第1話 明治39年の匂い
最初に気づいたのは、匂いだった。
焦げたような、湿った土のような、嗅いだことのない匂いが鼻を突く。次に尖った冷たさが来る。頬に貼りついている地面が、砂利であることが徐々にわかってくる。
秋幸はゆっくりと上半身を起こした。
両手に触れるのは、細かい粒子の混じった土だ。見ると、指先が黒く汚れている。咄嗟に、石炭だ、と思った。秋幸は石炭というものを見たことはない。ただ、指先についた黒々とした濃いそれが、石炭という言葉を脳裏に呼び寄せたという感覚。そして次の瞬間、視界が開けた。狭い路地だった。両側に低い木造の建物が迫り、鈍色の空は細い帯のように切り取られている。
何があったのか、わからなかった。
自分がなぜここにいるのか。なぜ地面に倒れていたのか。記憶の端を手繰ろうとしたが、つかめない。ただ断片だけが、波のように押し寄せてくる。
横断歩道、踏み出した足、視界を塞いだ白い巨大な何か。
トラックだ、と秋幸は思い出した。横断歩道を渡りかけたとき、突っ込んできた。衝撃の前に頭に浮かんだのは、妙に場違いな歓喜だった。来た、と思った。やっと来たんだ。これで異世界に行けるんだ、と思った。その歓喜を追いかけるように、なんて自分は馬鹿なんだと思った。そしてそれが、最後の意識だった。
しかしここは、異世界ではない。異世界に行ったことなどないはずなのに、違うという思いが胸に迫ってくる。
砂利で舗装された道、石炭の匂い、木造の建物。電柱が遠くに見えた。電線は細く、だらしなくたるんでいる。往来の向こうを着物姿の女が横切る。荷車を引く男とすれ違った。
秋幸は立ち上がりながら、自分が何を見ているのかを確かめた。
そして、わかった。わかってしまった。
ここは、明治時代の日本だ。
推測はついていた。石炭の普及度、電線の状態、往来の服装。そしてこの匂い。視線を落とすと、路地の端に一枚の紙片が落ちていた。風に端が捲れかけた、黄ばんだ粗末な刷り物。日付が読めた。
「明治三十九年」
やはり、と秋幸は思う。その思いには、何か期待を裏切られたような錘がついていた。頭の中で西暦に直す…1906年。
日露戦争が終わり、鉄道が整備され、産業が拡大し始めた頃の、活気と煤煙が入り混じった匂いだ。そして…幸徳秋水が平民社を解散させ、地方での運動に軸足を移し始めた、あの頃の。
幸徳秋水…咄嗟に浮かんだその名前。
「帝国主義は燎原の火なり」
その一文から始まる幸徳秋水の『二十世紀の怪物帝国主義』を、なぜか手放せなかった。理由は自分でもうまく説明できないが、とにかくそのいかめしいタイトルに惹かれた。その文語調で書かれた内容もロクにわからぬまま、高校生の自分があの本を繰り返し読んでいたことは確かだった。つられるように日本の近代史に興味を持った。誘われるように図書室に通い詰めた。その知識が今、奇妙な形で役に立っている。
大逆事件が起きたのは1910年…つまり今から4年後。『二十世紀の怪物帝国主義』を読んでいた、もう一つの理由。それは…そう思った瞬間、背後で声がした。
「そこの者」
低い、静かな声だった。秋幸は振り返った。
路地の入口に男が立っていた。年は30歳前後だろうか。紺の着流しに羽織をはおり、背筋が真っ直ぐだった。顔立ちは整っていたが、目が笑っていない。値踏みするような目で、秋幸の全身を端から端まで確認している。
「貴様、怪我をしておるようだが」と男は言った。
「どこから来た」
秋幸は答えを探した。早く答えなければならない。しかし何と答えればいいのか。
「土佐…から来ました」
秋幸はそう口にしてみた。間が空いた。次の言葉が詰まった。男の目にしかと捉えられていることがわかる。土佐…あながち嘘を言ったわけでもないが、秋幸は急いで言い直した。
「あっ高知の者です」
「ほう」
男の目が細くなった。
「それにしては訛りのない話し方だな」
訛り。秋幸は自分の言葉を確認した。標準語だった。明治の高知で標準語を話す人間は、そう多くないはずだ。
