表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笑劇の帝国~1906年にタイムスリップした俺は、5年後に処刑される少女に恋をした  作者: 深海周二
帝国主義の足音

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/5

第4話 信じてもらえた日

 朝から日差しが強かった。

 ハルは早足で歩いた。秋幸は二歩遅れて付いていく。路地を抜けると、砂利道の広い通りに出た。煤の匂いがした。昨日の石炭とは違う。もっと乾いた、紙とインクが混ざった匂いだった。「もうすぐです」

 ハルが振り向かずに言った。角を曲がったところに、小さな間口の建物が並んでいた。ハルは迷わず一軒の前で立ち止まった。引き戸に木の看板が下がっていた。

 秋幸は看板の字を読んだ。「活版所」と書いてある。おそらく印刷所の類だろうと秋幸は思った。

 中に入ると、活字の匂いが濃くなった。奥に手動の印刷機が見える。薄い紙が幾重にも重なって棚に積まれている。壁に沿って、文字の詰まった刷り物が何枚も貼られていた。


 店の奥から男が出てきた。眼鏡をかけていた。ハルを見ると、短く頷いた。

「また来たか」

「はい。こちらは知人です。少し事情のある者で」

 男は秋幸を一瞥した。値踏みするでも、警戒するでもない、慣れた目だった。こういう「事情のある者」を見慣れているらしかった。ハルと男は低い声で短い言葉を交わした。秋幸にはほとんど聞こえなかった。

 その間、秋幸は壁を眺めた。貼られた紙の文字を端から読んでいく。労働者、賃金、帝国、断片的に言葉が目に入ってくる。そのうちの一枚に、目が止まった。論文の表題。そして、その下に筆名。

 幸徳秋水。

 秋幸は目を動かさなかった。頭を巡らせた。この名前の男は4年後に逮捕され翌年には処刑される。その名前が歴史の本に残り、120年後の高校の図書室に一冊の文庫本として収まる。そしてその文庫本を、高知の高校生が理由もわからないまま繰り返し手に取る。その高校生が今、この印刷店に立っている。


「行きましょう」

 ハルが戻ってきた。男に頭を下げて、引き戸を引いた。

 来た道とは違う方向に歩いた。路地が細くなり、人通りが減った。水の匂いがする。川が近い。日の差す角度が変わり、建物の影が路地を斜めに横切っていた。

 ハルが足を止めたのは、橋の手前の小さな空き地だった。端に荷車が一台放置されていた。それ以外に人の姿はない。ハルは秋幸を向いた。

「聞かせてください」

 川の方から来た風で、ハルの着物の裾が揺れる。

「あなたは何者ですか。本当のことを教えてください」

「…土佐の者だというのは、嘘ではないです」

「でもそれだけではないでしょう」

「はい」

 秋幸は川の方を見た。光が水面に散っていた。正直に言うつもりはなかった。昨夜からずっと考えていたことだった。何が言えるか、何を言うべきか。どれだけ考えても、結論は同じだった。言っても信じてもらえない。信じてもらえなければ何も変わらない。だから黙っているしかないという答えが出ていた。

 それなのに今、ハルの目の前に立って、その答えが崩れていく感じがする。なぜかはわからない。ただ、この女には嘘がつけない。

「俺は」

秋幸は口を開いた。

「未来から来ました」

 ハルは動かなかった。

「120年後の日本から来ました。西暦でいうと2026年です。そこから、なぜかはわからないまま、あの路地に来た」

「あなたの言っている意味が…わかりません」

「そのままの意味です。120年後に俺は生きていた。それがここに来た」

 しばらく、ハルは黙っていた。川の流れる音だけが聞こえる。

「嘘を言っているとは、思いません」とハルは言った。

「ただ、信じることも、できません」

「証拠を示せばいいのですか」

「…あるのですか」

「…はい」

 秋幸は川を見た。証拠として使える事実を頭の中で探した。秋水の未来は言えない。言えるとすれば…秋幸はゆっくりと口を開いた。

「児玉源太郎という方はご存知ですか」

「確か…日露戦争を指揮された方ですね」

「その方が、今月中に亡くなります」

 秋幸は言った。

「突然のことです。誰も予測していない。でも新聞に出るはずです。今月の末までに」

 ハルは動かなかった。

「そして来年の二月…」

「やめてください」

 静かな声だった。秋幸は止まった。川が鳴っていた。ハルは俯いたまま、しばらくそうしていた。足元の砂利を見ていた。

「…続きを聞く覚悟が、まだないので」

 顔を上げた。川の方を向いた。夕暮れの光が水面を赤く染め始めていた。

「わかりました」

 一陣の風が来て、ハルの着物の裾を舞い上げた。

「帰りましょう」


 橋を渡った。二人は並んで歩いた。言葉はなかった。橋板が足の下で軋んだ。橋を渡り終えたところで、ハルが一度だけ秋幸の方を向いた。

「あなたの顔が」ハルは言いかけた。

「……誰かに、似ています」

 そこで言葉が切れた。ハルは路地の先を一度見て、歩き続けた。細い影が長く、路地の先に伸びていた。

(第4話 了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