2話 ダイカントル大橋
西口を出ると、目の前に中央通りがまっすぐ伸びていた。
左手には低い柵。この柵よりも内側は転移門のある自然公園の敷地ということだろう。木陰の合間からはドームの縁がちらりと見える。
右は広い車道。その向こうには灰色の石造の庁舎があり、入口に衛士が二人立っていた。
蒼太は内ポケットの紙の角を指で確かめ、まばらな人の流れに合わせて西へ歩く。
昼の光は強いが、街路樹が影を落とし、足もとは涼しい。
荷車が通るたび、鉄輪の音と蹄の乾いた音が、等間隔に通りを刻む。
公園の柵越しには、子どもの笑い声と風が葉を擦る音。鼻には、草と土、それから遠いところの水の匂いが薄く混じった。
ほどなく、緑の帯がしだいに奥へ退き、歩道沿いに木の看板が現れ始める。
宿屋の絵看板だ。
丸太梁を見せた古いもの、白壁の小綺麗なもの、大きな馬屋を備えたもの。軒先には腰掛けが置かれ、旅装束の人々が靴紐を結び直したり、水差しを回し飲みしたりしている。
煮込みと焙じた穀の匂いが風に乗り、しばらくは腹の奥だけが反応した。
今日は寄り道をしない――そう決めて、視線だけで玄関の出入りを追いながら、歩調は崩さない。
通りは地形に沿ってゆるく弧を描いている。遠景が少しずつ角度を変え、視界の右端で空が低くなる。
宿屋の密度が濃くなり、軒と軒の間が詰まる。
やがて建物の列が少し引き、空が急に広がった。前方の空の明るさが一段階上がり、風が顔に当たる向きも変わる。鼻腔の奥で、水の匂いがはっきり合図を送った。
その先に、ダイカントル大橋が姿を現した。
巨大な石の塊が、通りの延長にそのまま据えられている。
上りは緩やかだが、幅は一気に広がり、歩道と車道が並んで川上へ伸びていた。
欄干は胸の高さ、石を積んだだけの素朴な造りなのに、近づくほど圧が増す。
橋脚は二本、三本と連なり、川面の反射を従えて大きな影を落としている。
石は灰白で、目地は細い。遠目にも、同じ寸法の石が狂いなく積まれているのが分かる。
橋の袂には低い屋根の詰所が見えた。
旗が一枚、風に沿ってなびく。
歩道の入口には、外側へ張り出す休憩張台の縁がわずかに覗き、そこが川の上へせり出しているのが分かる。
回転率は良いのか、車道は絶えず動き、荷車の列が確実に橋へ吸い込まれていく。
音が変わる。石畳の高い響きが橋の腹へ入ると、低い唸りに変わって戻ってくる。
大橋の威容に思わず蒼太は足を止め、ひと呼吸置いた。
風はさっきより冷たい。胸の内側まで冷たさが降りてきて、鼓動が自然に整う。
地図の線はもういらなかった。目の前の質量が、これから渡るべき方向を、疑いようもなく示している。
橋の袂まで来ると、歩道側に小さな詰所が張り出していた。
腰ほどの高さの窓口があり、石壁の外には列というほどでもない人の流れ。蒼太はその端に加わった。
前の老人は肩に網を掛け、桶を二つ抱えている。順番が来ると、窓口の中の係員が手を上げた。
「初めてかい?」
「はい。向こう岸へ」
「なら、これだ」
係員は板ばねで挟まれた、仮通行札を一枚渡してきた。薄い羊皮紙の端に、橋の名と日付、それから詰所の印が押されている。裏には、簡単な注意が二行。
〈この札は返却すること〉
〈混雑時は左側を歩く〉
「渡り切った先の詰所で返してくれ。もし途中で引き返すなら、そのときはここに返せば良い」
「分かりました。ありがとうございます」
「橋の上は今日も風が強い。ものを飛ばされないようにな」
係員はそれ以上は何も聞かなかった。
蒼太は札を上着の内ポケットに差し込み、欄干の起点へ進む。
