第2話 揺れる行灯の炎
ハルは早足で歩いた。
秋幸は三歩遅れてその背中を追った。路地を抜け、細い裏通りに入る。軒先が低く、頭を下げなければならない場所が二度あった。人通りは少なかったが、すれ違う着流しの男が秋幸の顔を見て、足を緩めた。ハルはそちらを見なかった。
路地の向こうを、荷車が横切っていく。馬が引いていた。荷台には木箱が積み上がっていて、箱の隙間から白い湯気が漏れている。
秋幸は歩きながら、自分が見ているものを一つずつ確かめた。着物、草履、木と漆喰の建物。砂利道から生えた細い草。どこかで鐘が鳴っている。
秋幸は、改めて自らに納得させる。
やはりここは、異世界ではない。120年前にいきなり飛ばされたという荒唐無稽な事態を、足裏に感じる砂利の現実的な硬さが、歩を進めるたびに打ち消していく。
5分ほど歩いたところで、ハルは一軒の家の前に立ち止まった。木の格子戸を引くと、奥から温かい空気が流れ出てくる。土間があった。灰色の石が一つ。ハルは草履を揃えて上がった。
秋幸は自分の足元を見た。運動靴だった。白いソールが黒く汚れている。この時代の人間が履いていないものを履いている。そのことに後ろめたさを感じるのは何故だろう。
「上がってください」ハルが振り返らずに言った。
秋幸は靴を脱いだ。土間の冷たさが、靴下越しに伝わってくる。
部屋は狭かった。
畳が六枚。壁際に箪笥が一つあり、縁が擦り切れていた。窓は低く、外から差し込む光は弱い。ハルが行灯に火を入れると、部屋の隅に小さな影が生まれた。木と油と、古い布の匂いがした。石炭の匂いとは違う、もっと日常的な匂いだ。
ハルは奥に消えた。しばらくして、木の桶と濡れた布巾を持って戻ってきた。
「手を拭いてください」
秋幸は言われた通りにした。布巾を絞ると、黒い水が桶の縁を伝った。石炭の汚れだった。指の間まで染まっている。ここまで気づかなかったが、額にも汚れがついていたらしく、ハルは何も言わずに新しい布巾を持ってきた。
ハルは布巾を差し出しかけて、手を止めた。一瞬だけ迷い、それから自分の手で秋幸の指を拭った。布越しに、温もりが伝わる。
「……すみません」
何に対する謝罪かは、わからなかった。秋幸も、何も言えなかった。
「頭は大丈夫ですか」
「はい」
「立てているなら大丈夫そうですね」
ハルは畳に座った。秋幸の正面に、一つの間を空けて。膝に手を置いて、真っ直ぐ秋幸を見た。路地での落ち着きと同じ目だ。慌てない目。
「田村秋助さん」
その名前を呼ばれるのは、まだ奇妙な感じがした。「はい」と返事をするのに一拍の躊躇が生まれる。
「本当のことを、聞かせてもらえますか」
秋幸は答えを探した。二つの問いが同時に浮かぶ。何を言えるのか、という問いと、そもそも自分には「本当のこと」があるのか、という問いだ。
「土佐の者です」秋幸は言った。
「それは本当のことです」
「ではなぜここに」
「……わかりません」
嘘ではなかった。本当にわからない。どうして1906年に飛ばされたのか、どうしてあの路地に倒れていたのか。
ハルは秋幸の顔を見た。探るような目が、少し、緩んだ。遠い目で秋幸は言った。
「…気づいたら、あの路地に倒れていました」
「倒れるだけの理由がある、ということですね」
「…そういうことになります」
「わかりました」とハルは言い、視線を落とした。その顔が納得しているのかどうかは、下を向いた角度からは読めなかった。
「あなたの顔が…」と、ハルがまた言いかけた。
そしてまた、止まった。
秋幸は待った。路地でもこうだった。「あなたの顔が」と言いかけて、止まった。今度も続きを待ったが、ハルは首を横に振った。
「何でもありません」
行灯の炎が、微かに揺れた。
異世界ではない。
