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3話 赤樫の木

 車止めのある入口を抜けると、空気が一段やわらいだ。

 街路の熱が背に退き、前へ広がるのは、刈りたての芝と乾いた土の匂い。

 周囲の黄緑が差す木陰はまだ浅く、枝の間からこぼれる陽の斑が、砂利道の白を細かく揺らしている。

 赤樫の葉は厚く、尖った葉先が光をすくっては落とした。


 園路は緩やかな弧を描いていて、ところどころに手入れの行き届いた株立ちが島のように置かれている。

 幹元の土は指の腹で撫でたみたいに均され、それぞれの根に寄せられた落ち葉だけが少し暗い。

 小さな札が地面に打ち込まれていて、種類名らしき文字が見えた。

 中央にあるという大樫へ向かう矢印は、道なりに前方を示している。


 園内の音はそれほど多くない。

 鳥の短い鳴き継ぎと、遠くの川風。ときおり、どこかで誰かが笑う軽い弾みが混じった。

 蒼太は歩きながらも呼吸の速さを落とし、代わりに深く吸い込んだ。

 新鮮な空気が肺を満たし、不思議と身体が軽くなった。


 最初の曲がり角を過ぎたところで、視界の隙間に肌色が走った。

 道を外れ、まばらに生えた木々の向こうの芝生と土の境目の広くなっている辺り。

 上半身裸の男がひとり、太極拳に似た、しかし要所でくるりとねじる独特の型を繰り返している。

 肘の内側と肋の起伏が、日差しに沿って浮き沈みし、掌の軌跡は風の埃を丸くすくった。

 男は片手に手帳の様なものを持ち、時折動きを止め、目線を落としては、また動き出す。

 ゆっくり沈み、片膝を折って両手を交差させた。指先が胸の前で止まり、次の呼吸でほどける。

 腰はほとんど上下せず、目線はひた向き。

 真剣さが余計に目立つのか、裸であることが奇妙さを増していた。


 蒼太は、林の向こうで知らず知らず息を潜めた。

 視線をそっと前に移し、ただ彼の注意を引かぬよう、この場を通り過ぎるべく歩みを進める。

 砂利の音を抑えようと意識すると、逆に響いて感じるのが常だ。

 木々に男の姿が隠れた頃を見計らい、そっと振り返ってみる。

 男はこちらに関心はないようで、ただ次の型へ移っていく。掌が空を切るたび、幹のすき間に皮膚が光を撫でた。

 蒼太は胸を撫でおろして、再び歩き出す。


 道は再び樹間に入った。

 樫と樫の間隔は均され、枝落としの切り口がいくつも白く乾いている。

 新芽はすでに固まり、葉の裏がわずかに銀を引いた。

 ベビーカーを押す若い夫婦が追い越し、向こうからは犬を連れた老人がゆっくり近づいてくる。

 彼らはこちらの会釈に、片手を胸の前に添えて軽く返す。

 蒼太も真似て胸に手を添えてみる。老人は目を細めて頷いてくれた。


 進むほどに、ほんわりと甘い匂いが混じる。

 木の樹脂が熱で香るのだろう。

 左右には、外周へ回るための補助道が一瞬見えて、すぐ隠れた。

 また少し、道端から伸びる木陰が頭上に差し掛かった。

 その時、ふと思い至る。

 ここまで10分以上歩いて、待ち人はいないようだった。

 それからベンチ、掲示板、給水所、日向と影。人々のいる場所へ視線を流しながら歩くも、父と思しき姿は一つもない。

 ——いやそもそも自分は、こちらでの創冶を知らない。

 仕草は覚えている。家での癖も、こちらを見る眼差しも。

 だが、父も自分の様に、現実と同じ姿だとは限らない。

 もし、全く違う容貌だったら。目の前をすれ違っても、わからないかもしれない。

 肩が少し上がり、息が浅くなる。歩幅は保って、視線だけが反射的に戻る。

 通りすがりの誰かの横顔、帽子の影、衣の袖口に、ついつい食い入るように強い目線を送ってしまう。


 さっきの裸の男の、掌の軌跡が一瞬だけ脳裏に跳ねた。——もしや。

 思わず足を止め、来た道の方を振り返る。


 首を小さく横に振る。

 願いにも似た気持ちで、想像を押し流す。

 仮にそうだとするなら、もう一度転移門へ引き返し、別の街へ行こうか——。

 結論を出す前に、まずはこの公園の中を隈なく探してみよう。

 園路は緩やかに明るくなり、木陰の密度が落ちた。大樫の広場が、近い。


 足下の砂利をひとつ、ふたつ。道は緩く左へ折れ、木の影が浅くなる。

 芝の明るさが広がる前、蒼太は短く息を吐き、肩を落とした。

 地面には、広場の緑を示すように、赤茶けたレンガが連なって埋め込まれている。

 ここから先が、園の中央。

 背後から追い抜いて行った子供が、縁を越えて振り返り、こちらへ、いや更に後から来た自分の両親へ急かすように手を振り、また先に駆け出す。

 蒼太も後に続き、レンガを跨いだ。


 急に音が広がった。

 開けた空間の、空気の反響が違う。

 親子の笑い声が伸びる。

 ここでは、風も葉を鳴らす音よりも、枝の間を抜ける低い音が目立つ。

 足裏に感じる踏み土が僅かに柔らかくなり、芝の刈り際が広く見えるようになった。

 頭上高くから、ぼやけた影が差し掛かっている。

 中央に立つものの存在を、思い出した。


 大樫。


 これを目印にここまで歩いていたはずだが、いつの間にか意識から外れていた。

 いや、いつも視界に映っていた為に、忘れていたのか。


 幹は、近付くほどに目測が利かなくなっていたのだろう、懐に至ってようやく、その大きさを実感する。

 遠目には地面に突き立った緑の傘のようだったが、内側からだと、その骨身の姿が良くわかる。

 樹皮は屋根瓦のように重なり、指ほどの溝が縦に幾筋も走っている。

 抱え込もうとした人の腕が、何人分で届くかは、想像するだけで諦めが先に来る。

 根は地表で大きくうねり、そこから外周へ広がる力が、そのまま広場の輪郭を描いているかのようだった。

 木の上部は視界の端でゆったりと揺れ、葉の一枚一枚は厚く丸く、縁の皿が陽を掬っては落とした。それらは日差しをちょうどよく遮り、影は暗すぎず明るすぎず、眼にやさしい。