歩道は車道と段差で隔てられており、肩すれすれに荷馬車が抜けるような圧迫感はない。
石の欄干が胸の高さで続き、節目ごとに四角い親柱が立っていた。
一歩、橋に足を置く。
音が変わる。通りの石畳が高く鳴らしていた響きが、橋の腹に入った途端、低く丸い反響に変わって戻ってきた。
足裏を押し返す石は乾いていて、目地は細く、段差はほとんどない。上りはわずかに緩い。
視線の先が、ゆっくりと空に向かって持ち上がっていく。
車道のほうでは、荷車が列を作って進んでいた。
樽を積んだ車、麻袋を山にした車、板材を紐で固めた車。御者の掛け声は短く、馬の耳がきゅっと動く。
鉄輪が石の継ぎ目を噛むたび、規則的な細い音が延び、橋の内側で柔らかくほどけた。
風が当たる向きが変わる。
南からの広い流れに、川面を渡ってきたひんやりが混ざる。
湿った匂い――でも、鼻の奥に塩は絡まない。乾いた石と水の匂いだけがある。
胸の呼吸が自然に深くなり、足取りが少しだけ軽くなった。
百数十メートルも進み、橋が緩やかに背を高くし始めるころ、歩道の外側に張り出しの休憩所が現れた。
欄干が外へ膨らみ、半月形の小さな展望台になっている。
寄ってみると、大きな石板が水平に張り出し、角は丸く落とされている。
欄干の上には、手の幅ほどの滑らかな石の笠木。二人並んで外を覗ける余裕があった。
欄干に肘を置く。
目の前で、リーリヤ王河が大きく息をしていた。
二十メートルは下になるだろうか。水面は濃い青と灰の間を行き来し、ときどき雲の破片のような白を摘んで、そのまま流していく。
流速は一定ではない。
橋脚にぶつかった水が二筋に割れ、外側へ反ってから、再びひとつに戻る。その継ぎ目に小さな渦がいくつも生まれては、すぐに伸びる波紋に引き延ばされる。
見ているだけで、体の裏側まで涼しくなる。
橋の陰を潜るように、上流から小さな舟が二艘、寄り添うように下ってきた。
手漕ぎの舟で、前の舟の男が漕ぎ手、後ろの舟の女は舟べりに網をたぐっている。
網の中で小魚が銀色に跳ね、日差しを一度だけ反射させては、すぐ影に沈んだ。
その舟をやや迂回するように、帆を畳んだまま上流へ向かう帆船が目に映る。
船底が水を押し分ける音は小さいのに、船の動きは滑らかで、逆風逆流をものともしていない。
舷側に立つ男の手には杖。
上流へと向けられた杖の先端が揺らいでいるのは、魔法によるものか。
バシャリという音に下流に目を向ければ、丸い背中をした水棲獣に曳かれた荷船がいた。
獣は二頭。耳だけをひくひく動かし、分厚い首をゆっくり上下させながら、流れの強い川の真ん中をまっすぐに進んでいく。
後ろ足が大きなひれの様になっていて、カバとも牛とも違う生き物のようだが、御者に大人しく従って力強く船を曳いている。
荷船は程なく橋の陰に入って見えなくなった。
視線を遠くへ送る。
川は南へ落ちていき、その先で広い水面になっている――ように見えた。
地平線の手前が、厚手の硝子の板で拭き伸ばしたみたいに明るい。
波頭は見えない。うねりだけが大きく、低く、遠い。
海、なのか。
蒼太は、鼻でそっと息を吸った。風向きのせいか、海の匂いはない。
右手――西側に視線を戻すと、橋の先に広がる西区が一望できた。
近いところでは、橋のたもとから西へ走る太い通り。屋根の列が、川に平行して緩く弧を描き、遠くで街の壁に溶けていく。
両側には商いの家が多いのか、看板の突き出しが多く、表の庇の長さが揃っている。
流れるように視線を北へ移していくと、丘の緑が帯のように重なっていた。
等高線のように、灰色の屋根と緑の畑が階段状に並び、ところどころで背の高い木が針のように突き出している。
