1話 転移門
次に蒼太が目を開けると、そこは薄暗い石室だった。
最初に視界へ飛び込んできたのは、灰色の石の天井。
次に、壁。
粗く削られた石肌に、どこから差しているのか分からない淡い光が、うっすらと膜のように張り付いている。
視界はぼんやりと揺れたが、瞬きを二度、三度と重ねるうちに、輪郭がひとつずつ定位置へ戻っていく。
冷たい。空気の温度も、足裏へ押し返してくる床の固さも、現実と同じ密度を持っていた。
「……これが本当に、ゲームの中……なのかな?」
言葉は口の中で自分の声になり、石壁に当たって小さく返ってくる。
夢ではない、と身体のほうが先に言っていた。
立ち上がるために床へ掌を置くと、ざらりとした砂粒の感触が皮膚に移り、指先の体温が石に奪われていく。
拳を軽く握り、屈伸をひとつ。肘と膝の関節が、いつもの角度のまま、いつもの抵抗で曲がった。
「違和感は、ないよな。……感触も」
呟きと同時に、胸の鼓動がほんの少し早まる。視界の端には、もはや何も表示されていない。この身ひとつで立たないといけない――そんな微かな不安が、背筋を凍えさせる。
石室は四方の壁と低い天井に囲まれた、ほとんど何もない空間だ。壁の一面だけ、楕円形に黒く穿たれている。穴の向こうに、やわらかな光が漂っていた。
吸い寄せられるように、開口部へ歩を向ける。足音は乾いた響きを残し、すぐ消える。
肌を撫でる空気は、洞窟のような湿り気を含んでいて、鼻の奥に冷たい鉱物の匂いを残した。
穴をくぐると、通路はゆるやかに広がっていき、やがて視界は突然、円形の広がりに開けた。
そこはドーム状の広間だった。天井は高く、どこまでも滑らかな半球。
壁面は石で組まれているが、ところどころに金属めいた薄板が埋め込まれ、淡い文様が走っている。
広間の中央には一本、柱とも像ともつかぬものが立っていた。
それは樹の幹ほども太く、節目にはめ込まれた宝石が内側から灯りを宿している。
オレンジ色の光は炎ほど鋭くはなく、蜜蝋を透かすようなやわらかな輝きで、広間全体を穏やかに照らしていた。光は石に当たって反射し、壁を流れて天井に淡い輪を描き、また柱へ戻っていく。
光が呼吸している。
足元の石畳にも、ゆらぎが薄く揺れていた。
柱の根元には腰掛けが設えてあり、三人ほどのグループが休んでいた。
革の胴着、短い外套、背に弓。誰かが笑い、誰かが肩を竦める。彼らの視線が時折広間を巡り、また言葉へ戻っていく。
壁面には円形の入り口がいくつも開いており、それぞれがどこかへ通じているらしい。
蒼太が入ってきた通路とよく似た穴もあれば、淡い霧がたなびくように見える入口、階段の段鼻だけが覗く入口もある。
広間の反対側には、上へ向かって数百段はありそうな階段が伸びていた。最上段の先に門が開いていて、地上の光がまばゆく差し込んでいる。
(ここが……)
胸の内で言葉を探し、声に出す。
「ここが……ワープゲート」
自分でも少し可笑しくなる。事前に調べたときの呼び名を、そのまま口にしていた。
ヴァスト・フロンティアにはいくつも“転移門”がある。安全に往還するための施設であり、門と門の間の長距離移動にも使われる。
ここは、そのうちのひとつ――アクアオーラの門。
情報としては知っていたが、実物の前に立つと、文字列で読んだ“機能”という言葉が、はるかに小さく感じられる。圧倒的な“場”の気配があった。
見惚れて立ち尽くしていると、柱の近くにいたグループから一人が離れ、こちらへ歩いてきた。
背の高い男だ。腰の辺りまでの灰色のローブを羽織り、両の掌をこちらに見せ、ひらひらと振りながら近付いてくる。顔立ちは穏やかだが、足取りには無駄がなく、視線にはよく訓練された人間に特有の油断のなさがあった。
