第3話 なぜ、Kは死んだと思う?
最初に気づいたのは、光だった。
格子窓から差し込む薄い朝の光が、畳の上に細い縞を作っていた。行灯は消えていた。夜のうちに誰かが消したのか、自然に燃え尽きたのか、秋幸にはわからなかった。
天井の梁を見る。煤で黒ずんだ木の色は昨夜と変わらない。
ここにいる。まだここにいる。明治の日本に。
そういう確認を、秋幸はした。夢から覚めて元の場所に戻っていることを期待していたわけではない。ただ、確かめずにはいられなかった。
昨日のハルのことを思い出す。なぜあの場で、あそこまで迷わず庇えたのか。理屈に合わない。だが、理屈に合わないことの方が、妙に頭に残る。
外から音が聞こえた。遠く、荷車の軋む音。どこかで水を汲む音。男の呼び声が一つ。1906年の東京の朝は、秋幸が知っているどんな朝とも違う質感がある。機械の音がない。エンジンの音がない。だから風の音が、よく聞こえる。
ハルの気配はなかった。奥の部屋はひっそりしている。すでに出かけているのか、まだ眠っているのか、判断できなかった。
秋幸は仰向けのまま、天井を見続けた。昨夜の問いが戻ってくる。
なぜ俺は、ここに来たのか。
天井の梁に重なるように横断歩道のことを思い出す。
四万十の通学路は、コンビニの角を曲がった先にあった。信号が赤に変わった。秋幸は立ち止まった。スマートフォンを見ていたわけではない。ただ前を向いて、信号が変わるのを待っていた。春の朝だった。空気は薄く湿っていて、四万十川のほうから風が来ていた。信号が青になった。足を踏み出した。視界が塞がれた。それだけだ。その後のことを、秋幸は覚えていない。
異世界転生小説を、何冊読んだのかはわからない。3桁には届いているはずだった。死んで異世界に転生して、チートの能力を手に入れて、強敵を倒す。最初の一冊を手に取った時期は、もう覚えていない。ただ気づいたら、読まなければどこか落ち着かない状態になっていた。
なぜそんなに読んだのかを問われたとして、うまく答える自信はない。ここではないどこかへ行きたかった、というのは正確ではない気がした。どこかへ行きたいという積極的な気持ちがあったわけではなかった。ただ、常に、そこによそ者として自分が存在している気になる。ならばどこからそこに来たのか問われれば、それも定かではない。一周回って同じ答えに辿り着く。よくわからない、という答えに。
自分の苗字が、路地でとっさに出てきた理由を、まだ考えていた。
田村。それは秋幸の本当の苗字だった。2026年の四万十で田村という苗字を持って生まれた。高知の実家の仏壇に、同じ苗字の古い位牌が並んでいのを見たことがある。祖母が「明治の頃の人たちだ」とだけ言っていた。詳しいことは何も聞かなかった。聞く機会はいくらでもあったが、聞かなかった。
なぜ田村という名前を名乗ったのか、ただ、間違えた感じがしない。それだけが確かだった。
四万十の高校は、悪い場所ではなかった。クラスメイトとの関係も、特別に悪いわけではなかった。誰かを嫌っていたわけでも、誰かに嫌われていたわけでもない。ただ、何かが慢性的に足りなかった。何が足りないのかを言語化できないまま、ずっとその欠落感だけが続いていた。異世界転生小説を読んでいる間だけ、その欠落が少し小さくなった。ここではない世界に脳の一部を預けることで、仮初の安寧を得ていたというべきだろうか。
国語の授業で、夏目漱石の『こころ』を読んだのは、一年の秋だった。
「なぜ、Kは死んだと思う?」
国語の教師はそう問いかけた。クラスの中に沈黙が広がった。誰も手を挙げようとしない。秋幸も手を挙げなかった。わからなかったわけではない。教科書の注釈は読んでいた。Kが何を抱えていたのかは、概ね理解していた。ただその理解と、Kの死の間に、繋がりが感じられなかった。どんな解釈をKの自殺に与えても、Kは拒絶する、そう思うのだ。
出来事として把握できるが、それ以上は近づけない。自分のこととして感じられない。そういう距離感が、ずっとそこにあった。
先生はしばらく待って、自分で答えを話し始めた。秋幸はノートにそれを写し、こう思った。
まるで他人事のようだ、と。
幸徳秋水の本を最初に手に取ったのは、高校二年の春だった。
学校の図書室に、なぜかその本があった。薄い文庫本で、背表紙が退色していた。誰かが寄贈したのか、もともとそこにあったのか、わからない。棚を端から眺めていた時に、目が止まった。
『廿世紀之怪物帝国主義』
タイトルが妙に引っかかった。内容が理解できるとは思わなかった。ページを繰ってみると、案の定、眩暈がするほど意味の取りにくい文語体の文章が続いている。それでも返した後、翌日また借りた。そういうことが続いた。
なぜかはわからなかった。ただ手放せなかった。
それからというもの、幸徳秋水について書かれたものを探しては読んだ。漁っては読む。読むうちに止まらなくなる。背景を知ろうとすると、戦争のことを調べることになる。戦争を調べると、金のことが出てくる。金を調べると、軍人と政治家の名前が出てきた。気づけば、明治の日本については、教科書には載っていないことまで頭に入っていた。
なぜそこまで調べたのか、うまく説明できない。ただ、手が止まらなかった。止まらず関連書籍のページをめくる先に、明治の世を揺るがす事件が出てくる。
大逆事件。
幸徳秋水の周辺にいた多くの人間が、その熱狂の中で消えていった。その中には、名前の残らなかった者も多くいた。
その時には、なぜ自分がそれを読み続けているのかを、秋幸はまだ知らなかった。たとえ意味がわからずとも、記された字をなぞり続けた。
明治の世にいる今もなお、正確にはわかっていない。ただ一つだけ、昨夜から変わったことがあった。処刑まで、あと四年という時間的な距離が、教科書の中の数字ではなくなったことだ。
外の音が変わった。
荷車の音が遠ざかり、代わりに人の話し声が近くなった。格子窓の光の縞が、畳の上で少し角度を変えていた。
秋幸は体を起こした。
答えは出ない。なぜここに来たのかは、依然としてわからない。わからないまま、ここにいる。それだけが確かだった。
奥の格子戸が音を立てた。
足音がして、格子戸が引かれた。ハルが部屋の入口に立っていた。着物の裾がわずかに土埃を帯びている。外に出ていたらしかった。外の冷気をまとったまま立つハルを見た瞬間、秋幸の肩の何かが、知らないうちに緩んでいた。
「起きていましたか」
「はい」
ハルが部屋に入ってきた。行灯の横に小さな風呂敷包みを置いた。中身は食べ物らしかった。秋幸はその包みを見た。なぜこの女が自分の宿と朝食の心配をしているのかを、まだ正確に理解していなかった。
「今日」とハルは言った。
「あなたを連れて行きたい場所があります」
秋幸はハルの顔を見た。昨日と同じ目だった。慌てない目。ただ何かを決めた目だった。
「どこですか?」
「行けばわかります」
包みの結び目に手をかけながら、ハルは言った。
秋幸はその横顔を見た。昨夜の「あなたの顔が…」という言葉が、また頭の端に引っかかった。続きはまだ、聞いていない。
(第3話 了)