 流れる雲に反して超然と佇む大樫を見上げていると、却ってこちらの身体がぐらつくような気がして、視線を広場の草原へ戻す。

 大きく広げた枝の影が円を作り、地面の草はまばらに途切れながら続く。

 広場を縁取るレンガのすぐ内側では、距離を置いてベンチが設置されている。

 背の低い金属の脚と、厚い木の座。向きはすべて、幹を背にしないように調整されている。

 幹を視界の外に置くことは、この場所では、落ち着かないということかもしれない。

 あるいは、幹を眺めるのにちょうどいい角度ということかもしれなかった。


 今しがた通ってきた広場の入口脇に、薄い石の案内板——石碑が建っている。色々と、この樹についての歴史が書かれているらしかった。

 記された語の調子は控えめだが、要点は読み取りやすい。

 種名は『ショウグンアカガシ』。当然、聞いたことはない。

 ともかく、この樹はこの場所に長くあるとのことだ。

 この大きさがこちらでの標準ということではないようで、安心、と言えるかもしれない。


 広場の外周には、人の通り道を示すように草の無い範囲が続いていた。

 蒼太は大樫を敬遠するようにその道の上を歩きだした。

 草原を駆け回る子供や、それを眺める大人たち、ベンチに腰掛け大樫を拝む老人の姿を横目に、目的の人物を探す。


 広場の外周を時計回りに四分の一ほど進んだころ、ベンチのひとつに、白い布のコートを着た誰かが寝転がっているのが見えた。

 ひじを枕にし、靴は脱がずにひじ掛けへ引っかけている。風で裾がほんの少しだけ翻る。

 指先に紙の束が挟まっていて、それが胸の上下に合わせてゆっくり動いている。


 蒼太は歩を緩め、立ち位置を踏み直す。

 肩の力が抜けて、息が短く整う。

 正面からではなく、道なりに少し斜めの角度で近づいていくと、横顔の輪郭が見えた。

 頬の下の影が浅い。目尻の皺は、なんだか短い気もする。だが、纏う雰囲気は家でのそれと変わらない。


 距離が詰まり、顔がはっきりした。

 髪は短く、表情は安らいでいる。顔色は、思ったより良い。

 口元を軽く引いて、寝息は目に見えないほどに薄い。

 胸の上の紙束は、見たことのある紙の白だ。印刷の黒と、手書きの鉛筆が混ざり、角は少し柔らかく摩れている。

 コートの生地は薄く、研究者の着る白衣にも似ている。


 ベンチのひじ掛けに乗っけた足を組み、片足の足先を円を描くように遊ばせる。癖だ。

 家のソファでも、同じふうにする。

 蒼太は片方の肩を上げ、喉の奥で小さく咳をした。

 声にするには、少し早い。眠りを破るかどうかを決める、その前の、小さな合図だけ。


 大樫の枝が揺れ、影が一段、濃くなった。

 葉の間を抜けてきた風が、ベンチの上の紙束の角をめくりかけ、父さん——そう呼ぶほうが正確な男の、指先はそれを止めるようにわずかに動いた。

 ベンチの上の男の胸が、もう一度大きく上下した。

 ベンチの背にかかった靴の紐が、片方だけ緩んでいる。いつも、こうだ。ほどけたまま歩くことはしないくせに、座るとすぐ解く。爪先の自由を好む。家のソファでの姿と、ここでの姿が重なり、差し引きも、余計な足し算もいらなくなる。


