第6話 二つの時代と一つの熱狂
目が覚めると、部屋に白い光が差していた。
屋根の向こうから鳥の声。遠く荷車の音が続いていて、それで朝だとわかった。隣の部屋からはすでに巌の気配が消えている。
土間に下りると、巌の草履があった。泥のついた底が昨夜と同じ向きで揃っている。
「起きたか」
振り返ると、巌が部屋の入り口に立っていた。着流しをきちんと整えて、表情は昨夜と変わらない。
「行けるか」
巌は土間から秋幸を見てそう言った。答えを待つ顔ではなかった。
土間に下りると、ハルが新聞を持って立っていた。何も言わずに、秋幸に差し出した。
見出しを読んだ。
「陸軍大将 児玉源太郎閣下、急逝 脳溢血による突然の薨去、享年五十四」
秋幸は顔を上げた。ハルはこちらを見ていた。橋の上でもこうだった。動かない目だった。ただ今日は、その目の中に何か別のものが混じっていた。怖れに近い、しかし怖れとも違う何かだった。
「新聞に……出ました」
それだけ言って、ハルは新聞を秋幸の手に残したまま、玄関の方へ向いた。ハルは玄関まで出てきて「気をつけて」と言った。
路地に出ると、すでに人が動いていた。荷を担いだ男が通り、豆腐を売る声が遠くから流れてくる。昨夜の雨の跡が砂利の隙間に残っていた。
しばらく歩いたとき、角の手前に新聞の売り子がいた。秋幸は立ち止まった。
一面の見出しは大きく太い。「南満洲鉄道株式会社、秋に正式設立へ——後藤新平を総裁に内定、大陸経営いよいよ本格化」。活字が紙面の上半分を占領していた。しかしその下、ほとんど欄外に追いやられるように小さな囲み記事がある。目を凝らすと読めた。「戦時外債利払い、本年も繰越——大蔵省、詳細は差し控える」。
大きい字と小さい字。前に出ているものと、隅に押し込まれているもの。
南満洲鉄道の設立の一方、日露戦争の戦費として借りた外債の利払いが「詳細は差し控える」で処理されている。二つの記事が同じ紙面にあって、しかし字の大きさが全然違う。
秋幸は紙面を見ながら、指先が動いた。右の親指が、空中で下になぞった。習慣だった。スマートフォンで記事を読む時の、スクロールの動き。親指は何もない空気を一センチほど動いて、止まった。
その動きが止まったとき、秋幸は自分が何をしたのかに気づいた。小さい活字を読もうとして、下にスクロールしようとしていた。紙の上に、スマートフォンの癖が出た。スマートフォンはここにない。2026年にある。しかしその指先の動きが教えていた——この紙面の設計と、あの画面の設計は、同じ意図で作られている。
秋幸には覚えのある光景だった。2026年のスマートフォンで似たような画面を何度も見ていた。防衛費がGDP比2%を超えたとう特集が大きく扱われる日に、財源確保のため社会保障費の削減が検討されているというニュースが、ページの下の方に小さく載っていた。前に出るものと隅に追いやられるもの——120年経って、紙とスマートフォンが違うだけで、紙面の設計は変わっていなかった。
「秋助」
巌が先に歩いていた。秋幸は急いで追った。橋を渡ると、人の流れが一方向に偏り始めた。
着物姿の男たちが同じ方角に向かっていて、その中に軍服の男が二人混じっている。肩をそびやかした歩き方で、周囲の民間人より半歩前を行く感じだった。道の端では鉢巻きをした男が日の丸の旗を売っていて、次々と手が伸びていた。旗を受け取った瞬間、買った人間の顔が変わる。それは信念の顔ではなかった。解放の顔だった。何かに所属した瞬間の、個人としての重さが消える顔だった。
群衆の端に、秋幸と同じ年頃の男が一人いた。旗を手にした瞬間、その男の肩の力が抜けた。声を上げる直前の一秒、男の顔に笑みが浮いた。嬉しいという笑みではなく、やっとここに来られた、という笑みだった。
秋幸は、その顔を知っていた。
四万十の高校で同じクラスにいた男子生徒の顔だった。秋幸の隣に座るその生徒は、授業の合間、食い入るようにスマートフォンの画面を見ていた。そう、今目の前にいる群衆と同じように、笑みを浮かべながら。
覗き込んだ秋幸の目に移ったその画面には、こう書かれていた。
「日本を守れ」
120年経っても本質は変わっていない。形が変わっただけだ。
広場に出て、足が止まった。
人で埋まっていた。旗が複数立ち、全部同じ方向に向いている。正面に台があり、そこから声が出ていたが、距離があって言葉は塗りつぶされた。抑揚だけが届く。
しばらくすると言葉が、塊になって聞こえてきた。
「——南満洲鉄道設立、バンザーイ!」
群衆が返した。腕が上がり、子どもが旗を振り、老人が頷いた。台の上の男がまた何かを言う。声が高くなるたびに広場が揺れた。
「——一等国!」
今度は全員が答えた。汗と油の混じった熱い匂いが鼻を突き、足が前に引っ張られる感覚があった。