「お、初めてか?」
柔らかい声で、だが気配をよく読むような調子で話しかけてくる。
「……え?」
突然の言葉に、思考が一瞬ぶつかり、蒼太はすぐ頷いた。
「うん、そう……です。ここはどこでしょうか?」
男は肩をすくめ、わざとらしく視線をぐるり、広間の空間を描くようにひと回ししてみせた。
「ここはアクアオーラの転移門だ。階段を上がれば街。ほかに比べりゃ穏やかな土地でね。気候も良いし、水も食い物も悪くない。魔の気も薄い。初めて歩くなら、うってつけだな」
口ぶりは軽いが、言葉の選び方に骨がある。
蒼太は思わず頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
「どういたしまして」
男は笑ってから、そっと腕をこちらへ差し出す。瞬きの後、その手には男の身長の半分ほどはある杖があり、先端が蒼太の眼前に突き出されていた。
「……っ!?」
不意を突かれた蒼太は訳も分からず硬直する。
先ほどまでは確かに、何も持っていなかったはずだ。
「なんてな」
蒼太が何か言葉を発するより早く、男がくるりくるりと杖を回して、お茶らける。
「いきなり悪かった。だが、油断はするなよ」
手首の返しは癖になっているらしく、何度も同じ所作をしている人間の、身体に刻まれた最短の軌道だった。
「……初めてのやつに言う定番の忠告なんだがね」
杖の回転が止まる。
「最初は、目に入ったものを全部試そうとしないことだ。その日の目的を定めたら、そこにだけ行き、それだけやる。これが大事だ」
「は、はい」
「一歩目を学ぶにはいい街だが、油断も育てる。……で、調子に乗った駆け出しがつまずく。何度も見てきた」
言い方はきつくない。けれど、笑い話の調子に、実感の重さが混じっていた。
「ま、この街の中ならそうそう危険も無いが、それでも気を抜けば怪我くらいはする」
男は階段のほうへ顎をしゃくる。
「あの階段を上がれば地上。門を出て、道を少し行けば、白いでっかい建物がある。それがターミナルだ。嫌でも目につくから分かるだろう。入ってすぐの窓口で事情を話せば、だいたいのことは何とかなる。紙の地図も、そこでタダで配ってる」
「ターミナル……紙、の地図……」
思わず復唱してしまう。男は頷き、続ける。
「あぁ紙だ。ここじゃ電子の案内はない。魔素が邪魔するんでな」
魔素。
調べものをした中でも、最もよく目にした単語だ。
この世界特有の素粒子で、魔法だとか魔物がこの世界に存在するのは、こいつの影響らしい。
あとは、他の物質に浸透することができ、物質を巻き込んで変異することで、精密機器の動作を阻害する困りもの。
「だから己の目と鼻と耳を使う。街の音と匂いは、だいたい道を教えてくれる。川の匂いが強くなれば川沿い、焼いたパンの匂いが強ければ市場。鐘が近ければ広場だ。困ったら、匂いのする方へ行く」
「匂いのする方……」
「あとは、橋だ。この町は川が多い。川が多けりゃ橋も多いって寸法だ。こっから一番近いのは、中央区と西区をつなぐでっけえ橋だな。機会がありゃ行ってみな」
ラキムは続ける。
「街の大門だの大橋だのを通るときは通行証の札を出すんだが、初めてなら係に言えば仮の紙がもらえる。この街の通行証は大したもんじゃないが、念のため、札だのは腰の外側じゃなくて、上着の内側に入れとく習慣をつけるといい。人が多いと、手が多くなるからな」
「手が、多くなる……」
頭の中で、短い言葉がひとつずつ杭のように打ち込まれていく。
男は蒼太の顔を見て、少しだけ笑った。