 肩の上の光が、さっと薄くなった。雲が流れたわけではない。葉が揺れて、影が寄っただけだ。大樫の影は、こういうふうに、静かに大きくなる時がある。


 男のまつ毛がわずかに震え、目が、開く前の表情をした。

 口元がほんのわずかに緩む。寝起きの、何かを思い出す途中の顔だ。


 彼の鼻先の呼吸がひとつ深くなり、指が紙束の角をもう一度押さえる。

 次の瞬間、まぶたが持ち上がり、焦点がこちらへ合う前に、光を一度だけ弾いた。

 呼びかけは短くていい。長くする理由はどこにもない。蒼太は唇を結び、ひらく。


「父さん」


 呼びかけに、男はこめかみに残った眠気を払うみたいに一度だけ浅く息を吐いた。


「待った?」


 寝姿の名残を残した目が、細く笑いに寄る。

 白いコートの裾がふっと揺れ、男は背凭れに引っかけていた足をほどき、腰を起こす。靴の踵を地面へ落とす音が軽く響いた。


「あぁ、少しな」


 紙束の角を揃えて脇へ置く。

 ベンチの木の座をひと撫でしてから立ち上がった。

 立ち姿は無駄がない。コートの前を片手で軽く払って皺を落とし、もう片方の手で靴紐をひと引き締め直す。


「良くたどり着けたな」


 顔を上げると、日の粒が頬に一瞬だけ乗る。

 視線に感心の色が残ったまま、しかし声音はいつもの平板だ。


「まあね」


 ベンチの影から離れると、二人分の影が芝へながく伸びた。

 風が葉をくぐって低く鳴り、広場を囲む踏み固めの輪へ足が移る。


「どうせ今日中は無理だろうと踏んでたんだが、随分と道が空いてたみたいだな?」


 顎で外周の方角を示しながら、からかう調子で。目だけがちらりと横へ寄る。


「なんでだよ! ……道は教えてもらえたし、そんなに難しい道順でもなかったよ」


 言い終える前に、通りすがりの親子がレンガの帯を軽やかに跨ぎ、子どもが「見て!」と言わんばかりに両手を広げて走り去る。

 創冶はその背を一瞥してから、短く頷いた。


「だろうな。だが上出来だ」


 褒める言葉は短い。代わりに、歩幅を半足ぶん緩めて並びを合わせる。


「どうも」


 砂利がかさり、と低く鳴る。大樫の影が肩口を撫で、すぐにほどけた。


「続きは歩きながら話そう。ウチを紹介してやる」


 言いながら、コートの内ポケットに紙束を滑り込ませる。


「家があるの?」


「まあな、十五年もいれば家くらいはある」


 レンガ帯が背後に遠ざかり、園路が細くなる。二人の前にまばらな樫の樹列が連なり、切り口の白が点々と並ぶ。


「それって僕も住める?」


 問いと一緒に、蒼太の歩きがほんのわずか速まる。肩紐の握りがゆるみ、指先の力がほどける。


「当然だ。灯夏もいるぞ」


 創冶は視線だけで蒼太の顔色を拾う。

 口角が、笑いをこらえるみたいにほんの少しだけ上がった。


「マジ? 母さんもこっちに来てるんだ……」


「あぁ。五年前からな」


 風が一段、やわらぐ。

 言葉を探す間、通りの気配が背へ遠のき、再び園の静けさが前に伸びる。


「灯夏と言えば、お前のその恰好。なんて言われるかな」


 視線が素足の踵から裾へ、そして肩へと上がってくる。悪意のない検分。緩い茶化し。


「え? 何かまずい?」


「何って……そのままじゃないか」