秋幸は心の中で、もう一度それを確認した。今まで読んできた異世界転生小説のタイトルは、おそらく3桁には届くだろう。主人公が死んで、異世界に召喚されて、チートの能力を手に入れて、強敵を倒す。そういう話を読むたびに、どこかでそう思っていた。自分もいつかそうなればいい、と。そうなったとき、自分ならこうする、と。具体的に考えていた。どんな能力が欲しいか。何を最初にするか。
トラックに轢かれた瞬間、秋幸は歓喜した。
来た、と思った。本当に来た、と。衝撃の前に頭に浮かんだのは、恐怖でも後悔でもなく、あの妙に場違いな昂りだった。だが着いた場所に魔法などない。勇者もいない。チートの能力も与えられない。代わりにあったのは、石炭の匂いと砂利道の硬い冷たさと、明治という年号だった。
異世界転生小説を3桁読んできた男が転生した先は、4年後に大逆事件が起きる明治の日本。
これが自分の転生先だ、と秋幸は思った。笑えなかった。
ハルが湯を持ってきた。木の椀に注がれた、白い湯気が立っていた。
「飲めますか」
「はい」
「口の中に傷はありませんか」
「ないと思います」
ハルは椀を秋幸の前に置いて、少し離れた場所に座り直した。秋幸は椀を両手で持った。指先に温かさが広がった。
ハルはその間、秋幸の手元を見ていた。手元から顔まで、何度か視線が動いた。それが何のための確認なのか、秋幸にはわからなかった。
秋幸は視線を椀に落としたまま、頭の中で知っていることを並べた。
大逆事件まで、あと4年。1910年、幸徳秋水をはじめとする社会主義者たちが処刑される。秋幸はその顛末を、歴史の教科書と、手放せなかった幸徳秋水の本から知っていた。反体制運動の周辺にいた者たちも、多くが弾圧の中で消えた。それが歴史の記録として残っていた。
秋幸はハルを見た。行灯の炎が横顔を照らしていた。内務省の男に正面から「弟です」と言える人間が、何も知らないはずがない。ハルも反体制運動の周辺にいる。そんな予感がした。そしてその運動の周辺にいた人間がどうなったか、秋幸は知っていた。
「今夜はここにいてください」ハルが言った。
「明日になれば、少し考えられることもあるでしょう」
「…ありがとうございます」
「礼はいりません」
ハルは奥の部屋へ向かいかけて、一度止まった。背を向けたまま、少し間を置いた。
「田村秋助の、秋という字は」
「はい」
「漢字で書くと、どういう字ですか」
「四季の、秋です」
ハルは何も言わなかった。しばらくそのままでいて、それから立ち上がった。奥へ向かう背中が、戸口の手前でもう一度、止まった。
奥の部屋に消える直前、ハルは小さく言った。
「……あなたが来て、少しだけ、安心しました」
「安心、ですか?」
すぐに戸が閉まった。理由は、聞けなかった。
秋幸は一人になった。
行灯の炎が揺れていた。窓の外は暗く、遠くで犬の声がした。
畳の上に仰向けになって、天井を見た。木の梁が黒ずんでいた。煤の色だ。
眠れるはずがなかった。
2026年に戻れるとは、思えなかった。あの横断歩道に、制服に、教科書に、手触りのわかる全てのものに。戻れるとすれば、あの時と同じことをもう一度やるしかない。もう一度、トラックに轢かれる?そんなことが都合よく起きるはずがない。そもそもトラックが明治の日本にはない。
ここで生きるしかない。
繰り返しそう思うことが、受け入れることだと秋幸は思った。
異世界ではない。それでいい。言葉は通じる。歴史も知っている。大逆事件まで四年、その間に何ができるかはまだわからない。だが何もできないとも、まだ決まっていない。ただ、一つだけ答えの出ない問いが浮かんで、消えなかった。
なぜ俺は、ここに来たのか。
トラックは突然だった。選んだわけではない。なのになぜ明治の日本なのか。なぜあの路地で、なぜハルという名の女に助けられたのか。
そして、どうして幸徳秋水の本を繰り返し読んでいたのか。折り重なる問いの理由を、自分でもうまく説明できなかった。ただ、手放せなかった。
行灯の炎が、また揺れた。
(第2話 了)