「まあ、そんな怖い顔をするな。ここは“辺境”とはいえ、街は街だ。歩いて、見て、座って、食う。それでだいたい分かる。お前さんみたいなのは、すぐ慣れるよ」
「そう……だといいんですけど」
「そうなる。なるようにできてる」
言い切ってから、男は杖の石突で足元の石畳を軽く突いた。硬い音が、乾いた響きを広間へ返す。
「それとこれは頼みだが。この転移門の内では、声を荒げない。祈りの場に近いと思ってくれりゃいい。誰がどこから来て、どこへ帰るかは、ここじゃ詮索しない。お互いさまってやつだ」
言葉の温度が一度だけ下がり、すぐに戻る。
蒼太は姿勢を正した。
「……分かりました。気を付けます」
男は満足げに頷くと、少し照れたように頭を掻いた。
「これ以上はお節介の範囲を超えちまうな」
そして杖を軽く返し、元のグループのほうへ向き直る。
二、三歩歩いてから、思い出したように振り返った。
「名前は?」
「え?」
「名前。呼ぶのに要る」
「あ、霧生……いえ、蒼太です」
「ソータね。俺はラキム。分かんなくなったら、ターミナルか、またここに戻ってくるといい。誰かしら、同じように口を挟むやつがいる」
ラキムは掌をひらひらさせ、肩越しに笑って見せた。
程なく彼が仲間の元に戻ると、「またお節介焼きか」とニヤニヤとラキムを見て、すぐに談笑へ戻っていく。
短いやり取りが終わると、広間の音がふたたび均される。宝石の光は相変わらず呼吸を続け、壁や天井の文様の上をゆっくりと撫でていた。
蒼太は、しばらくのあいだ、その光景をただ見ていた。
通路からは時折、人影が現れては広間へ入り、周囲を見回してから、それぞれの方角へ散っていく。
厚手の外套の夫婦。背の低い青年と、長弓を背負った女。腰に道具袋を幾つも下げた年配の男は、柱にそっと手を当ててから階段へ向かった。
誰もが自分の“到着”を受け止めるやり方を持っているように見える。
鼻から息を吸い、吐く。
嗅ぎ分ければ、石の匂いに、微かな草の匂いが混じった。
階段の先から差す光は、確かに地上の色を含んでいる。
胸の内で言葉がひとつ、形を持つ。
(まずは、父さんに会わないと)
思い浮かべた瞬間、指先がわずかに冷え、足の裏が床を探す。
宝石は変わらず静かに輝いている。
ラキムは仲間と何か話していて、たまに杖で空を指し、笑いを取っていた。使い込まれた杖の革巻きと指の節の厚みが、短い出会いに余韻を加える。
一歩一歩と石畳の上を歩き、広場を曲りなりに突っ切り、階段の前に立つ。
段は思ったよりも低く、幅は広い。登り始めの一段目に足を掛けると、石が靴底を押し返した。
最初の十段ほどは、広間の光が背中を照らしてくれる。
やがてそれが遠のき、上から降りる光が強くなる。足音は次第に明るい響きへ変わり、洞窟の湿り気は薄れていった。
ちょっとした運動負荷に息が上がるが、呼吸のテンポを意識してみると、次第に軽くなった。
身体が慣れたのか、胸の奥の音も落ち着き、息を深く吸う度に外の空気の気配が近づくのを感じた。
階段には踊り場がいくつかあり、壁には薄い線刻が走っていた。
読み取れる文字ではない。ただ、繰り返し刻まれた線の連なりは、道を行く者への静かな配慮のように見えた。
途中、上から来た誰かとすれ違う。短い会釈を交わし、互いの足音が背中側へ落ちていく。
段を数えるのをやめ、呼吸の数を数えた。四つ吸って、四つ吐く。上がるたび、光はやわらかさを増し、色を増やす。
最後の踊り場を曲がると、正面に門の開口が現れた。
光が、そこに集まっている。門の向こうを覗くと、白いものが見えた。建物の壁だろうか。遠くで水の音がする。風が流れ込み、髪の先を揺らした。