 創冶は片手で輪をつくるみたいに地面を指し、その輪で全身を囲って見せる。蒼太は一拍置き、肩をすくめて笑った。


「そのまま……あぁ、服装じゃなくて、ね」


「ちょっとぐらい変えるもんだぞ普通は」


 言いながら、創冶は胸の前で軽く手を返す。すれ違った老人が同じ所作で返礼し、目尻の皺を寄せた。


「そういう父さんは、何だか若いような?」


 蒼太は横顔を覗く。歩きながらの視線は短い。日差しが頬の骨を浅く照らし、目尻の皺が笑いの形に短く寄ってほどける。


「そうだな。俺は十五年前、本来より少し若い姿でこっちに来た。それでも十五年経って歳は取ったんだがな」


 軽い息が言葉の合間に挟まる。嘘ではない、説明でもない、ただの事実の運び。


「魔力を一定以上多く含むものは、劣化しにくい。俺の今の姿はその影響もあるんだろうな」


 創冶は指先で自分の頬の骨をひと撫でし、そこに残る日差しの温度を確かめる。


「ふーん……」


 頷きは小さい。納得とも保留とも取れる間合い。蒼太は視線を前に戻し、園路の先の明るさを測る。


「十歳程度若く見えるか?」


「ギリギリね」


 創冶は鼻で短く笑い、肩の力をほんの少し抜いた。ふたりの影が重なって、すぐ離れる。

 蒼太はふと思い立って、背後を見る。緑の傘がまだこちらへ差し掛かっているようだ。


「そう、お前も考えた通り、あの大樫が樹齢の割に健康的なのも、魔力の影響が確実にある」


 創冶も、指先で葉のざわめきの高さを示すみたいに空をなぞる。


「すごいじゃん、魔力って」


「まだ全てを明らかにできた訳ではないが、魔素は万能の素材であると言える。……条件付きだがな」


 語尾だけがすこし硬くなる。研究者の声。歩幅は崩れない。


「条件?」


 問いは短い。足取りは同じまま、視線だけが横へ寄る。


「それはまた後でゆっくり話そう。本気で知りたいなら、こんな風に雑談で済ませるべきじゃない」


 言いながら、創冶はコートの内側で何かの重みを確かめるように手を添え、その手をすぐに離した。蒼太はそれ以上は踏み込まず、頷きで受ける。


 園路の曲がり角が近づく。

 木漏れ日が斑になって足下を流れ、砂利は細かい音に変わった。前方で柵の開口が四角く切り取られ、外の通りの白さが強く滲む。人の往来が途切れ、犬の爪が石を弾く音だけが近い。

 公園の北側は、南側よりも出口が近いようだ。もう柵が見えてきた。

 柵へ向かう短い直線で、創冶はほんのわずか歩幅を広げる。

 蒼太が半歩で追いつく。肩の並びが一定になったところで、創冶は顎で出口を示し、同時に胸の前で手を軽く返した。

 通りから入ってきた若者が同じ仕草を返し、笑みを一瞬だけ残して去る。


 北口の車止めが近づく。金具の影が地面にくっきり落ち、風がそこを通るたび歪む。

 創冶が金具の横を抜ける。その後ろで蒼太も足を運ぶ。

 園の冷えた空気が背に回り、街路の熱と匂いが正面から満ちてきた。


 創冶は視線だけで左右の通りを掃き、身じろぎも大きくなく方向を定める。蒼太は、ほんのわずか顎を引いた。

 ふたりはそのまま、公園を後にした。

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