北の丘陵に広がる住居エリア。
待ち合わせをしている赤樫の木公園は、その一番手前にあるはずだ。
気付けば、両足がそわそわと落ち着かない。
蒼太は気の向くまま、欄干を離れ、展望台を後にした。
橋の上は風がよく通る。
張り出しを離れると、体の熱がさわさわと剥がされていくように感じられた。
歩を進めると、橋の背はまもなく最高点を過ぎ、わずかに下り坂になる。
反対側の車道へ吸い込まれていく荷車の列に、短い掛け声がひとつ混じった。御者が手綱を引き、馬が鼻を鳴らす。
橋の向こうの建物の屋上に並ぶ洗濯物が、同じ向きへたわんだ。
ところどころに設けられた親柱の影が、規則正しく足もとを横切っていく。
影の長さが少しずつ伸び始めている。街はそろそろ午後の後半に入るのだろう。
渡り切ってしまえば、赤樫の木公園は北へいくらも行かない。
頭の片隅に、ターミナルの受付で言われた道順をもう一度だけなぞる。
――橋を渡る。検問所で札を返す。川沿いの道を通って、北へ。
ふと気付く。
今歩いているのは、橋の下流側、つまり南側の歩道だが、公園へ行くには、どこかのタイミングでこの車道を渡って、北側の歩道へ行かないといけない。
この身体一つで分け入っていくには、車道を走る車たちは相手として悪すぎる気がする。
どうしたものか。
と考えている間にも、下り坂がゆっくりと終わる。
橋の西詰が近づくにつれ、行き交う人の速度が変わった。荷を抱えた者は腰を落として歩き、子どもは保護者の手をとり寄り添い、年配の人は欄干に手を置いていったん息を整えてから街へ戻っていく。
検問所の屋根が視界の端から中央に出てきた。東側と似た造りだが、こちらは屋根の庇が深く、手前に腰掛けが置いてある。
橋の外側へ出る手前に、歩道と分岐するように窓口が開いていた。
列は短い。蒼太はその最後尾に立つ。
前の二人は言葉を交わさず、札を差し出すだけで通されていく。
順番が来た。窓口の中の係は、浅黒い肌の壮年で、厚い指に銀の飾りのついたペンを持っていた。
「歩いて渡ってきたのか」
「はい。仮の札です」
蒼太は内ポケットから札を取り出し、係員に差し出す。
「確かに受け取った」
係は視線だけで印を確かめ、受け皿へ滑らせる。
受け皿には同じ札が何枚も重なっていた。紙が紙に触れる擦れ音が、風の合間に短く聞こえた。
「戻るなら、また受け取れ」
「はい。……あの、北側に渡りたいんですが、通りを横断できる場所って……」
恐る恐る聞いてみれば、係員は少し面倒そうな顔をした後、ペンの尻で出口を指した。
「川沿いで北へ行くなら、そこの出口を左に曲がれ。橋の下を潜る道がある」
「分かりました。ありがとうございます」
係は軽く頷き、次の者に手を上げた。
蒼太は窓口を離れ、検問所を出る。
橋の腹を抜けてきた風とは違い、ここには街の匂いが濃い。
革、油、木、煮込み、そしてどこかで焼けた砂糖の甘み。川の湿り気は薄れ、ごくわずかに土の温度が戻ってくる。
ここはまだ橋を出てすぐの直線で、すぐ横に広い車道、そのさらに外側に低い石垣、その先に建物の列。
道の続きには、橋からそのまま延びた通りと、左右に走る通りが、十字に噛み合っている。
路面の石の継ぎ目というか表面は東側より幾分粗く、車輪がときどき小さく鳴った。
頭上で、旗がひとつ、風に対して素直だった。
西区に、降り立った。
足の裏に伝わる反発の質が、中央区のそれと違う。
気のせいかもしれない。
胸の奥で、さっき休憩所から見た景色がもう一度ゆっくりと反芻され、目の前の街路の先に、続きの風景が結び直されていく。