視界の端を、誰かの影が横切って外へ消えた。外の世界は、こちらを待ってくれている――そんなふうに感じられた。
足を進め、門を抜ける。
地上の光が一気に広がる。瞬きがひとつ、ふたつ。
最初に目に入ったのは、石で縁取られた広い広場だった。中央には低い噴水があり、透明な水が絶え間なく湧き、薄い虹を作っている。
広場の縁には簡素な屋台がいくつか並び、編んだ籠や水袋、焼いた穀物の薄餅などが積まれていた。
屋台の向こう、林道の先に――白い、大きな建物が、確かにある。
ラキムの言った通りだった。
白い壁は直線的で、余計な装飾を持たず、窓は高く、扉は開け放たれている。
蒼太が外の空気に慣れようとする間も、転移門の遺跡への人々の出入りは絶えない。作業服の男の群れが入り、旅装束の女の二人連れが出てくる。
幸い、出入り口は広く、彼一人が立ちすくんでいたところで、往来の邪魔にはなっていないようだ。
蒼太は、広場の空気を一度肺に入れ、肩の力をゆるめた。
そして、もう一度だけ振り返る。
階段の口は、地上の明るさの中で、洞窟の影を四角く開けている。薄暗い世界と、ここをつなぐ穴。石の匂いがわずかに漂ってきて、胸の内に静かな重みを落としていった。
そこへ、短い台車がガラガラと押し上げられ、荷を運ぶ男が息を吐き、汗を拭って笑う。広場の喧噪が、影の縁をあっさりと飲み込む。
(僕も行こう)
足を白い建物――ターミナルへ向ける。
父は赤樫の木公園で待つと書いていた。まずはその公園がどこにあるか知るところからだ。
踏み出す一歩目が、現実と“こちら”の間に線を引く。線は細く、踏めばすぐ消える。だが、その線を越えるたび、世界は少しずつ、自分のものになっていくような気がした。
風が吹く。
街の匂いが混ざり合い、鼻腔の奥でほどける。焼いた穀物、油、革、鉄、遠いところの水。胸の鼓動は落ち着き、足取りは軽くなる。
背中を押されるように、林を割って続く道沿いを進んでいく。
地上では低い木々が風に鳴り、葉の影が揺れる。背後には、地面から半ばだけ顔を出した石の円蓋――遺跡のドームが、草の海に島のように浮かんでいる。
林道の脇では、布を張った屋台が湯気を上げ、薄餅の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
縄を張っただけの小さな舞台では、大道芸人が銅の輪を三つ四つと放り、陽に弧を描かせる。子どもが歓声を上げ、母親が笑う。
草笛を売る少年が短く音を鳴らし、蒼太は思わず会釈で応えた。
腰掛け石や丸太のベンチには、到着したばかりの人たちが腰を下ろしている。
靴紐を結び直す者、紙切れに道順を書き付ける者、ただ空を見上げる者。ほとんどは急がず、声は低く、芝と水の匂いがその上を流れていく。
やがて視線の先で林が晴れ、白い壁の全貌が現れた。
余計な飾りのない直線、高い窓、開け放たれた広い門。敷石は中央がわずかに盛り上がり、雨を逃がすために左右へ浅く傾いでいた。石の合わせ目の影から、春の草が糸のように顔を出している。
白い影が肩口に落ちる。門の上には、渦を巻く川と翼を畳んだ鳥の浅い浮き彫り。石段は四段、段差は低い。蒼太は深く息を吸い、胸の奥の緊張を押し下げた。
(まずは地図)
足を前へ。白い壁の影が靴先を飲み込み、涼しい空気が頬を撫でる。蒼太はターミナルの門の下へ踏み入った。
ターミナルの内側は、外から見たとき以上に白かった。
陽光を受けずとも艶のある、陶器のような白。
壁も柱も天井も、余計な装飾を持たない直線で構成されていて、いくつかの出入り口だけが太い筆で引いたように黒く口を開けている。開け放たれた扉の内側からは、人のざわめきと紙の擦れる音が途切れなく流れ出ていた。