「東京に…少し縁のある家だったもので」
「貴様の名は」
「田村」秋幸は勢いのままそう答えた。
「田村秋助です」
なぜその名前が出たのか、自分でもわからない。ただ「秋」の字を選んだことは、何となく正しい気がした。
「田村秋助、か」
男はゆっくりと近づいてきた。
「私は内務省の者だ。ここに来た理由を聞かせてもらおう。このあたりは、少々穏やかではない者どもが出入りする場所でな」
内務省と聞き、秋幸の背中を冷たいものが走った。すぐさま連想が働く。この男は密偵かもしれない。
秋幸は男を観察した。羽織の下、腰のあたりに僅かな重さを感じさせる膨らみがある。身分を示すものか、あるいは別の何かか。いずれにしても、この男が微笑み一つで帰してくれる人間でないことはわかる。
「友人の家を訪ねるつもりで」秋幸は慎重に言葉を選んだ。
「道に迷ったようで。少し頭を打ったかもしれません」
「ほう、それでその友人の名は」
「それは…」
そのとき、路地の奥に人影があることに気づいた。
いつからいたのかわからない。着物姿の若い女が、低い軒の陰に立っていた。こちらを見ていた。男と秋幸のやりとりを、じっと見ていた。そしてなぜか、路地で倒れていた時からずっとこの女に見られていたような気になった。
「秋助」
声が飛び込んできた。
女の声だった。
若い女がこちらに向かって走り寄ってきた。年は秋幸とさほど変わらないように見える。息を切らしていたが、足取りに迷いがない。男の存在を認めた瞬間、その速度が僅かに落ちた。落ちたが、止まらなかった。
女は秋幸の隣に並んで立った。
「この者は私の弟です」と女は言った。内務省の男を正面から見据えて、女は落ち着いた声で続けた。
「田村ハルと申します。弟が行方がわからなくなり、探しておりました」
男はハルと名乗る女を見た。ハルを見て、秋幸を見た。そしてまたハルを見た。
「兄妹、ということか」
「はい」
「ほう、言われてみればよく似ておるな」
「よく言われます」
ハルは微笑した。作った笑顔だったが、崩れなかった。
「お役人様に御迷惑をおかけしたようで、大変失礼いたしました。弟は少し頭の具合が悪くて、このようなことが時々ございます」
男はしばらく二人を見比べた。秋幸は視線を正面に保った。何かを計算するような沈黙が、路地に満ちた。
「そうか」男はやがて言った。
「ならば、気をつけるがいい」
男は言い、一度だけ秋幸の顔を正面から見た。それから踵を返した。靴音が砂利の上を遠ざかる。人混みに背中が消えるまで、秋幸は動かなかった。
秋幸は大きく息を吐いた。気づかなかったが、ずっと息を詰めていたらしい。肺の底から空気が抜けると、膝が少し震えた。
ハルは秋幸の腕を掴んだ。ほんの一瞬だけ、指に力がこもった。それは演技にしては、あまりにも強かった。
「……行きましょう、秋助」
名前を呼ばれたとき、秋幸はわずかに息を詰めた。初めて会った女に呼ばれたはずのその名前が、なぜか前から知っていたように聞こえた。
「あの方は、すぐには戻りません。でも、ここに長くはいられない」
「あの…」
秋幸は言った。
「なぜ俺を庇ったんですか」
ハルが立ち止まった。振り返った顔は、さっきの笑顔とは違う。何かを確かめるような、それでいて少し怯えているような顔だった。
「あなたの顔が…」とハルは言いかけた。
そこで止まった。
秋幸は待った。続きを待ったが、ハルは首を横に振った。
「いえ…なんでもありません。とにかく行きましょう」
声だけを残して、ハルは路地の奥へ向かった。秋幸は一拍遅れて、後を追った。路地を抜ける前、ハルは一度だけ振り返った。その目は、秋幸の中の何かを探していた。
秋幸はその背中を見た。石炭の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。ここが異世界でないことは、もうわかっている。異世界でない代わりに、ここには確かなものがある。
四年後に何が起きるのかを、秋幸だけが知っている。
(第1話 了)