ここから先――川沿いの北上が、今日の次の一歩だ。内ポケットの軽さを確かめ、蒼太は西区の地を踏みしめ直した。
係員に言われた通り、左手に目を向けると、川べりへ落ちていく細いスロープが口を開けていた。車道を渡らずに回り込める歩行者の抜け道だ。
蒼太はそちらへ身を傾ける。
石は斜めに敷かれ、目地には薄い苔。日陰の匂いがゆっくり肺に満ち、靴底に当たる感触が乾きからしっとりへ変わっていく。
二、三歩おきに切られた水抜きの溝が、過ぎた雨の筋を黒く残していた。
スロープを下り切ると、ダイカントル大橋の腹が目の前に立ちはだかった。
巨大な石のアーチは二連、いや三連か。
近づくほど曲線は厚みを増し、石の一つ一つにのみ跡がうっすら残っているのが分かる。
角は丸く落とされ、接ぎ目は紙一枚も差し込めないほど詰まっていた。
要の石――要石には控えめな刻印があり、古い職人の印か、建造年の数字か、読み取れない線が確かに刻まれている。
川側の壁面には、流れに磨かれた水線が幾つも走り、増水の季節を静かに語っていた。
ところどころに鉄環が埋め込まれ、係留に使うのか、黒く磨かれている。
アーチの口へ踏み入れる。温度が一段下がる。
天井一面に水の模様が広がった。
川面から跳ね返った光が幾重にも重なり、魚の鱗のようにきらめきながら流れていく。
石は光を飲まず、表面で細く揺らして返すばかり。
音は丸い。橋脚にあたった水がふくらみ、ほどけ、また寄る。
遠くで舟の舷がこつんと鳴り、遅れて反響がひと手、ふた手と返ってくる。
上を走る荷車の重みは低い唸りになり、胸骨の内側で静かに震えた。
歩みと同期して、光の縞が袖口を滑り、肌に薄い冷たさを残す。
足もと、石床の一部が浅く窪んでいる。
長い時間、滴る水が同じ場所を叩き続けたのだろう。
壁際には燕らしい古い巣が残り、今は空だが、糸のような草が一本だけ揺れていた。
アーチのただ中で一度立ち止まり、掌を石に当てる。乾いているのに、奥からわずかな湿りが返ってくる。
車輪の音が、風が鳴る度、橋の体内で鼓動や呼吸を聴いているようにも思えた。
抜け際、横からも光が差し込んだ。
外の世界が、一段高い明度で待っている。
アーチを出ると一瞬だけ眩しさにまばたきが増え、そのまま左手の緩いスロープを上がる。
斜面の先に視界が開け、広い遊歩道が北へ帯のように伸びていた。
腰高の石壁の向こうで、リーリヤ王河が静かにうねりながら南へ落ちていく。
歩き出すと、車道の喧噪が背後に鳴る。
人の声は近いが、小さく穏やかだ。
石のベンチ、花壇、等間隔の灯。
左側には背の低い建物が並び、中央区の直線的な白とは違って、壁はやや色むらのある灰や淡い黄。
二階の小窓には鉢植え、縄に掛けた白い布がひとつ揺れている。
店先の看板は素朴で、食事、衣服、靴修理――必要なものが必要なぶんだけ置かれている気配。
扉が開けば湯気と香草の香りがすっと道に伸び、閉じればまた石と水の匂いに戻る。
道幅は8~10歩ほど。狭くはない。
敷石の角は丸く、足裏の反発が柔らかい。
釣り竿を肩に担いだ男が会釈して通り、子どもが石壁の上を両手で触れながら慎重に歩いていく。
猫が花壇の陰から顔を出し、陽だまりの境界だけを選ぶように移動した。
川べりからは時折、小舟が寄ってきては短い綱を石の環に掛ける声。綱を引く音は湿って短く、すぐ流れの音に溶けた。
少し行くと、並木の間隔が詰まり、前方に柵が見えた。木と鉄を組んだ腰高の柵。
入口の上には控えめな板の看板――〈赤樫の木公園〉。
さて、父さんはどこにいるだろうか。




