つ点いていた。その光の中に、男が一人座っていた。軸の太い男だった。特別に背が高いわけではない。ただ体の中心が太い。肩から腕にかけて、着物の上からでもその密度が窺える。三十前後だろうか。顎に無精髭が薄く見えた。手元に薄い刷り物を広げていたが、秋幸が入ってきた瞬間、静かに顔を上げた。
ハルに似た目だ。違う部分を探した方が早い。目の形も色も、向けてくる視線の鋭さも、全部ハルと同じだ。ただ一つだけ、違うことがあった。ハルの目は時に何かを確かめる。この男の目は、最初から確かめ終わっている。そういう目だ。
「兄です」
ハルが言った。
「田村巌だ」
「田村秋助と申します」
男は頷いた。
「ほう」
それだけだった。
食事の支度をハルがしている間、秋幸は部屋の隅に座った。巌は刷り物を読んでいた。秋幸はその刷り物の文字を端から眺めた。活版印刷の、細かい字が詰まっている。「労働」という字が見えた。「搾取」という字が見えた。「帝国」という字も見える。印刷所の壁に貼られていたものと、同じ種類のものだ、と秋幸は思った。
ハルが朝、迷いなく印刷所の引き戸を引いたのは、この兄、巌の縁だろう。その刷り物にあった幸徳秋水という名前とも……と、そこまで考えて秋幸は止めた。今は聞く立場にない。この男が何者なのかを問える立場に、自分はまだない。
ハルが食事を運び、三人で食べた。会話はない。茶碗の音と、外から聞こえる水の跳ねる音だけがある。雨が降り始めたのかもしれない。
巌が最初に口を開いたのは、食事が終わった後だった。
「どちらからおいでか」
「土佐です」
「ほう……だが、訛りがないが」
「東京に縁がありまして」
「そうか」
それだけで、巌はまた黙った。打ち切られた感じはなかった。むしろ、答えを内側で確かめている時間のような沈黙だった。この男は聞き終わった後に、もう一度だけ考える。そういう習慣があるように見えた。
「秋助、と言ったか」
「はい」
「秋の字は、四季の秋か」
秋幸は顔を上げた。巌は刷り物に目を落としたまま言っていた。こちらを見ていない。
「はい。四季の、秋です」
巌は何も言わなかった。ただ刷り物をめくる手が、わずかに止まった。一秒もなかったかもしれない。止まって、また動いた。何を意味するのかはわからなかった。ただ、止まったことは確かだった。
そのとき、ハルが立ち上がりかけて、止まった。
秋幸はハルを見た。
ハルも秋幸を見ていた。秋幸を見て、巌を見て、また秋幸を見ていた。立つでも座るでもなく、中途半端な姿勢のまま、動きが止まっている。茶碗を両手で持ったまま。行灯の光の中に、その顔があった。
ハルの顔から、表情が消えていた。
怒っているわけでも、驚いているわけでも、泣きそうなわけでもない。顔から表情が消えていた。怒るでも驚くでもなく、動くものが全部、一斉に止まっていた。そういう顔を、秋幸は見たことがなかった。
何が起きているのか、わからなかった。
「ハル」と巌が言った。
ハルが息を吸った。聞こえるほどの深い呼吸だった。それから茶碗を持ったまま立ち上がり、普通に奥へ向かった。その背中だけが少し、こわばっていた。
巌は刷り物に戻った。秋幸は何も言えなかった。ハルが動きを止めた数秒間が、まだ目の前に残っていた。その数秒だけが、行灯の炎の形とともに、胸の前に留まり続けた。
少し経ってハルが戻ってきた。何事もなかったように座った。顔にはもう、何も残っていない。縫い物を出してきた。針が糸を引く音が、行灯の炎の揺れに混じった。巌は刷り物を読み続けた。雨の音が少し大きくなった。
「明日」と巌が言ったのは、それからしばらく経ってからだった。
「人と会う。新橋の方で」
ハルは手を動かしたまま頷いた。
「どのような方と」
「縁のある方が集まる場がある」
巌は刷り物から目を離して、初めて秋幸に正面から視線を向けた。
「秋助、お前も来るか」
「私が、ですか」
「強制ではない。来ても構わないという意味だ。ただ見ておいて損はないと思う」
秋幸は答えを探した。なぜ誘うのか。この男が理由を言わずに誘うのはなぜか。何を確かめようとしているのか。
「はい、ご一緒させてください」
巌は頷き、目を刷り物に戻した。
秋幸はその横顔を見た。行灯の光が頬骨に影を作っている。ハルと同じ影の落ち方だ。けれど全く別の顔だった。それなのに、この男の目が自分に向く角度が、どこかに引っかかった。なぜか秋幸には、この男の所作が既知のものに見えた。見たことがないのに、知っている。それがどこからくる錯覚なのかを、秋幸はまだ知らない。
その夜、秋幸はまた眠れなかった。
ハルが動きを止めた瞬間のことを、何度も思い返した。何を見たのか。何に気づいたのか。茶碗を持ったまま固まったあの数秒間に、何があったのか。そして「あなたの顔が」という言葉が、また頭の端に引っかかった。誰に似ているのか。ハルはなぜ、それを言えないのか。
天井の梁を見上げた。隣の部屋から、巌の静かな寝息が漏れてきた。揺らがない、深い呼吸だった。
秋幸は目を閉じた。答えはまだどこにもないまま、明日が来るだけだった。
(第5話 了)