秋幸は一歩も動かなかった。「一等国」という言葉は知っている。日露戦争勝利後、日本がヨーロッパ列強と並んだと自覚した時代の言葉だ。知識としては持っていたが、この圧力は知識とは別のものだった。体の前から来る熱気、声が重なるたびに強くなる引力。
この感じも2026年で覚えた感覚に近い。「強い国家を」「日本を守れ」という言葉がネットを埋めた時期があった。その言葉を叫ぶ人間の顔が、今この広場の顔と似ている。何かになれると信じている顔。何かを取り戻そうとしている顔。問題は、その熱が何を燃料にしているかだった。
さっきの新聞が頭に戻ってくる。大きな活字と小さな活字。南満州鉄道設立と、差し控えられた外債の話。この広場を満たしている熱気の下に、見えていないものがある。
巌は広場の外縁に立っていた。中には入らず、端から一歩引いた場所に腕を組んで立っている。秋幸は群衆を背にして、巌の隣に並んだ。しばらく、二人とも黙って見ていた。
「日露戦争で死んだ者の数を、あの熱は知らない」
巌がこちらを見ないまま言った。声は低く、群衆の声にほとんど飲まれていた。
「いや…知っている。知っていて、こうなる」
間があった。群衆がまた声を上げ、「一等国」という言葉がまた来た。
「勝ったから、死んだことが正しかったことになる。借金の話は、どこにも聞こえない」
秋幸は何も言えなかった。反論があったからではない。その通りだと思ったからでもない。120年後も、同じことを言わなければならない人間がいるかもしれないと思ったからだった。差し控えられた外債の話、社会保障費の削減が小さな活字で載る日——借金の話はどこにも聞こえないという状況が、形を変えて続いている。それを誰かが、誰も聞かない場所で言い続けなければならないとしたら。その先がうまく言葉にならなかった。
そのとき、視線を感じた。
群衆の端に、一人だけ広場と同じ方向を向いていない男がいる。紺の着流しに羽織、背筋が真っ直ぐだった。
見覚えがあった。着地した日、あの路地で声をかけてきた男だ。「内務省の者」と名乗り、職質し、秋幸の言葉の端々を測るように聞いていた、あの目だ。
目が合った。男は視線を外さない。秋幸も外せなかった。何秒だったかわからないが、男はそれから、ゆっくりと群衆の方に目を向けた。まるで最初からそちらを見ていたように。
秋幸は呼吸を整えた。巌が気づいているかどうか、判断できなかった。
帰り道、巌はほとんど喋らなかった。今日聞いた言葉を、ハルに伝えたいと思った。伝えてどうなるかは問い返さなかった。ただそれを先に思ったことが、秋幸には少し不思議だった。
橋を渡り、川の音が二人の間を満たした。同じ歩幅では歩けなかった。巌の方が一歩が広く、それでも並んで歩いた。
川沿いを過ぎたあたりで、どこかで犬が鳴いた。巌が頭を僅かに傾けて、その方角を見た。
秋幸が気づいたのは、自分も同じ方角を向いていた後だった。同じ角度で、頭を傾けていた。巌はもう前を向いていて、何も言わなかった。
二、三歩してから、巌が口を開いた。振り返らずに言った。
「さっきの男を見たか」
「はい」
「石田という名の男だ。内務省の密偵だ。一年ほど前からこちらを見ている」
巌はそれ以上言わなかった。橋の残りを渡りきり、砂利道に入った。秋幸も何も言えなかった。ただ犬の声の方角が、気になった。それだけのことだった。
家の手前で、巌が足を緩めて言った。
「近いうちに、会ってもらいたい者がいる。昨夜、部屋にあった刷り物の書き手だ」
秋幸は止まった。巌はそのまま格子戸を引いて中に入った。格子戸の前に立ったまま、秋幸は少しの間動けなかった。
幸徳秋水。
あの刷り物の書き手が、そしてこの地に来る前まで繰り返し読んだ本の著者が、近くにいる。 今日の広場がまだ体の前に残っていた。「南満洲鉄道設立」「一等国」という声と、「借金の話はどこにも聞こえない」という巌の言葉と、大きな活字と小さな活字が、同じ場所に並んだまま動かなかった。
夕食の後、巌が縁側に出た。秋幸は一人でハルと部屋に残った。
「一つ、聞いていいですか」
ハルが針を止めずに言った。
「はい」
「知っていて、黙っていることが、つらくないですか」
秋幸は答えに詰まった。
「もし私が」ハルは続けた。布に目を落としたまま言った。
「知ってほしくないことを知っていたとしたら——あなたなら、どうしますか」
針が止まった。
秋幸はハルの横顔を見た。この女は何かを知っている。自分の先にあるものを、すでに感じている。それを黙っている。今まで気づかなかったことを、今日の広場を経た目で見ると、わかった。
「言います」と秋幸は言った。
「届かなくても——言います」
ハルが顔を上げた。秋幸を見た。その目に何かが混じった。問いに対する答えとは別の何かが、一瞬だけそこにあった。
「そうですか」
ハルは針を持ち直した。布に目を落とした。それだけで会話が終わった。ただ部屋の空気が、少しだけ変わった。変わったことを、二人とも知っていた。知っていて、何も言わなかった。
(第6話 了)