一歩、足を入れる。空気が変わる。
外の熱が吸い取られ、石の冷えが肺の奥に届いた。
床は磨かれた灰色の石で、歩むたびに靴底が薄く鳴る。
正面は広いホールになっていて、中央に長いカウンターが並び、その向こうで青い袖の係の人々が、次々と人を受け捌いていた。カウンターの端には、箱形の通信装置がいくつも据え付けられている。箱から伸びる黒いケーブルが床の溝に沿って這い、壁の高い位置で束になってどこかへ消えている。見た目は博物館で見るような原始的な電話に近いが、使い方は皆目見当も付かない。
蒼太は、思わず手首を指で探った。
何もない。聞けば応えてくれるAIの腕輪はここにはないし、振動も声も来ない。それが当たり前だと頭では分かっているのに、癖は簡単には抜けなかった。
代わりに深く息を吸って、鼻に残る匂いを確かめる。油と革、乾いた木、インク、遠いところで煮えているスープの香り。ここでは匂いが標識になる――広間で出会った男の言葉が、あらためて背筋を通った。
カウンターへ続く列の最後尾を目で探し、並ぶ。
前に立つのは旅装束の親子で、子どもが背負った小さな荷には鈴が一つ結わえてある。後ろに加わった蒼太を見ると、親は軽く顎を引いて会釈した。列はするすると動き、やがて蒼太の番が来た。
「いらっしゃい。ようこそ、アクアオーラへ」
出迎えたのは、栗色の髪をひとつに結った女性だった。柔らかな顔立ちだが、目はよく人の動きを見ている。彼女は慣れた手つきで、薄い木札の束から一枚を取り、こちらに差し出した。
「案内が必要でしたら、まずこれに用向きを。旅か、仕事か、移住か。……ああ、書けなくても大丈夫。口で言ってくれても構いません」
「ありがとうございます。ええと、今日は街に着いたばかりで……人を探しています。赤樫の木公園というところで待ち合わせのはずで」
女性はすぐに頷くと、カウンター下の棚から折りたたみの紙束を取り出した。手のひらより一回り大きい、簡易な地図だ。
開かれた紙面には、主要な通りと川、橋、門が、手書きの線を清書したような素朴な図で描かれている。余白には小さな数字が並び、地名と施設名の索引と対応していた。
「こちらが街の簡単な案内図です。赤樫の木公園は……」
彼女は鉛筆を手に取り、地図の左上――西区の川沿いに小さく丸をつけた。紙が鳴る乾いた音が、耳に心地よい。
「ここ。見晴らしのいい木が一本、目印です。こちらのターミナルからですと、西口を出てまっすぐ。川沿いに出るには《ダイカントル大橋》を渡るのが早いですね。橋は歩いて通れますが、荷物には検査があります。簡単なものですので、ご協力をお願いします。通行証をお持ちでしたら見せるだけで済みます」
「通行証……」
蒼太が反芻すると、彼女は「お持ちではないでしょうか?」と確認し、頷きに合わせて続けた。
「初めての方は橋の詰所で紙の仮証を渡されます。こちらはその橋でのみ有効ですので、渡り切った先で返却してください」
「なるほど……」
彼女は言いながら、こちらに見せるように書き込んでいく。
現在地、橋の入口、出口に小さく印を描き、そこから矢印を川に沿って公園の位置を示す場所まで引いた。動きはゆっくりだが迷いがない。描かれた矢印が、そのまま歩く速度を指示しているように見えた。
「ありがとうございます。……すみません、たくさん」
「いえいえ」
女性は、地図を折り畳む蒼太の手元を一度だけ見て、言葉を足した。
「念のため。ここでは道を尋ねるのは恥ではありません。分からなくなったら、近くの人に声をかけてください。『赤樫の木のほうはどちらですか』と、そう言えば通じます。子どもでもお年寄りでも。みんな、この辺りの息を吸って生きていますから」
息。
あのラキムもそうだったが、単語の選び方に、蒼太はこの土地の文化を感じた。
笑顔は短く、すぐ仕事の顔に戻る。列が伸びているのだ。
「もし不安でしたら、この先の筆記台で、地図に印をつけ直しておくと良いですよ。壁の地図にはお渡しした地図には乗っていない情報もありますので、見比べてみるのも良いかもしれません。ほかにご用はありますか?」
「いえ、十分です。本当に助かりました」
「良い日になりますように」
彼女は、祈りでも挨拶でもない中庸の言葉を、自然に口にした。蒼太は頭を下げ、カウンターを離れる。背中に受ける視線は軽い。責務の分だけの重さしかない。
ホールの一角に、長い筆記台が据えられていた。
肘の高さの天板に紙の重しと鉛筆、擦り切れた消しゴム。
天板の前には、地図を広げた旅人たちが、指で道をなぞっている。
親が子に「ここが広場だよ」と教え、老人がひとりで何度も橋の位置を確かめ、商人風の男が手早く印をいくつもつけて畳む。
誰も焦ってはいないが、誰も長居もしていない。
蒼太も空いた隙間に立ち、紙を広げた。
鉛筆の先で、さきほど女性がつけた丸印をなぞり、橋の名前の横に小さく「大」と書き添える。
この道順なら、早速ラキムの言っていた、でっかい橋とやらが拝めそうだ。
西口――と書いたところで、ふと周囲の音がすっと引いた。周りを見渡すが、変わりはない。耳が慣れただけか。
意識せずとも、身体が必要な音だけ拾い始めたのを実感する。
紙を折る音、木箱が擦れる音、遠い鐘の音。匂いは、インクと紙のものが濃くなった。
こちらに来てから、体は軽いし、なんだか頭がクリアな気さえする。
筆記台を離れる前に、もうひとつ、確かめておきたいものがあった。
ホールの奥の壁に、女性の言っていた巨大な都市図が掛かっている。壁いっぱい――といっても大げさではない。古い宗教画のような構図で、街を俯瞰する絵の上に細い金の線が幾筋も引かれ、川と橋と門、それに何かの境界が示されている。石の町並みは擬えて描かれているのに、どこか正確で、迷いがない。
蒼太は壁画の前に立ち、しばらくのあいだ黙って見上げる。
中央区から西区へ伸びる大通りの弧が、絵の中でもはっきりと描かれている。ダイカントル大橋の石組みは黒で強調され、その北に「赤樫」と小さく注記がある。
紙の地図と照らし合わせ、方向感覚を再度、身体に入れる。
橋の向こう側に出たら、川の匂いが背でなく頬に来るように歩けばいい。陽の当たり方は――今は午後、行くべき方角の影は短い。
人波がふっと薄くなった。
区切りのいいところだと感じて、蒼太は地図を畳み、上着の内ポケットに差し込む。内側に入れておけば、誰かの手に触れられることはまずない。
首元を軽く正し、呼吸を深く一つ。緊張はしない性格だと思っていたが、こちらに来てから、どうにも癖になり始めているようだ。
出口へ向かう途中、カウンターの端で、青い袖の係が通信装置に顔を寄せるのが目に入った。
「……中央の荷駄詰所、聞こえるか。西へ、三台ほど出る。――ああ、いつも通りだ。川風が強い」
彼らは誰かに操られているのではない。誰もがこの世界に生きている。
誰もこの場所を“ゲーム”と呼んだりすることなく、世界が世界である筋肉の働きを、淡々と示していた。
ターミナルの西口を示す黒い標識には、飾り気のない文字で〈西門〉とあった。
扉は重そうだが、開け放たれている。
門を潜ると、川の匂いが濃くなる。
蒼太は、背後の白い空間に短く頭を下げた。壁画の静けさと紙の匂いが、しばらく鼻に残っている。
地図は胸に、目は前へ。足はまっすぐ。蒼太はターミナルを後にした。




